リンの問に、神威は少しばかり苦笑した。
こちらが話をはぐらかそうとしたことが分かったのだろうと、リンは直感する――なんて頭のいいヒトだ。
けれど彼は敢えてそれ以上の追及はせずに、さらりと答を口にした。
「決まっているだろう、リンを買いに来たのだ」
何か深い理由や言い訳でもあるのだろうかと期待をしていたリンは、そのあまりに真っ直ぐな言葉に目を瞬かせる。
物腰穏やかで気が弱いのかとも思えば、こんな場面では驚く程に潔い。
少し間を空けてから、彼に言うことがあるではないかとやっと気が付き、慌てて言葉を紡いだ。
「もう来ないで下さいと申し上げた筈ですが…理由もなくお越し下さったんですか?」
神威が此所へ来た言い訳は、先に聞いたのだ――彼の勝手だと。
けれどそれは言い訳で、理由や目的は聞いてはいなかった。
彼が自身の意思で勝手に遊廓へ行くことには、リンが口を挟む謂われなどない。
そう言った遊びを好むような男には見えないが、金のある男が夜な夜な飛び回ったところで遊女の己にはそれを止める意味も、手立てもないのだ。
しかし、今はそうではない。
神威はわざわざ、帰れやら来るなと言ったリンの元へと来たのだから。
客の情惹きは、女郎の定石。
けれどリンはこの男に対しては、客として気を遣ったことも情を得ようとしたこともないと断言出来る――途中、そう思ってしまったことはあったとしても。
なら、何故彼はこの廓に、リンに会いに来たのか。
その藤色の瞳を見据えていると、男は自嘲のように目を細めてリンを見つめ返した。
「自分でも、よく分からない。ただ、この数週間ずっと…リンに会いたいと思っていた」
そうして、そんな表情のまま遊び人にも顔負けのような歯の浮くことをのたまったのである。
予想外の言葉に、リンは呆気にとられてしまった。
「なに、を…」
彼ほどに真面目一徹のような男が照れることもなく口説き文句を口にするなど、考えられないことだ。
何を言っているんですか、と返そうと口を開いたリンだったが、声を出したことで、それまでは呆けていて理解し切れなかったその言葉が、身体に浸透した。
――神威が、リンに、言っているのだ。会いたかったのだと。
すると、言われた彼女の方が急に恥ずかしくなり、体が震えて口を噤んでしまう。
客から会いたかったと言われても、それは社交辞令かリンのカラダのことなのだからと気にしたことはなかった。
けれど神威は違う。
彼だけは、違うのだ。
「…も」
「ん、何か言ったか?リン」
神威本人は気にしていないのだとしても、リンの中では最早否定出来ない程に、圧倒的に違う。
「いえ」
思わず口にしてしまった言葉に、これ以上の嘘は吐けない。
――『私も』会いたかった。
本当はずっと待っていたのだ、彼にそう言われて嬉しくない訳がない。
頬が熱くなるような感覚は随分と昔、きっとこの遊廓に来るよりも前から経験していなかったもの。
神威本人の前で、その言葉に肯定の意味など返せる訳はないことだと分別はしている。
しかし、それでも熱くなる頭と、締め付けられるような胸の痛みは治まることなどなく、リンは思わず俯いた。
「その様に言われて、私が信じると?」
なんとか平静を装って場を取り繕わなければと口を開くと、思ってもいない言葉が勝手に滑り出た。
違うのだ。
彼だけはきっと、嘘を吐くことはないだろうと思っている――信じているのとは、少し違う――それなのに。
もしかしたら、傷付けてしまったかも知れない。
慌て顔を上げると、神威は傷付いたというよりは、そう言われるだろうことを分かっていたかのように静かな表情を浮かべている。
「そうだな」
そして、リンを見て無理矢理のように口角を上げながら小さく同意をした。
「前回会った時も、リンは人など誰も信用などしていないような…そんな目をしていた。
だから私は、そんな君をどうにか――いや…まあ、まだ一度会っただけだ、信じてくれなくても構わない」
静かに指摘され、否定をする気にはなれなかった。
確かに、そうなのだ。
リンはこの廓に来た日から、彼女が慕う姐でさえも本当に信頼をしたことなどない。
ただ、もし信じている人間がいるとすれば、レンだけ――そのレンも、ここ最近は連絡が取れなくなってしまったのだけれど。
神威の言葉に耳を傾けながら、最早彼とは違い清廉潔白もない己の汚れに心の内だけで自嘲する。
きっと彼は、そんな君をどうにかしてやりたいと思うのだと。そう言おうとしてくれていたのだろう。
けれど確かにリンが神威と会うのは二度目、そして彼は客なのだ。
彼は嘘を吐くような人間ではないのだろうとリンが思っても、それをわざわざ否定する意味もなかった。
第一、仮に神威がリンを憐れんで買ってくれたのだとしても――理由など、もうそれ位しか思い付かないのだけど――関係ないような気がした。
今更気付く、考えずとも同じこと。
「まあ、私が神威さんを信じても信じなくても…帰って下さいと言おうとも、どうせ帰ってなど下さらないんでしょう?」
わざと偉ぶった言い方をしてみると、神威は虚を衝かれたようにリンを見た。
目を瞬かせる様にリンがくすりと息を出すと、男は一本取られたとでも言うように、楽しげに笑う。
「ああ…そう、だな」
その態度や言葉は、どうやらリンが彼の訪問を認めたらしいと判断したことによるものだろう。
きっと彼には理解出来ないだろう、その理由はともかくとしても――自分の為にそこまで行動を起こしてくれようとする人間など、リンにはいなかったのだ。
レンでさえ、喩え同じ境遇に身を置いていようとも救うことも、救ってやることも出来なかったのだから。
「それでは神威さん、今宵は何をお求めに?」
淡く笑っては自分の考えを振るうと、リンは神威に尋ねた。
しかし、今度は先程とは意味が違う。
何故この場に来たかではなく、今、これから彼がリンに何を所望するかということに対しての純粋な問だった。
まあ、此処は遊郭なのだから大抵の客にとってはリンのような小見世の女郎とただ話をしに来ただけなど有り得ない話なのだが――粋を装いたいのならば別としても、彼女のような位の低い遊女にそこまで気を遣う必要などはないが――神威は別である。
男は先日来た時も、リンの歌を聞いて眠るしかしなかった。
もし今宵こそは体を重ねたいと思っていたのだとしても、リンにそれを非難する謂れもなければ彼に対して失望などもしないだろうが、きっと神威はそうは言わないだろうということはリン自身確信していた。
しおらしい振りをする必要もないので顔を上げて彼を真っ直ぐに見据えていれば、男はリンを憐れむように笑った気がした。
「ではまた、歌でも」
その表情は神威に対しては初めて見るもので、リンは一瞬言葉に詰まる。
今までの客の中に、彼女ら女郎に対して欲望を預けながらもその境遇について憐れみの声を上げる者も、いるにはいた。
けれども神威がそれをリンに向けるなどということは彼女にしてみれば彼がこの廓を再び訪れたということよりも意外であり、喩えそれが彼が此処へ来た理由だろうと自分自身では推測していたにせよ、少なからずの衝撃であったのだ。
――彼はリンを憐れんでいたとしても、それを彼女自身に悟らせるようなことはしないだろうと思っていた。
「…分かりました」
一瞬見たかどうかのその表情に囚われてしまいながらも、リンは頷く。
理解はしていた筈なのに、彼に同情をされることを辛く感じるのは馬鹿げていると、自分自身に言い聞かせながら。
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