〈シャングリラ第二章・四話①~マスターの試練~〉
SIED・KAITO
「カイト、お願い…傍にいてくれ、」
「ええ、もちろんですよ、」
今日は、いつもとは逆の立場だ。普段なら、俺のメンテに付き合ってくれるマスターが、今は俺に付き添いを求めている。
彼女に頼られるのは無上の喜びだから、それは構わないけれど…。
「さ、篠武さん。まずはこの化粧水をコットンにとって…、」
「…………、」
喜々として化粧品を構える所長さんを前に、既にマスターの目は死んでいた。
だ、大丈夫だろうか(汗)。
様々な種類と用途の異なる化粧品を一つ一つ説明しながら、実際に彼女の顔にメイクを施していく。
ベース、ファンデーション、アイメイク、チーク、グロス等、完成に近づくにつれて、マスターは美しくなっていく…はずだったのに。
「あら、可愛いじゃない!ほらほら、カイト君もそう思わない?」
「え、ええ、まぁ、…そうですね、」
確かに、もともとの素材の良さもあり、一般的な意見を採用するなら『可愛らしい』『綺麗』という言葉はすんなりと収まる出来栄えだ。
でも、違う。何かが俺の中で肯定を拒否している。
一体この違和感は何だろうと思い悩むうちに、ドアが開き、正隆さんが入ってきた。
「所長、こんなところにいたんですか?検体のデータが…あれ?」
そこでマスターに気付いた彼が、目を丸くして動きを止める。
「え、もしかして篠ちゃん?わわわわわ、どうしたの!?」
「うふふ、どう?とっても素敵だと思わない?」
「ですね、…篠ちゃん、凄く綺麗だよ、」
「…………、」
興奮気味に目を輝かせる正隆さんとは対照的に、彼女は何処までも無表情でまるで人形のようだ。その死んだ魚を連想する瞳の奥底に、ちらちらと揺れる光は、何かと必死に戦う葛藤の欠片が見える。
…あ、そうか。
「気持ち悪いですね、」
「………え?」
「似合いませんよ、マスター。まるで子供のラクガキですね、」
「ちょっと、カイト君!」
一体何を言い出すのかと、所長さんが俺の腕を掴む。
「何が気に入らないのさ、こんなに可愛くなったのに、」
正隆さんも、理解できないと言わんばかりに声を荒げている。可愛くなった?違う、俺のマスターはもともと可愛いんだ!
…いや、そうじゃない。今はそこにツッコんでいる場合じゃない。
俺は所長さんの手を振り解き、マスターに向き直る。彼女も既に俺を見上げていたが、その表情は先ほどのものとは打って変わっていた。
「…本当だよな、オレも気持ち悪い、」
心底安堵して緩んだ頬に、零れそうな涙を湛えた瞳。ふにゃっと笑う顔につられて、俺もつい笑顔になってしまう。ああ、やっぱり可愛いな…。
多くの女性にとって、化粧は自分をより魅力的に見せるために施すものだから、『可愛い』や『綺麗』は褒め言葉に違いない。
でも、マスターは違う。
彼女にとっては、全く別人格を作り上げる…いわば自分を隠す手段でしかない。しかも、非常に不本意な。
(もし、マスターが心から望んで『オレ、綺麗になった?』とはにかむのなら、迷わず素直に『そんなあなたも、とても魅力的ですね』と言えるのに、)
客観的な意見と本人の意向が食い違うことはままある。無責任な第三者の価値観を押し付けて、これ以上傷付けるわけにはいかない。
だから俺は、秤にかけるまでもなく、マスターの心に寄り添う答えを出した。
それに。
「やっぱりマスターは、素のままが一番素敵ですね、」
化粧もドレスもいらない、毎日一緒に過ごす当たり前の彼女が、何よりも愛おしい。
「…言ってろ、」
照れてうつむく彼女の頬が、チークより濃く色付く。
少し拗ねたような口調が可愛くて、俺はマスターの髪にキスをすると背後から抱きしめた。
「…あらあら、もしかして私たち、当てられちゃったのかしらね?」
「え、何ですか、どういうことですか???」
これからまだまだ試練が続くと思いますが、俺がついてますから一緒に頑張りましょうね、マスター!
四話②へ続く
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