巡音さんは同じクラスなわけだから、何かというとその姿は俺の視界に入る。授業を受けているところや、初音さんと話しているところ。俺は何度となく、その姿を目で追ってしまっていた。……いったい何をやっているんだ、俺は。下手をしたら俺の方が危ない奴だぞ。
 そうこうするうちに放課後になった。初音さんが手を振って帰って行く。俺は巡音さんに声をかけることにした。
「……巡音さん」
 巡音さんが弾かれたように顔をあげる。俺が近づいていたことに気がついていなかったようだ。何だか落ち着かない様子だけど……。
 あ、そうだ。戯曲の話の前に姉貴からの話をしておかないと。朝のうちに言っておこうと思っていたのに、コウが起こしたごたごたのせいですっかり忘れていたぞ。
「先にちょっとお姉さんの話をしてもいい?」
「え……ええ」
「姉貴にハクさんのことを話してみたら、話をしてみるとは言ってくれた。……やっぱり姉貴も心配らしくって。ただ、難しいケースだから、いい結果が出るとは限らないとも言われちまったんだよ」
 姉貴が既に知っていたことは伏せておくことにする。……説明するとややこしくなりそうだし。肝心なことが伝わればいいんだ。
「……良かった」
 巡音さんは安心した表情で、そう呟いた。えーと、まだ、上手く行くと決まったわけじゃないんだから……。
「巡音さん、さっきも言ったけど、まだ上手くいくって保証はないんだよ。姉貴もできる限りのことはしてくれるだろうけど、やっぱり限界とかはあるだろうし……それに時間もくれって言われた。年単位で溜め込んでいる負のエネルギーをどうにかするのは、大変なんだって」
「ハク姉さん、引きこもってからはわたし以外の人とはほとんど話をしていないの。だから、誰か他の人と話せるだけでも、いいことなんじゃないかなって……」
 確かにその状況だと、話せる相手ができただけでも進歩かもなあ。引きこもりの理由とやらも喋ったみたいだし。
 俺がそんなことを考えていると、巡音さんは自分の鞄の中から何かを取り出した。
「あの……これ、良かったらお姉さんと食べて。土曜日のお礼と、ハク姉さんのこととのお礼のつもりで焼いたの」
 目の前に置かれたのは、クッキーの入った袋が二つ。え……今、巡音さん、「焼いた」って言ったよな? じゃ、これ、手作りか?
「……巡音さんが焼いたの?」
 俺はびっくりしてクッキーの袋を手に取った。……いや、こんなことを言うのもなんだが、俺の周りにこんなものを手作りする奴はいなかった。母親も姉貴も料理はできるが、こういうものを作ったことはない。
 目の前で、巡音さんは赤くなって頷いた。
「器用なんだね」
 最初に見た時は売ってる奴かと思ったぞ。……というか、わざわざ焼いてきてくれたのか。うーん、それって……。
「お母さんがお菓子を作るのが好きで、わたしに作り方を教えてくれたの。お母さんみたいには作れないけど、ちゃんと食べられるから」
 赤くなって下を向いたまま、巡音さんはそんなことを言った。……そう言えば、姉貴が巡音さんはお母さん似だと言っていたような。
「ありがとう。帰ってから姉貴と食べることにするよ」
 姉貴と分けるのがもったいないような。俺はそんなことを考えながら、クッキーの袋を自分の鞄に仕舞いこんだ。


