天鳩は、手近な窓から、身を躍らせると、そのまま、木立の中に、舞い込んだ。
自分と同じ色の影に隠れて、天鳩は、小さく、息を付いた。
それから、その息を取り戻すように、大きく、息を吸い込んだ。
胸に、体中に、緑の香りが行き渡ってゆく。
淋しいことや、哀しいこと、辛いこと、心の曇りを、陰りを、追い出してゆく。
天鳩は、青い空を挑むように、眺めると、パンと、自分の頬を叩いた。
そして、そのまま、歌い出す。
すぐに、天鳩を囲む緑たちが、笑うように、揺らめきだした。
そして、天鳩の歌声は、風に乗って、青い空へと、伸びやかに広がってゆく。
そのとき、歌声に、誰かの声が、合わさった。
でも、それは、風に、衣がなびくように、自然で、心を害すものではなかったから、むしろ、この頃では、安心するとすら、思うものだったから、歌い続けたまま、天鳩は、自分の斜め後ろで、歌う少年に、微笑みかけた。
少年、海九央は、一瞬、男にしては、大きい瞳を、見惚れるように、瞠るように、さらに、大きくしたが、すぐに、さやさやと小川が歌いながら、流れてゆくように、目を細めて微笑んだ。
そうして、二人は、しばらく、ともに、歌い続けた。
どこか、似通ったところのある二人の声は、小鳥や蝶が戯れるように、重なったり、離れたりしながら、歌を歌い続けた。
どんどん、心が、柔らかくなっていく。開かれていく。その感じが、気持ちよかった。
「本当は、わかっているの」
だから、歌い終わってから、ゆっくりと、口を開いた天鳩の声は、言葉よりも、明るかった。
「鈴。すごく、綺麗になった。大人っぽくなった」
姿形が変わったわけではない。それでも、鈴を取り巻く空気が、表情が、満ち足りていて、美しい調和を保っていた。そう。蓮と、二人一対で。
「空の国にいたときは、ともすると、どこか、不安そうで、目が離せなかった」
天鳩の脳裏には、まだ、鮮やかに、あの頃の鈴の姿が、数え切れないほどに、溢れている。楽しそうに、笑ったかと思うと、ふと、遠い目をして、かと思うと、天鳩の衣を、不安そうに、掴んだ。あの、天鳩だけが、頼りだと、訴えていた、揺れるまなざし。明るく輝く、空色の瞳が好きなのに、同時に、あの、揺れる空色が好きだったのだ。
「あの子の……蓮のおかげなのよね。鈴。すごく、落ち着いた。しあわせそうに、笑うようになった。しあわせだからなのよね。蓮といて」
微笑み合う二人、声を重ねる二人。二人が、一つで、完成されるように、合わさった空と水。うつしあうだけでは足りないように、くっついたら、もう二度と、離れないとでも言うように、寄り添う、よく似た少年と少女。
「わかっているんだけど………どうしても………」
彼らをまとう風は、何よりも、優しく、調和されていて、しあわせが見えるようで、それを祝福したいと思うのだけど、どうしても、隙間風が吹くのだ。他でもない、天鳩の心に。
「それは、天鳩が、鈴を、本気で、愛している証拠だよ。引け目に思うことなんかじゃないよ」
海九央が、穏やかに言った。その優しい声は、天鳩の心に、ふんわりと、自然に、入り込んだ。
「あれで、海渡だって、ちょっと、淋しいとか、思っているとこあるんだよ。ただ、ほら、海渡って、面の皮、厚いから」
「あははっ。確かに、海渡は、一筋縄じゃいかないわよね」
笑いながら、言った海九央に、天鳩も、つられて、笑った。蓮の守り手である海渡とは、一緒に仕事をすることも、多々ある。いつも、笑っている、ともすると、間が抜けたように見える海渡だが、見かけよりも、ずっと、頭の回転も速いし、実力もある。それ自体は、天鳩も認めるところだが、装っているような態度が、生真面目な天鳩には、何となく、好ましくなく映るのだ。
「海九央は、人を、よく見ているのね」
