黄昏の攻防

 結構遅くなっちゃたな……。
 空は夕焼け。地面に伸びる影は長い。思ったよりも時間を使っていたのを認識し、リンは小走りに切り替えて帰路を急ぐ。早く帰らないとレンやリリィが心配する。
 建物が並ぶ大通りには路地が多く、たまに近道として使っている場所もある。リンは目印の建物の角を曲がり、薄暗い道を迷わず進んで行く。さっさとここを通り抜けないと危ない。暗くなればそれだけ人目が付きにくくなる。
 気を付けてと言ってくれたテトに心の中で謝り、早足で王宮を目指す。時間に押されて焦ってしまい、リンは辺りへの警戒を疎かにしてしまっていた。
 不意に背後から響く足音。肩を震わせて恐る恐る目を向けると、付かず離れずの位置で誰かが歩いている。体格からして男。仄暗い裏路地でも目立つ緑髪が強い印象を残す。つい先ほどより距離が迫って見えるのは気のせいか。
 このままだとまずい。リンは危機感を募らせて歩く速度を上げる。自身の身の危険もそうだが、もし相手が反乱軍なら敵に王宮への早道を教えてしまう。そうでなくても緑の国の人間に抜け道を知られてしまうのは好ましくない。とにかく後を付けられるのは気分が悪い。
 逃げよう。
 本能が告げると共にリンは駆け出す。荷物を落とさないように足を動かす中、背中から足音が追って来る。明らかに狙われていると確信し、リンは言いしれぬ恐怖を覚えて路地を駆ける。ふと忌まわしい記憶が脳裏を掠め、逃げ足に更に力を入れた。
 捕まって殴られ蹴られた痛みが蘇る。あの時の怪我はとっくに癒えているはずなのに、体が疼くような感覚がした。暴力を振るって嗤う醜悪な男が頭から離れない。
 何で、こんな時に……!
 人間扱いされなかった屈辱。底辺を這いずって生きていた頃。忘れたくても一生消えない過去を思い起こした自分に苛立ち、リンはその記憶からも逃れるように走る。大通りへ出る事だけを考えれば良い。既に王宮への抜け道は外してある。流石に相手も人目に付く所で追いかけて来る事はしないはずだ。
 木箱に乗る野良猫を驚かせて角を曲がると、点在する資材やガラクタの先に大通りの石畳が見えた。出口まで後少しの安心と喜びを胸に、リンは走りながら後方を一瞥する。緑髪の男二人が迫っているのが目に入った。
「嘘!?」
 自分を追いかけていたのは一人じゃなかった。全く気付かなかったが、もう一人いたのだ。
 驚愕の瞬間に足が鈍る。僅かな隙は追跡者との距離を縮ませた。気を緩めた代償は大きく、リンは大通りまで十歩程の所で追い付かれた。一人に肩を掴まれ、一人に出口への道を遮られる。
 見知らぬ男に触られて鳥肌が立つ。悲鳴を上げる寸前、後ろから回された手で口を塞がれた。思わず荷物を手放したリンは拘束を振り解こうと暴れたが、大人の男の腕力に少女の膂力が敵う訳もない。小柄であれば尚の事、押さえ付けられてしまえば脱するのは不可能に近い。
 情けない、とリンは己の無力さに唸る。レンのように剣は扱えなくても、どうして少しでも戦う力を持とうとしなかったのだろう。緑の国で野盗に捕まった時も怖い経験をしたのに、何も学んでいないじゃないか。
 背が低いから殴り合いでも不利でまず勝てない。だから貧民街で生きる為に、逃げる事に重点を置いていた。住人同士の派閥抗争の巻き添えを受けずに過ごせたのは、喧嘩が弱過ぎて相手にすらされなかったからだ。悔しく思った事も多いが、馬鹿げた諍いに関わらずに済む利点もあった。
 危険が及ぶ前に逃走する。最近はそれが出来ていないだけでなく、今のように裏目に出ている方が多い。
 出口を阻む男が嫌らしい笑みで迫り、依然として抵抗を続けるリンは恐怖に支配される。気色悪い連中から即刻離れたくて必死に足掻くも、相手の嘲笑を更に深くさせただけだった。
「殺しはしない。暴れるな」
 万事休す。服に手をかけようとする男と一瞬目を合わせ、諦めとも覚悟ともあやふやな心境できつく瞼を閉じる。
 駄目だ。逃げられない――。
 何の前触れも無かった。男が短い声を漏らして傾ぎ、手を伸ばしたまま倒れていく。異変に気付いたリンは顔を上げ、逆光に紛れる人影を捉えた。破壊音が響いて耳に刺さる。緑髪が無様にガラクタへ突っ込んでいた。
 瞬く間に肉薄する人影が視界の端に映る。その素早さに驚いた直後、怒気と侮蔑が籠もった声が届く。