 巡音さんからクッキーを受け取った後、俺たちはコンピューター室に移動した。『ピグマリオン』のテキストデータをUSBメモリに入れて、持ってきておいてあったので、それを見ながら話をしようと思ったのだ。
 学校のコンピューター室は、基本的に自由に使える。ネットを閲覧するのには制約がいるが、今回はデータをいじるだけだからネットはいらない。俺はPCの一つの電源を入れると、持ってきたUSBメモリを差し込んで、ファイルを表示した。
「鏡音君って、自分のパソコンを持っているの?」
「ああ。姉貴のお下がりだけどね。巡音さんは?」
「わたしは持ってないの。お父さんが、高校生の間は駄目だって」
 巡音さんの場合、経済的な事情じゃないのだけは確かだな。うちの学校はコンピューターの授業があるし、あった方が便利だとは思うけどね。
「とりあえずこのままだと長いから、削れそうな場所は削ろうと思うんだよね」
「最初のイライザのお部屋のシーンとか? 無理に入れなくても、モノローグとかを語らせたら話は通じるんじゃないかしら」
 ああ、確かに。あそこはセットの設定が細かい割に、出てくるのはワンシーンだけだから、削った方が楽そうだな。俺はデータの中に「削る」と書き込んだ。
「データ、いじっちゃって大丈夫?」
「ちゃんとバックアップは取ってあるよ」
 テキストファイルは軽いから楽なんだけど、細かい装飾とかができないんだよな。まあ、見りゃわかるからいいか。
「あの……鏡音君」
「何?」
「ラスト……どうするの?」
 そうだ、その問題が残ってたんだっけ。うーん……原作を貸してくれた上に協力してもらってる巡音さんにこんなこと、言うのは何なんだが……。
「……俺としては映画の方がいいと思うけど」
 くどいようだけどフレディと一緒になられるのは嫌なんだよ。巡音さんは俺の目の前で考え込んでいる。
「じゃあ映画の方にする?」
 しばらくして顔をあげた巡音さんは、そんなことを言った。あれ?
「いいの? 原作どおりの方がいいって言ってなかった?」
「色々考えてみたんだけど……映画の方が、お客さんが想像する余地があるんじゃないかって気がしてきたの。それに、フレディと一緒になるにせよならないにせよ、教授とあのままさようならって良くないと思うし」
 巡音さんにどういう心境の変化があったのかはよくわからないが、強引に俺の意見を押し通すのは嫌だったので、こう言ってくれてちょっとほっとした。
「じゃあ映画の方ということで」
 俺は終盤に「結末は映画の方にする」と書き加えた。


 とまあこんな感じで、俺は巡音さんと『ピグマリオン』に修正を加えた。やっていて気がついたんだが、巡音さんは言葉に関する感性が図抜けていた。舞台の演出に関しても、劇場に通っている経験からか、細かいアイデアを出して来たりもした。
 ……コウの奴さえいなけりゃ、巡音さんを演劇部に誘ったんだがなあ。あいつがいるんじゃ、無理だ。
「演劇って、夢を形にすることなのね」
 作業の最中、巡音さんが不意にそう言った。
「どういうこと?」
「作家が頭の中で描いた夢を、形にして見せてくれるのが演劇なんだって思ったの。戯曲は、上演されて初めて命を吹き込まれるんだろうって」
 うーん……俺は中高とずっと演劇部で、もちろん演劇が好きだからやってるわけだが、こういう風に考えたことはなかったな。
「巡音さんって……時々詩人みたいなことを言うね」
 普段から文学ばかり読んでるとこういう風になるのかな。……いやそれは違うか。読むだけではきっと、こうはならない。
「好きな詩とかあるの?」
「ディッキンソンとか、ヒメーネスとか……」
 ……全く聞いたことがない。もともと詩とかには詳しくないから仕方がないんだが。小説は結構読んだが、詩には縁が無かったしな。
「どんな感じの詩?」
 巡音さんは視線をやや上に向けて、こう口にした。
「希望は羽根のある小鳥――
 魂の中の止まり木に止まって――
 言葉のない歌を歌う――
 歌い止むことはない――決して――
 優しく響くその歌は――嵐が吹き荒れる中――聞こえたの――
 嵐の中は苦痛に違いない――
 小さな小鳥は迷ってしまうだろう
 多くがその歌で心温まるというのに――
 その歌を聞いたのは凍える北の地――
 そして見知らぬ海の上――
 けれどいかに辛い時でも
 この小鳥は餌を求めない――わたしからは」
「……可愛い詩だね」
 俺がそう言うと、巡音さんは照れたように微笑んだ。
「ディッキンソンの詩は可愛らしいのだけれど、でもそれだけじゃない感じがするの。ぎゅっと胸がしめつけられるような……淋しさというか、切なさというか……そんなものを感じることがあるのよ」
 こういう「好きな作品」について語っている時の巡音さんの瞳は、とてもきらきらしていて、どこか遠くの見えない世界を見ているみたいだ。それを綺麗だなと思う一方で……苛立ちに近いものを感じてしまう自分がいた。


