「お前の、嫁ぎ先が決まった。ミク」
その言葉に、彼女はただ目を見張っていた。
思いもよらないことを告げられた驚きが、その表情には現れていた。
無理もないとカイザレは思う。
世の娘なら誰しも、特に貴族社会の娘ならば、年頃になれば真っ先に持ち上がるのが結婚の話だ。身分の高い娘ならなおのこと、本人よりも早々に周囲が騒ぎ出す。
今年、十六を数えた少女とて例外ではなく、宮廷で最も高嶺に咲く花と囁かれる彼女への求婚は、既に二年も前から引きも切らなかった。
けれど、彼女はそんなことは知らない。それらは全て、彼自身が握り潰し、妹の耳には何一つ届かせずにきたからだ。
求婚どころでなく、すでに結婚相手が決定したなどという話は、彼女にはまさしく青天の霹靂に違いなかった。
「どこ、に・・・」
半ば呆然としたまま、少女が問う。
「シンセシスだ」
「シンセシス・・・」
彼の短い答えには、鸚鵡返しの呟きが返った。
「シンセシス・・・たしか、貿易で栄えている国ね。現国王の御名はレオンと言ったかしら。まだお若い方だと聞いたけれど」
ぼんやりと記憶を探る声はまだどこか空ろだったが、最初の驚きはいくらか醒めてきたのか、強張っていた肩がぎこちなく下がっていくのが見えた。
「即位なされてから四年か五年・・・まだ独り身でいらしたわね。正妃はおろか愛妾さえ一人も迎えられていないと・・・」
「当たり前だ。仮初とはいえ、ボカリアの公女を嫁がせるのに、妾妃の扱いなどさせるものか」
聞きたくもない男の話題を強引に遮って、カイザレは口を挟んだ。
「別にシンセシスと縁を結ぶことが目的じゃない。間違えないでくれ。婚姻はただの隠れ蓑だ」
口早に言い募る言葉が、ひどく必死で弁解じみていると我ながら思う。
滑稽だ。何の言い訳だろう。自らの口で命じておいて、この婚姻がカイザレの本意でないなど、妹に知りようはずもないというのに。
「北のクリピアを治める王女の実力を量りたい。これは、そのためのお芝居だ」
「・・・クリピアの?」
「内戦が終結して王女が即位してからの4年で、クリピアの国境は周辺の小国を飲み込みながらずいぶんと南下してきている。このままでいけば、いずれボカリアと接するところまで侵攻してくるだろう。その時、かの国がわが国にとって、どれほどの脅威となるかが知りたい」
大きな碧い瞳が、ゆっくり二度ほど瞬いた。
「私は、何をすればいいの?」
そう問う声は、思いのほかしっかりとしていて、いつもの冷静さを取り戻したように聞こえた。
「シンセシスは今、クリピアと国境を接している。特に国交は持っていないが、敵対もしていない。婚姻を機に式典に招くなり、交流を持つなりして、直接、彼女と会う機会が作れればいい。なるべくこちらが警戒されない、自然な形で」
予想していたよりもずっと落ち着いて見える様子ゆえか、それに答える自身の声も無様に震えることはなかった。
彼の心を置き去りに、唇は何かを読み上げるように淡々と決まったことを告げていく。
さすがに緊張しているらしい妹の表情の硬さには気付いていたが、今、安心させるために笑いかけることは出来なかった。そのくせ、嫌ならやめても良いと告げることも出来ない。
そう問い掛けて、今まで彼女が嫌だと言ったことなど一度もなかったからだ。
『やるわ!任せておいて。絶対に成功させるから!』
今また、そんな言葉を聞きたくなかった。
挑戦的に瞳を輝かせて、嬉しそうに微笑むその唇から、この婚姻を望む言葉など聞きたくなかった。
会話が途切れ、二人の間に沈黙が落ちる。
言葉なく見つめてくる湖水色の瞳が、まるで何かを望むように縋るように潤んで見えて、カイザレの心が一度は宥めた迷いに揺らいだ。
父が決めたこの計画を、カイザレが呑んだのは、あくまでこれが本気の婚姻ではなくお芝居であるという前提の上だった。
目的さえ早々に果たせばすぐにでも少女を取り返すことを繰り返し確認して、ようやっと受け入れた決断だ。
けれど、父と自分の間には確実に意識の温度差が存在していることを、カイザレは敏感に感じ取っていた。
確かに大事な一人娘ではあり、本気で嫁がせるにはシンセシスのような小国ではいささか不足と思わぬこともないとは言え、カイザレほどには娘に執着を持たない父は、恐らく状況次第ではお芝居が真実になったとしても良いと思っているのだ。
クリピアの王女の出方次第では、その実力の程を量るにも、それへの対策を練るにも時間がかかるだろう。もし状況が長引くようであるならば、王妃ともあろうものがいつまでも夫を拒むことは難しい。そうでなくとも、彼女自身が夫を気に入るようなことがあれば、どんな状況だろうと相手を拒みようもない。
大公は別に、その時はその時で構わないと思っているのだ。いざとなれば婚姻を破棄させる理由など、別にいくらでも作り上げられるのだから。
カイザレにしてみれば冗談ではない。そんなことを許すくらいなら、クリピアの王女の元へ自ら直接乗り込む方がはるかにマシだった。
そう訴えはしたが、父は聞き入れなかった。
国内外に戦火の耐えないクリピアに下手を打てば、全面的な戦争にすらなりかねない。クリピアは直接相手取るにはリスクの高い相手だ。シンセシスをその盾として利用するならば、万が一のことがあっても、クリピアに狙われるのはかの国だけで済む。それ以上の有益な策が出せなかった以上、彼の反対など通る筈もない。カイザレには引き下がるしかなかった。
――けれど、もしも。
もしも彼女自身が拒むのなら、その時は例え父の意に逆らってでも。
「ミク・・・」
行くな、と。
彼女の意思を問うよりも先に、己が望む本音が溢れそうになって、カイザレは喉まで出掛かった言葉を咄嗟に呑み込んだ。
誰にも渡したくはないのだと、身の内で叫ぶ貪欲な声が今にも堰を切りそうだ。
脆くも崩れそうな自制心を捕まえるように、片腕を掴んだ指に強く力を込める。
どうして、そんなことが言えるだろう。
兄として装う顔の下、自分がどんな浅ましい想いを抱いているかを知れば、無心に家族の愛情を信じて慕ってくる少女は驚き、きっと嫌悪するだろう。
その瞳に裏切られた悲しみの涙を浮かべ、拒絶の眼差しを向けられるなど耐えられようはずもない。
欺いていると知りながら、向けられる笑顔も信頼も、一欠けらとて手放せないのに、その何もかもを失ってしまうくらいなら・・・!
衝動に蓋をするように頑なに口を閉ざしたカイザレに、その様をどのように捉えたものか、少女は静かに瞼を伏せた。諦めたように。
「・・・わかりました」
ぽつりと落ちた小さな声は、けれど音のない部屋で彼の元まではっきりと届いた。
再び瞼の下から現れた碧い瞳がカイザレを通り過ぎ、その背後、壁に掲げられたボカロジアの紋章を見つめる。
引き結ばれた唇がゆっくりと解け、その言葉を紡ぐのを、彼はまるで死刑の宣告を聞くかのように聞いた。
「ボカリアの公女として、シンセシスの国王へ嫁ぎます。・・・それが、私の務めなら」
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ちょっとだけお兄様サイドの幕間。カイザレ様、一人でぐるんぐるんしてる場合ではないすれ違いがここから始まってます。
第23話に続きます~。
http://piapro.jp/content/ep8rcqm1rq5m683r
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