「手ぇ放せ変態」
「うがっ!?」
 躍り込んだ誰かが男を引き剥がしてくれ、拘束を解かれたリンはよろめいて壁に手を付けた。楽になった呼吸を繰り返しつつ振り返ると、男が両目を押さえて苦悶する様子が見えた。そして、差し込む夕陽に照らされた人影が露わになる。
 男の鳩尾に肘打ちを入れて沈ませたのは、王宮のメイド服を纏った人物。長い金髪を翻す姿は勿論リンではなく。
「何もされてない?」
 張り詰めてはいるが、先程とは打って変わった口調は優しく頼もしい。
「リ……」
 リリィが口の前で人指し指を立て、リンは咄嗟に言葉を飲み込む。不用意に名前を呼んでしまう危険性は身をもって理解している。緑髪の連中に情報を与えてはいけない。
「大丈夫」
 紙一重だったと痛感したリンは短く答える。他にも礼を言いたいのに上手く出て来ない。頭が事態に追い付いていないのか、まだ恐怖や混乱が残っているのだろうか。
 とりあえずリンの無事を確認し、リリィはほっとした表情を浮かべる。
「間に合って良かった。詳しい事は後で!」
 長居は無用だと知らされ、我に返ったリンは落とした荷物を慌てて拾い上げる。これだけは絶対に忘れてはいけない。中には大事な薬や包帯が入っているのだ。置いて行って盗られたら意味が無くなってしまう。
「くそ……。舐めやがって……」
 ガラクタに埋もれていた男が歯を軋らせる。怒りで顔を真っ赤に染めて木片や瓶を除け、傍らに転がっていた棒を掴んで起き上がった。武器を手にしてリン達へ近付く。
 再び出口を遮られ、リンはびくりと肩を震わせる。あっちは無理だと一歩下がると同時に、入れ替わるように声が流れた。
「諦め悪……」
「えっ?」
 呆気にとられたリンの脇を通り過ぎ、リリィが臆する気配もなく進み出る。髪をかきあげて余裕すら見せる彼女へ、男は箒程の長さの棒を剣に見立てて振り被った。あっ、と息を呑んでリンが立ち竦む。
「図に乗るなぁ!」
 男が怒声と共に棒を振り下ろす。リリィの頭目掛けて落下した棒が交差された腕に受け止められたのを、緊張を一気に高めたリンは凝視していた。見間違いかと目を瞬かせる。
「え。……ええっ!?」
 動転した叫びに振り向かず、リリィは目の前で唖然としている男へ言い放った。
「下手くそ」
 手を返して頭上の棒を掴むや否や、腕を戻す勢いで持ち主の頬を叩く。怯んだ相手から武器を奪って片足を引き、流れるような動きで下から上へ棒を打ち振るった。空気を裂いて弧を描き、人を殴打する音と痛みに呻く声が重なる。
 右手で中心部を、左手で下部分を握り、リリィは棒の先端をリンの方へ向けて構え直す。顎を殴られた男は為す術もなく横薙ぎを見舞われ、顔を仰向かせたまま左脇腹を押さえた。
「このっ……、こんな事をしてただで済むと思ってるのか!」
 電光石火の連撃を浴びた男はこめかみに青筋を浮かべ、虚勢を張った台詞を吐く。その見苦しい言動にリリィは呆れを隠さない。右手で持った棒を地面に立て、追い打ちをかけずに相手を諭す。
「もう諦めて帰れば? これ以上殴られたくないし、恥をかきたくもないでしょ?」
 黙って去れば見逃してあげる。リンにはリリィの寛大さが伝わったが、翻弄され続けた男は挑発として解釈してしまい、恨みと優越を込めて喚く。
「俺達は貴様ら国民の為に戦う革命軍だぞっ!?」
 尊大な叫びが不自然に途切れる。リリィが男の頬に裏拳を叩き込んだのだ。躊躇いも容赦もない一撃はリンを仰天させ、不意打ちを食らった男の度肝を抜く。腰の捻りを入れて振り抜いた左手を下ろし、リリィは棒の先端を正面の人間へ定めた。
「それは凄いね。三下」
 淡白な言葉と同時に、棒が猛烈な速さで男の喉元へ打ち込まれる。槍や剣のような刃こそ無いものの、鋭く鮮やかな攻撃は的確に急所を突き、緑髪の男はまたもやガラクタへ突っ込んだ。今度は起き上がる気配は無い。白目をむいて完全に気絶していた。
 成り行きを見続けるしかなかったリンは胸を撫で下ろす。どうなる事かと冷や冷やしたが、心配はいらなかったようだ。
「ほら、ぼーっとしない」
 リリィはどこ吹く風でリンの手を取り、倒れている男達にちらりと目を送って囁く。
「逃げるよ。尾行する奴がいないか念の為見てて」
 颯爽と手を引くリリィに従い、リンは足早に路地を抜ける。緑髪の男達が追って来る事は無かった。