「巡音さん、明日は時間取れる? 俺はさっきも言ったけど、明日も部活休みになったから暇なんだよね」
 色々と話し合ったりなんだりしていたこともあり、今日一日で全部終わらせることはできなかった。それは仕方がない。学校はもうちょっと後まで開いてるけど、巡音さんは門限がある。
「わたし……明日は部活があるんだけど……」
 巡音さんはすまなそうな表情でそう言った。そう言えば、巡音さんって何の部活やってるんだっけ。
「あ、そうなんだ。何部なの?」
「英会話よ。火曜と木曜が活動日なの」
 英会話だったんだ。英語で喋ったりするのかな。
「明日、部活休んじゃってもいいけど」
 巡音さんはそんなことを言い出した。さすがにそこまでしてもらうのは……。
「いやそれはまずいでしょ」
 自分がこの前部活を休んだことは、棚に上げる俺であった。
「大丈夫、忙しい部じゃないから。部長はミクちゃんだから、話せばわかってくれると思うの」
 英会話部の部長って初音さんだったのか。初めて聞いたぞ。
「そうしてもらえると俺としてはありがたいけど……無理はしないでくれよ」
 これが原因で、巡音さんと初音さんの仲にひびが入ったら申し訳ない。
「うん……そうするね。あ……もし、ミクちゃんも参加してみたいって言ったら、一緒でもいい?」
 へっ? 初音さんも一緒って? 初音さんも交えて話し合いをするってことか? どうしてそんな発想になったんだ。そもそも、俺は初音さんのことはよく知らないし……。
 反射的に「それは嫌だ」と言いそうになり、俺は必死で言葉を押し殺した。こんなことを言うのはまずい。
「あの……ミクちゃんだけじゃ気を遣っちゃうって言うんなら、ミクオ君も一緒でも……」
 俺の沈黙をどういう意味に取ったのかはよくわからないが、巡音さんはそんなことを言い出した。クオが一緒なら俺が気を遣わずに済むと思ったようだ。えーと、参ったな……。
「船頭多くして船山に登るって昔から言うし、人数は増やさない方がいいと思う」
「三人寄れば文殊の知恵とも言わない?」
 首を軽く傾げて、巡音さんはそう言った。肩の辺りで切りそろえられた髪がふわっと揺れる。
「……クオは恋愛物嫌いだから、多分、呼んだら脇でぎゃーぎゃー不満を言い続けると思うんだよ。だから俺としては、こういう作業をクオと一緒にやるのはパスしたい」
 実際、あいつを呼んだらうるさいだろう。
 巡音さんもそれで承諾してくれたので、この話はここまでになった。データを保存して、USBメモリを抜く。
「校門まで一緒に行く?」
 俺はそう持ちかけてみたけれど、巡音さんは首を横に振った。
「けど、もう暗いよ」
「一緒にいるところを運転手さんに見られたくないの。男の子と一緒って報告されたら、わたし、多分外出禁止にされてしまうわ」
 ……つくづく、巡音さんの親は異常だと思う。ちょっとでも目を離したら娘がグレるとでも思っているんだろうか。でも、もし巡音さんがグレたとしたら――グレた巡音さんってのは想像できないが――それは目を離したせいじゃなくて、この厳しすぎる監視のせいだと思うぞ。
 巡音さんは淋しそうな表情で下を向いている。細い肩に手を伸ばしかけて、俺ははっとなった。今ここで触れるのはまずいんじゃないのか?
 でも……ちょっとぐらいなら……。肩に触れるぐらいなら……。
 俺は悩んだあげく、巡音さんの肩に自分の手を置いた。巡音さんがはっと顔をあげる。驚いていた表情がふっと和らいで、それから、巡音さんは自分の手を俺の手に重ねてくれた。俺の手よりずっと小さくて華奢な感じのするその手は、体温が低いのか、少しひんやりとしている。冷たい手、か……。
「……今日は色々とありがとう。じゃあ、わたし、帰るね」
 巡音さんは微かに微笑んで、コンピューター室を出て行った。

ライセンス

  • 非営利目的に限ります
  • この作品を改変しないで下さい

アナザー:ロミオとシンデレラ 第三十四話【馴染んだ君の姿に】

 さすがにロドルフォみたいな真似はできなかったようです。
 まあ、冷えてるわけじゃないからそういうわけにもいきません。

閲覧数:841

投稿日:2011/12/10 00:29:01

文字数:5,032文字

カテゴリ:小説

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