「ひろき・・・・・・。」
そう僕の背中へ呼びかけ、引き止める声があった。
声の先には、眠りから覚めたばかりのミクが寝ぼけ眼で僕を見つめていた。
「あ・・・ごめん。起こしちゃった。」
「・・・・・・。」
早く家に帰った日は、ミクにねだられて一緒に寝ることになっている。今日はネルさんも一緒だ。
でも、次の日の朝に僕はミクより先に家を出る。
だから、ミクと一緒にいられる時間は、ほんの少しなんだ。
ミクには寝てても分かっているんだ。僕の体温が離れていくのが。
だから、寂しくてつい目を覚ます。
寂しいのは、僕も同じ。
「もう・・・・・・行くのか。」
「うん。」
「いつごろ・・・・・・帰ってくる?」
その質問は、少しばかり僕の胸を締め付けた。
「ごめん。今日も遅いんだ。」
「そう・・・・・・か。」
ミクの切ない表情が、尚更僕の胸を締め付けた。
一瞬この場から離れたくないと思った。
でも、行かなければならない。
「それじゃあ、お先に。」
そう言い残して、僕は服を着替えた。
荷物を手に取り、部屋を出ようとした。
「待って。」
ミクは、再び僕を引き止めた。
今度はミクが静かにベッドから起き上がり、僕の前に歩み寄った。
そして・・・・・・。
「・・・・・・ミク?」
ミクは自分の顔を僕の胸に押し当てた。
そして、僕の体を強く抱きしめた。
「どうして、そんなに早く行かなくちゃいけないんだ・・・・・・。」
そう訴えるミクに、僕は言葉を失った。
切ない。
どうしてだろう。僕もミクも仕事に慣れた筈なのに。
どうして、僕達は、
離れるのがこんなに辛いんだろう・・・・・・。
言葉を見つけ出せなかった僕は、ミクの温もりをしっかりと心に刻むと、ミクの唇に、そっとキスをした。
「んぅ・・・・・・。」
変な飾りはいらない、ただ、僕の気持ちをミクに伝えるためだけのキス。
それを、ミクは決して拒まず受け入れてくれる。
言葉より大切なものを、僕もミクも知っているから。
だから、これで・・・・・・。
「・・・・・・いって来るね。」
「・・・・・・うん。」
ミクの頷きを聞くと、僕は玄関に向かった。
今日は、特別な日だ。
いつもとは違う、僕の想像を超えたものが待ち構えている。
でも大丈夫だ。
ミクとネルさんから、勇気を貰ったのだから。
博貴・・・・・・。
いつも、仕事で大変なんだな・・・・・・。
わたしも、ネルと一緒にがんばるから・・・・・・。
だから、また、早く帰ってきてくれ・・・・・・。
博貴と一緒に居たいんだ・・・・・・。
少しでも多くの時間を・・・・・・・・・・・・。
いつもの部署へ到着した僕を、一人の人物が待ち構えていた。
僕の同僚であり、信頼の置ける後輩の鈴木流史。
何故だか、彼を見た瞬間、何か畏怖するのもがあった。
「おはようございます。博貴さん。」
彼は何気ない、僕の知っているいつもの鈴木君と変わらぬ姿だった。
この前見たときよりも、清々しいといった表情だ。
にも関わらず、僕は彼に、何かしらの畏怖の感を感じていた。
「さぁ、先ずは、上へ上がりましょう。」
「上?」
確か地下ではなかったのか・・・・・・。
そう思った僕は怪訝そうな顔になっていたのか、すぐに鈴木君は一言付け加えた。
「大丈夫です。付いてきてください。」
その顔はやはり気分が良さそうといった感じだ。
彼に問いかけることも論することもできない僕は、言われるままにエレベーターに乗り込んだ。
エレベーターは地上九十二階を目的の階としていた。
僕は仕事場がある階から更に上の階を見たことはない。その必要がないからだ。
窓も無く、ただ上昇していることを肌で感じながら、僕達を乗せたエレベーターは九十階に到達した。
そこは主に会議用の部屋が並んでいるフロアだった。
見たところ、上層部の機密会議に使用することが用途だろう。
「ここから、地下への専用エレベーターへ乗り換えます。」
平然と言う彼と共に、会議室への扉が並ぶ廊下を奥へ奥へと進んでいった。
「これらの会議室は、その存在自体、一般の社員には知られていません。先程乗っていたエレベーターも、本来なら八十階が限度ですが、上層部のみが知りえるキーコードを入力することによって、それ以上の重要な役割を持つフロアへの侵入が可能になります。」
相変わらず、彼は平然と、むしろ誇らしげに語った。
この前僕の前に姿を現したときは、あそこま憔悴していたのに。
彼に何かあったのだろうか。
奥へ突き当たると、他の会議室のモダンな扉と比べて、見るからに物々しい、一目で警戒扉だと理解がつくような鉄の壁があった。
「ここです。開けるにはキーコードとカードキーを用います。」
彼は慣れた手つきで警戒扉の隣にある端末の液晶画面を指で数回叩き、カードキーを画面にかざし、認識させた。
すると、その警戒扉が胸の奥を揺さぶるような重く低い音を響かせた。
扉は左右に開かれ、そこにはエレベーターと思しき部屋があった。
見るからに狭い。
「さ、どうぞ。この扉は十秒しか開いていられません。」
彼の言葉に推されるまま、僕はエレベーターに足を踏み入れた。
僕と鈴木君は再び狭い小部屋に入り、今度は地下を目指していった。
ここからだ・・・・・・遂に地下へ向かうのだ。僕にとっては未知の領域である。
ふと視線を泳がせた瞬間、僕は戦慄した。
彼の口元は、不気味に歪み、狂気を帯びた笑顔をしていたのだ。
まるで、これから赴く地下に、何かの楽しみがあるかのように。
この先に、一体何が待つというのだ・・・・・・。
ネルと雑音さんのテレビ出演の準備は順調に進んでいた。
俺は番組の予行演習、いわゆるリハーサルを行っている二人を見ながら、彼女達の姿で満足感と充実感を満たしていた。
二人は番組プロデューサーのレクチャーをよく理解し、出演時の手順を完璧に頭に叩き込んだ。
そうだ。俺の期待していた、夢に願っていたことが、現実となっていた。
俺はこの時点で、情報開示されたネルの人気について探っていた。
その場合ネット上のアンケートが一番有効な手口であった。
既にテレビをはじめとするあらゆるメディアでネルと雑音ミクがユニットを組むことが、ピアプロ広報部によって明らかとされている。
アンケート等にも多大な回答が寄せられていた。
結果は驚くべきことに、ネルの活動再開に期待という回答が八割を占めていた。
これなら、もう大丈夫だ。ネルは十分に輝ける。
俺の望むネルの姿は、もうすぐ拝めることだろう。
あとは・・・・・・。
「敏弘さん。一通り番組のリハーサルが終わった!」
「ねぇ、このまま調教室に戻って、少し練習しない?」
リハーサルを終えた二人が、喜び勇んで俺の元へと駆け寄った。
ネル・・・・・・!雑音さん・・・・・・!
「よし。分かった。すぐに用意しよう。本番は目の前だ!」
「ああ!!」
「うん・・・!」
希望は、俺達の目前であった!
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