◇◇◇
年をとった。
肖像画を描けなくなったのはいつからだろうか。
──否。描けなくなっていた、と気付いたのはいつだったか、と考えるのが正しいかもしれない。
若い頃は絵を沢山描いていたし、画家を目指していたこともあった。
しかし、母と画家ニコライ=トールによりその夢を絶たれてからは絵筆を持つことも無くなった。
ルシフェニア革命、その五年後のヘッジホッグ争乱の後──マーロンに併合していたルシフェニアを共和国として独立させ、私は弟にマーロン国の王位を譲り、国を出て旅を始めた。
旅を続ける中、訪れた先々の景色のスケッチをしようと思い立ったのが転機だった。
はじめは持っていた手帳に鉛筆を使ったデッサンだけをしていたが、次第に色鉛筆やパステルやで描くようになり、しまいには水彩絵具を使って大きなスケッチブックに景色を描くようになっていた。
ベルゼニアやレヴィアンタ、エヴィリオス地方の各諸都市を絵を描きながら周り、ルシフェニアに戻ってきた際に偶然、友人の娘と再会した。
小説の執筆を続けていた彼女と同居生活を始め、住居の一部をアトリエとし、本格的に画家の仕事を始めた。
母も、家族も、王家という家柄も、全てを手放して漸く幼い頃の夢が叶ったのだ。
旅先の時と同じく、風景画や静物画を多く描き、国内で発行されている書籍に挿絵を提供して、日銭を稼ぐ日々。決して裕福な暮らしではなかったが、小説家と画家、共にお互いを刺激し合い創作する毎日には何にも代えがたい幸せがあった。
隣国ベルゼニアで定期的に開催されていた品評会に『カーチェス=クリム』の名前を使って作品を出したりもした。皇族主催のその品評会に一度出品が叶ってベルゼニア皇城を訪れた際、ベルゼニア皇帝と顔を合わせてしまい、気まずい空気になってしまったのも懐かしい。同居人が共に喜んでくれたことが嬉しかった。
それを境に、ありがたいことに作品に買い手がつくようになった。
買い手の一人が、凄まじい形相で車椅子を爆走させながら「作品を一つ買うそして娘を返せ」とルシフェニアのアトリエに乗り込んできたのはまた別の話だ。話すと長くなるので割愛する。
その後、縁が巡りに巡って、ベルゼニアの小さな商家の主人から肖像画の依頼を受けた。
久しぶりに人物を描くな、とキャンバスに向かった際、手が止まってしまった。
ノイズのようにキャンバスに残像が走る。夕焼けの海岸を背景に、砂浜に立つ金髪の少女。
私が幼い頃描いた、拙い作品。
(嗚呼、ネイ──)
ネイ=マーロン。ヘッジホッグ動乱の最中、命を落とした私の妹。
魔術と悪魔に踊らされ、取り込まれてしまった、金色の髪が美しかった哀れな少女。
その時、私は自身が肖像画を描けなくなってしまっていたことに気がついた。
人物を描こうとすると、どうしても「彼女」が瞼の裏に現れて消えないのだ。
申し訳ないと何度も謝りながら、その依頼は断った。商家の主人は人が良く、説明する私の支離滅裂な理由に特に機嫌を損ねずに承諾してくれた。

年をとった。若い頃より筆を握り続けるのが辛くなったように思う。
歩けなくなってどれくらい経つだろうか。
きっかけは些細な、よくある事故だ。通りで馬車と接触しかけてしまい、転んだ際に足腰を痛めてしまった。暫く安静にしていたが、年であったことも重なり、そのまま歩くことが難しくなってしまった。
完全に動かないわけではないが、今は車椅子を使って生活している。
「お揃いになったな」と笑った友人の顔はどこか寂しげだった。