 幸い誰にも尾行される事もなく王宮に到着し、二人は裏手から中に入る。やがてリリィはリンの手を離して振り向いた。棒は外で放り捨ててある。
「本当に何もされてない? 怪我とかは?」
 礼を言う間もなく問いかけられ、リンはやや気後れして返す。
「あ、うん。平気。怪我もないし」
「そっか。良かった。何か不安でさ」
 リリィは安堵して肩の力を抜く。まるで焦っているように見えたが、奇妙な態度を訊く前に伝える事がある。
「ありがとう。助けてくれて」
「いいよ別に。あんなの大した事じゃないし。無事で何より」
 慣れている事なのか、リリィの返答は実にあっさりとしている。結構大事だよとリンは笑い、何故あの場に来てくれたのかと尋ねた。
「なんか嫌な予感がして捜してたんだよ。で、テトさんのとこ行ったらリンベルは帰ったって言うし。だけど大通りじゃ見つかんないし、もしかしたらって路地を調べてたらあれだしさー」
 それで飛び込んだって訳。リリィはそう締めくくり、リンに注意を促す。
「いくら近道だからって、暗い時にあんな所通ったら駄目だよ。日が暮れて来たら、なるべく明るい道や人通りが多い所を歩かないと」
 自分の浅はかさが原因のリンは一言も反論出来ない。リリィの説教はただ怒鳴られるよりも身に染みた。
 治安が悪いみたいだから当分一人で出歩くな。街に用がある時は必ず声をかけろと言われ、リンは半ば強引にリリィと約束する。
「リンベルは可愛いし小柄だから狙われやすいんだよ。簡単な護身術でも習っとく?」
 覚えておいて損はないよー。と、リリィは少々おどけた調子で提案する。悪漢を軽くあしらっていた彼女に教えて貰えるのは心強い。
「リリィ、強いもんね。棒を槍みたいに使ってたし」
 武芸は詳しくないが、単に振り回しているだけでないのは素人目でも分かった。
「まあ、昔取った杵柄って奴だよ」
 リリィは一瞬顔を曇らせて曖昧に答える。やはりさっきから様子が変だ。屈託せず話している割に、自分の事について訊かれるのを避けているような気がする。そこまで考えが至り、リンはふと疑問を巡らせた。
 そう言えば、リリィって王宮に来る前は何をやっていたんだろう。家族や実家の話とか聞いた事無いし。三年前からレンのメイドをしてるって言ってたけど、何で王子の目に留まったんだろう。名字が無いから貴族と言う訳でもないし。よく考えてみたらおかしい事だらけだ。
 そもそも、リリィって……。
「荷物片付けたらすぐ厨房来てね」
「待って!」
 また後で、と歩き出そうとした時に引き止められ、リリィは半身で振り向く。
「何、そんな大声じゃなくても聞こえるよ」
 真剣な顔で先輩を見据え、リンは手が汗ばむのを自覚する。早鐘の鼓動がリリィの声を遠くさせた。口の中が干上がっている。
「リリィは、ここに来る前は何をしていたの?」
 リンに質問をぶつけられ、リリィは無言で目を見開く。お互い微動だにせず視線を逸らさない。二人の間に重い沈黙が落ちた。
「……知りたい?」
 先に口を開いたのはリリィ。静かな口調にはやりきれない怒りと、それ以上に悲痛の念が漂っていた。触れてはいけない琴線に触れたのは認識した上で、リンは黙って頷く。
「夜になっても聞く気があるのなら、仕事が終わった後あたしの所に来なよ。ただし、あまり気分のいい話じゃない」
 それでも聞きたいのなら話す。リリィはそう念を押して歩き出した。遠ざかる背中が角を曲がるまで見送り、リンは胸中で疑問を反芻する。
 リリィって、一体何者なの……?

