2.
小学校の高学年になった頃だ。
急に勉強というものに価値を見いだせなくなった。
……いや、理屈としては理解できていた。勉強ができれば、成績がよければレベルの高い高校に行けて、さらに勉強していい大学に行ける。そうすれば大企業にでも就職できて安定した高収入を得られる。
全ては、将来いい生活をするため。
だからいまのうちに、頑張って勉強しなくちゃいけない。
……けれど。
そんな将来なんて、僕はなにも魅力なんて感じなかったのだ。
……あのファンタジーめいた夢を見るようになったのも、それくらいになってからだと思う。
将来のことなんてどうだっていい。だから、そんなどうだっていいことのために勉強するなんて、もはや意味不明なことですらあった。
であると同時に、生きることも、食べることも、なにが楽しいのかわからなくなった。芸能人もスポーツ選手も俳優もアーティストも、なりたいと思うものなんてなかった。
そう考え続けて、中学生になり、高校生になった。
母さんとは話をしなくなり、なにを問われても「問題ない」とだけつぶやき続けた。
将来に対する無関心はやがて絶望へと変わり、時間が経つにつれてより強固な意思となっていった。
いまではもう、生きることに絶望すら感じている……つまるところ、死にたがりなのだ。
◇◇◇◇
「うわヘタクソ。あんたマジで絵の才能ないわ」
「……わかってるから。いままさに思い知らされてるから。だからそれ以上僕の心をえぐらないでくれる?」
昼休みも半分過ぎた頃。
僕が机に広げたノートをのぞきこんで、美紅がぶしつけなことを言う。
うん。まあ、しかし……否定の余地はない。下手だ。実は、同じ夢を見るようになってから、幾度となくこの光景を描いてみてはいるのだが、ちっとも上達するきざしが無い。でも、別に美術部に入ってまで描こうとは思っていないから、絵を描くことに対して向上心があるわけではない。
……単に絵を描くのが向いていないんだろうな。
本当はかなり手前の段階で「いつも通り下手だ」と気づいていたのだが、完成までは努力した……というより、ヤケクソになってとりあえず完成させたことにしたってだけだ。
一応、一番遠くの山脈はサマになっている……と思いたいが、氷雪の様子なんてわかりもしない。広大な針葉樹林はただの真っ黒なぐちゃぐちゃだし、丘陵はなにもない白紙状態。白磁の聖都に至ってはなんだかよくわからないトゲトゲだ。
「でもこれ……」
ヘタクソだと断罪したクセに、美紅はそれをやけにマジマジと眺める。
「……もういいだろ。恥ずかしい」
「ちょっと待ってよ」
「ヤだよ。いじめか」
なぜか見たがる美紅を押しのけ、僕はノートを閉じる。
「いいでしょ。ちょっとくらい」
「アイス一口みたいな気軽さで、僕のわずかな自尊心さえも傷つけようとするな」
「そんなんじゃないってば」
「ええい、やめろ」
下手すると僕からノートを奪い取とろうとしかねない雰囲気を察して、僕はノートを抱えて席を立つ。
「あ、こら。待ちなさいよ」
「やだよ」
美紅の声に冷たく返答し、僕は教室を出た。
目指す先は決まってる。誰もいない屋上だ。
廊下を早足で歩き、階段を一段飛ばしで登り、ドアを開けて屋上に。
「……」
他人を気にする必要がない、数少ない空間。
僕はノートを放り出してその場に寝転がり、四肢を伸ばして大の字になる。
直後、がちゃ、という音が。
「逃げるんならさあ。いつも同じとこにいくの止めなさいよね」
やれやれ、なんて言い出しそうな声。
聞き慣れた美紅の声だ。
「……」
「はぁ。ったくさぁ」
視界は蒼穹。
快晴の深い青色のはずなのに……それはひどく色あせて、まるで無彩色みたいだ。
あの夢での光景の方がよほど色鮮やかに思える。
僕はわざわざ美紅の方を向いたりしなかった。
何歩か歩いて、右側でなにかを拾う音。
……僕のノートだろうけど、見られることに関してはもうどうでもよくなっていた。あれだけ嫌がった僕をまだ茶化そうとするほど、美紅はこっちの空気を読めないわけではない。もともとお互いに気は許しても、干渉過多にはならないような距離感を自然と保てる間柄だ。でなきゃとっくに仲たがいしている。
少し離れたところで、美紅が寝転がる音がする。
そこでようやく僕はそちらを見ると、寝転がったまま真上に僕の描いたヘッタクソな絵を掲げている美紅がいた。
「見るなよ」
「……」
どうしてそこまで、美紅がその絵に執着しているのかわからない。けど、まあどうでもいい。誰かに言いふらしたりするようなやつじゃないから、他人の前でなきゃ好きにすればいい。
僕は内心でかぶりを振って、上空に視線を戻す。
ムカつくくらいの深い青。
ともすれば吸い込まれそうなほどの。
僕と美紅は、友達……という表現にはいささか違和感がある間柄だ。
もちろん、恋人なんかじゃない。
ただ、共通点があった。
友達が少ない……ほとんどいないとか、人付き合いが苦手だとか。
そういうのもあったけど……最大の共通点は、やらなければならないことに対して、全くやる意義を見いだせない、というところだった。
そういう意味では、友達とか友人というよりも、同志とか仲間といった表現がしっくりくる。
そう。彼女も僕と同じ、死にたがりなのだ。
彼女は臆病な僕と違って……昔、本当に一度成し遂げかけたそうだが。
「ねぇ。これさ……どっかで見た景色?」
やけに真剣な美紅の声音に、僕はびくっとする。
「……そ、そうじゃないけど」
「嘘」
確信に満ちた断定に、僕は内心が見透かされたみたいで動揺してしまう。
思わず身体を起こして美紅を見ると、彼女は寝転がったままこちらを向いていた。なにか大切なものでも見つけたみたいに、僕のノートを胸に抱いている。
その視線は真剣そのものだが……とはいえ、夢で見た景色を描こうとした、なんてちょっと恥ずかしくて素直には言えない。
「な、なんで……そう言いきれるのさ」
「それは……」
僕と同じように言い淀み、口をつぐむ美紅。
少しだけ見つめ合い、お互いに気まずくなって視線をそらす。
「……」
「……」
僕はまた寝転がり、視界を蒼穹で埋める。
僕らはそのまま、お互いに黙ってただぼんやりと昼休みを過ごした。
寝ようかな、なんて思ったものの、さっきのやり取りのせいか、どうにも目が冴えてしまっていた。
そして、そろそろ昼休みも終わりかな、なんて考えていた頃に、ふと思い出しでもしたかのように美紅がつぶやく。
「まだまだ先は見えないので――」
「――っ!」
それは、夢の中のあのちょっと変な少女の言っていた言葉と一字一句変わらなかった。
僕しか知らないはずのその台詞に、戦慄と共に飛び起きる。
「美紅、お前――」
――まさか、僕の夢の世界を知ってるのか……?
言えるわけがない疑問が、頭の中を巡る。
美紅と目が合うが、彼女は口にするつもりなんかなかったのに、という感じで目を丸くして口元を押さえていた。
「……」
「……」
沈黙の中、キーンコーンカーンコーン、と昼休みの終わりを告げるチャイムが響いた。
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