◇◇◇
開けられた窓から心地よい風が吹き込み、白いレースのカーテンを揺らしている。
街の喧騒、そして正午を知らせる教会の鐘の音が遠くから微かに聞こえる。
アトリエにした自室の中央、イーゼルの前で車椅子を止めて作業を再開した。
夕焼けの海辺を描こうと思い、イーゼルには画面全体にオレンジ寄りの黄色で下塗りを済ませたキャンバスが固定されている。
画面の左寄りに太陽となる白い丸を仮置きし、濃いオレンジや赤色で夕焼け空を、青や紫で夜へと変わっていく空や海を塗り重ねていく
順調に描き進めていたが、シルエットで黒く人物を描き込もうとしたところで私の手は止まった。
頭痛と共に、かつて描いたネイの肖像画が瞼の裏にフラッシュバックする。
風景画に影を描き込もうとしているだけなのに残像が現れたのは、今描いている画面があの絵と同じく夕焼けの海岸だからだろうか。
ふぅ、とため息を一つ落とし、筆とパレットをサイドテーブルに置く。
このまま風景だけとして作品を完成させるか、と悩みながら窓の外に視線を移した。
台所の方から、同居人が昼食の食器を片付けている音がする。
その時、玄関の呼び鈴がカラカラと乾いた音を鳴らした。
「わたくしが出ますわ」
エプロンで濡れた手を拭きながら、同居人が玄関へと向かう。
「──あの、画家のカーチェスさんのお宅はこちらでしょうか」
子供の声だ。同居人がいくつか言葉を交わした後、どうぞ中へ、と客を促した。
「こんにちは。突然すみません」
椅子に腰掛けたまま声の方を見ると、そこには四人の子供が立っていた。子供達が着ている服にはところどころにほつれがあるが、丁寧に直されている。
「僕たち、あの、海辺の孤児院でお世話になってる者で……」
子供達のリーダーであろう金髪の少年がたどたどしく言葉を繋げていく。
どうやら友人が昔寄付して建てた、海辺のエルド派修道院に隣接された孤児院の子供達のようだ。
そのリーダーの少年の姿に、もう何十年も前に見かけた召使の少年が重なった。
「いきなり伺ってすみません。えっと……」
「構わないよ。どんな用かな? 老いぼれ画家に出来ることは少ないと思うが……」
私は優しく言うと、少年は一つ深呼吸をして姿勢を正し口を開いた。
「今僕等を世話してくれている修道院長が、……その、リンさんっていうんですけど……院長が少し前に病気で倒れてしまって……」
懐かしい、かつて妹のように思っていた「王女」の新たな名前があげられ、突然のことに目を見開いた。続いた「病」という単語に、雷に打たれたような感覚に落ちる。一生懸命に事情を話している為、私が驚いたことに少年は気付かなかったようだ。
「僕ら捨て子で、物心つく前から修道院長に育てて貰ったんです。ずっとずっとお世話になった修道院長に、何かお礼をしたいと思っていて……その……」
じれったそうにしていた、横にいた身体の大きな少年が割り込む。
「なにか願いはないですかって聞いたら、『ずっと昔に出した手紙の返事が欲しい』ってぼそっと言ったんだ。『叶うはずのない願いだから忘れて』とも言ってたけど、俺達でなんとか叶えてやりたいんだ。」
付け足すように、少年達の後ろに立っていた少女が口を開く。
「街中……いや、国中走り回って、リン修道長が手紙を出した相手を探しているんですけど、わからなくて。それで、さっき市場で、貴方が知ってるかもしれないって聞いて……」
「私が……?」
『カーチェス』と『リン』が昔馴染みの知り合いだということはほんの一握りの人間しか知らない筈だ。むしろ、彼女のことを思うと知られてはいけないのだが──。チラリと同居人を見やると「わたくしじゃありませんよ!」と目で訴えてきた。では誰だろう。クラリスか、ジェルメイヌか……いや、彼女達なら手紙の送り先の答えを既にそれとなく教えているか……。
手紙の送り先。リリアンヌの過去の事を考えれば、彼女の身代わりとなって処刑された召使──アレン=アヴァドニアが、彼女が手紙を出した相手だろう。
「そのこと、誰に聞いたんだい?」
「大通りの画家屋の店主さんに……」
ああ成程。ルシフェニアに住むようになってから何度か、リリアンヌとは通りや市場で出会うことがあった。買い物をしたり帰路を歩きながら他愛ない話を交わす程度だったが、それを見かけた画材屋の店主が、私たちが古馴染みの仲だと思ったのだろう。
「そうか……彼女が……」
「やっぱり、お知り合いなんですね!」
よかった、と喜ぶ子供達に反して、私の心持ちは穏やかではなかった。彼女の秘密は簡単に話していいものではない。ここは知らないと上手く誤魔化して、返す他はないだろう。
眉をひそめたままの私に何か察したのか、子供達は揃って肩を落とす。少女の後ろに隠れるようにして立っていたもう一人の少女がスンスンと鼻をすすり静かに泣き出してしまった。
優しい修道女。母のような存在。子供達にとって、それが彼女だ。
物心つく前の赤子から子供を育て、世話してきた。今子供達が着ているほつれた服を直したのもリリアンヌ──リンなのだろう。
リンがどれだけ子供達に優しかったか、良いことをしたか、それは今の子供達の表情からも明らかだ。
長い間、後悔と慚愧の念に苦しみながら、善行をし続けた。
彼女罪は決して許されない。しかし、最後だけ、最期だけなら……少しの許しがあっても良いのではないか。
「……わかった。あまり詳しくは語れないが、私が知っていることを少し話してあげよう」
その言葉に、ぱあっと子供達の顔が輝く。
それを見て、気を利かせた同居人がアトリエの端に並べられた小さな椅子を四つ子供達の前に運んできてくれた。
「皆さんだけの方が良いでしょう? 私は買い物に行ってきますね」
ふわりと笑い、同居人は帽子を手に取り玄関の方へと歩いていった。
カーテンの開かれた大きな窓から、暖かい太陽の光が差し込んでいる。
少年達を椅子に座らせて、私はゆっくりと口を開いた。
「……結論から言おう。申し訳ないが、君たちにその願いを叶えることは不可能だ」
「そんな……」
「彼女はね、かつて人を殺したことがある。多くの人が不幸になって涙を流した。その事を悔いて、今は修道院に身を寄せているんだ。……彼女が手紙を送ったのは、その時に死んでしまった、もうこの世にはいない人だ。だからね、返事はもう来ることはない」
革命の最中、処刑台に消えた召使の少年。彼女の双子の弟。リリアンヌの最後の肉親。
彼が囮になり、王宮から逃がしたその瞬間まで、彼女は彼が弟だという記憶を失っていた。全てを思い出し、自らの罪に気付いたのは、全てが終わった後だった。
死した彼に宛てて送った手紙。返事がくることのない手紙。
それでも、彼女は待つのだろう。その身が朽ち果てた後でも、ずっと。
「……そうだ。君が、手紙をかいてあげたらどうだい?」
目の前にいた少年が、「彼」に少し似ていたからかもしれない。私はそんなことを口走っていた。
「でもそれじゃ、本物の返事じゃないよ……?」
「彼女が育てた君達が書いた手紙なら、たとえ偽物だとしても彼女にとっての救いになると思うよ」
お互いに顔を見合わせた後、子供達は私の方を向いて頷いた。礼を言いながら立ち上がり、玄関の方へと歩を向ける。修道院に戻り、早速手紙を書くのだろう。
「車椅子だから、ここでの見送りですまないね。気をつけて帰るんだよ」
「はい。カーチェスさん、本当にありがとうございました」
「ありがとう、おじちゃん。バイバイ」
泣いていた女の子が、少女に手を引かれながらヒラヒラと手を振った。
その背中に──
──バイバイ」
──もしも、生まれ変われたらその時は」
──お義兄ちゃんやリリアンヌ、それにアレン」
──みんな一緒に、仲良く遊べるといいな」
その背中に、赤い悪魔に手を取られ、海へ消えていった彼女の最後の言葉が頭をよぎる。
「もしも生まれ変われたら、か」
アレンは革命の最中に死んだ。
ネイは争乱の最後に死んだ。
リリアンヌももうこの世を去ろうとしている。
私も、直に天に召される日が来るのだろう。
生まれ変わって、今度は四人で仲良く出来たら、それはどんなに幸せなことか。
筆を手に取る。意を決して、キャンバスの中の夕焼けに向かい合った。