普段と同じように、明るく、弾みだした心を認識し、天鳩は、そのことに、二役も、三役も、手を貸してくれた、隣の少年を見上げて、言った。
「そう?」
「ええ。こうやって、私が辛いとき、困っているとき、力を貸してくれるじゃない」
海九央は、何も言わないのに、こうやって、天鳩が辛い時や、困っている時に、来て、必要な力を貸してくれる。それは、いつも、多すぎもせず、少なすぎもせず、信じられないくらい、ちょうど良いものだった。
「それに、水の男のことも、風の乙女のことも、ちゃんと、平等に、見て、必要な時に、必要なことをしてくれているわ」
海九央は、司である、朗羽良(ローラ)や天理編(ミリアム)、澪音(レオン)に比べると、大きなことをするわけではないが、小さなことにも、すぐ、気が付いて、対処してくれる。
「それは、僕の仕事だから。澪音は、熱くなりやすいからね」
「ふふふっ。そうね。でも、仕事熱心で、部下思いで、それでいて、ちゃんと、風の乙女たちのことも、考えてくれていて、立派だと思うわ」
澪音は、司を任せられるくらいなのだから、冷静でないわけはないが、ともすると、熱くなりすぎるきらいがあった。良く言えば、情に厚いのだが、ともすると、小さなことを見逃したりする。でも、そんな欠点すらも、魅力と感じさせる度量があった。
「うん。みんな、澪音が好きになるよ。本当に、頼りになるしね」
どこか、淋しげな微笑みで、海九央は言った。
「あら、海九央も、頼りになるわよ」
自分は頼りにならないと、言いたげな言葉に、天鳩は、驚いて、そう言った。
「本当?」
「ええ。感謝しているわ。いつも、ありがとう」
天鳩は、心からの感謝を込めて、微笑んだ。鈴を追いかけるところから、この国を完成させて、今に至るまで、尋常じゃなく、忙しく、困難なことの山済みだった。
それでも、何とか、倒れずにやっていけたのは、海九央が、さりげなく、助けてくれたことが、かなり、大きいと思う。
「うん。僕も、ありがとう」
「え? 私、あまり、貴方を手伝えてないわよ………というか、貴方が、困っているところ、あまり、見たことないわ」
同じ微笑みで、同じように、感謝の言葉を返されて、天鳩は目を丸くして、それから、今までを振り返るように、瞬きした。
「天鳩は、百人並みに頑張っているからだよ。僕は、自分の仕事くらいしかしていないから、余裕が、たくさん、あるだけ。天鳩のほうが、ずっと、すごいんだよ」
海九央は、朝日か夕日でも、前にしているかのように、眩しそうに、微笑んで、そう言った。
「天鳩がいてくれることで、いろんな人が、助かっている。天鳩が頑張っている姿をみると、僕も、頑張りたいって思える。こんな眩しい感情が、自分の中にあったのかって、本当に、驚いている」
込みあがるモノを抑えるように、溢れてくるモノに、戸惑うように、いつもの、穏やかだが、どこか、淡々とした声よりも、少し、興奮したような声で、海九央は言った。
「ありがとう。天鳩」
それが、染み渡るのを待って、海九央は、ゆっくりと言った。天鳩の心に、溶けていくような、優しくて、温かい言葉だった。
「僕が、天鳩を助けるのは、そのお返しなんだ。だから、天鳩は、気にしなくて良いんだよ」
その声から、その言葉から、そこに漂う風から、海九央の心が、興奮が、流れ込むように、伝わってきて、天鳩は、何も、口にすることができなかった。
だけど、それは、決して、嫌ではなく、むしろ、心が弾む、風が踊るような、ドキドキすることだったから、天鳩は、笑った。共鳴したのか、天鳩の髪に結わえられた鈴が、リン、リン、リンと、楽しそうに、笑った。
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