 らしくないな。
 自分の台詞を顧みて、リリィは戸惑いを感じずにいられなかった。思い出したくない過去のはずだったのに、何故か話そうと言う気持ちが自然と湧いていた。少し前の自分だったら話すのを拒んでいたかもしれない。
「ちょっとは成長してんのかな……」
 心境が変化しただけの可能性もある。しかし以前と比べれば気分が軽く、胸が塞がってもいない。知らない内に心の整理がされていたようだ。
 足を止めて窓の景色を眺める。夕焼けが押しやられ、夜の闇が空の大半を占めていた。
 リンベルは医務室に向かっている為とっくに別れている。だがリリィは周りを見渡して誰もいないのを確かめ、ぽつりと呟いた。
「父様。母様。リュウト……」
 あたしは、生きていていいんだよね?

ライセンス

  • 非営利目的に限ります
  • この作品を改変しないで下さい

蒲公英が紡ぐ物語 第43話

 リンはにげだした!

 しかし まわりこまれてしまった!

 リンはこんなんばっかです。逃走成功率が妙に低い。





 毎回誰かに助けられてはいますが。




ハク「リリィが強すぎませんか」
グミ「仕様です」
ハク「仕様か。じゃあ仕方ないね」





グミ「……だと話終わっちゃうんで、今回は護身術について」
ハク「本文でリリィも言ってるけど、覚えておいて困る物じゃないよね」
グミ「護身術って言うのは、文字通り『身を守る術』全般の事。例えばいきなり手を掴まれた時振り解く方法とかは勿論の事、『危険を避ける、回避する』って言うのも入る」
ハク「ああ、確かに。危ない目に遭いたくなかったら、そもそも危険な所に行かなければ良いもんね」
グミ「イエス。暗い道を歩くのは極力避けるとかね。あと、携帯いじりながらとか、音楽聞きながら歩くのも止めた方がいい。意識がそっちに向いてるから反応遅れちゃうし。そりゃきびきび歩いてる人より、よそ見してる人の方が狙いやすいでしょうよ」
ハク「ちょっと話がずれるけど、財布を見える所に入れておかないとか」
グミ「結構いるよね。長財布を半分以上出して後ろポケットに入れてる人。盗まれたら気の毒だけど、アレは正直文句言えない気がする『盗って下さい』って言ってるようなものだし」
ハク「一般人から見てそうだから、犯人にしたら絶好のチャンスだろうね。人込みだと更に」
グミ「で、話戻すけど。護身術って言うのは『危険から逃げる』って言うのが大前提。『相手を倒す』事なんて考えなくて良い。重要なのは、とにかく攻撃するなりして相手に隙を与える事。」
ハク「鞄や本を投げつけるとか?」 
グミ「ナンノコトデスカネー」

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投稿日:2013/06/04 21:47:09

文字数:5,413文字

カテゴリ:小説

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