年をとった。眠るように死ねたなら、人間それが一番幸せだ。
あの革命や争乱はもう、何年も……何十年も前の話だ。
キャンバスに筆を走らせていく。何時間そうしていたか分からない。
ただ無心に筆を走らせ、絵具を重ね、描き足して、描き足して──
出来上がった作品を見つめて、背もたれに背を預けた。
部屋の中に夕日の赤い光が差し込んでいる。
(嗚呼、赤い──あの時と同じ、赤い夕日だ。)
そうして、私は目を閉じた。


◇◇◇
「ただいま戻りましたわ」
玄関の扉を開け、女性はアトリエにいるであろう男に声をかけた。赤色のワンピースと、縁の広い白い帽子がふわりと揺れる。バゲットの端が飛び出した紙袋を抱えながら、女性は部屋に入ってくる。
「画材屋さんに寄っていたら遅くなってしまいました。溶き油がもうすぐ無くなりそうだったので買ってきましたよ。──あら」
アトリエを覗き、キャンバスに描かれたたものを見て彼女は目を丸くした。
夕焼けの砂浜。そこには、彼女が出かける前には描かれていなかった四人の人物が描き込まれていた。海辺で遊ぶ金髪の双子と、二人を見守る青い髪の青年。そして、青年の傍らに立つ金髪の少女。
彼女は一目見てその四人が誰を表しているのか分かったが、あえて口には出さなかった。
「人を描くのは苦手だっておっしゃってませんでしたっけ?」
言って、彼女は車椅子に座った男を振り返る。
そして、静かに目を閉じたその男の姿に息を飲み、一筋の涙を流した。
「……おやすみなさい、カイルさん。よい夢を」

もしも生まれ変われるならば、その時は──

この作品にはライセンスが付与されていません。この作品を複製・頒布したいときは、作者に連絡して許諾を得て下さい。

とある画家の肖像

楽曲「待ち続けた手紙」の画家の老人──肖像画が描けないカイル王の話。
カイルの作風は17,18世紀イギリスロマン主義の画家ウィリアム=ターナーの作品のイメージです。作中でカイルが描いている油絵は、ウィリアム=ターナー《赤と青、海の入り日》(1835頃)を参考に描写しました。
『肖像画』は葬礼美術から派生したっていう歴史が大変エモい。

公式コラボ悪ノSS 2作目
9/19 誤字を修正しました

閲覧数:729

投稿日:2018/09/19 14:43:43

文字数:5,534文字

カテゴリ:小説

ブクマつながり

もっと見る

クリップボードにコピーしました