その日の夕食の時間――お父さんは仕事、ルカ姉さんも仕事、ハク姉さんは自分の部屋、したがって、お母さんとわたしだけ――の時、わたしはお母さんに、日曜の予定について話すことにした。
「次の日曜は、図書館で調べ物をしようと思っているの」
図書館で調べ物は、前から度々やっているから、変に思われないはずだ。
「調べ物? どれぐらい?」
「多分、一日かかると思うわ」
「そう……じゃあ、行ってらっしゃい。お弁当持たせてあげるから、門限までには帰ってくるのよ」
予想通り、お母さんは怪しまなかった。嘘をついてしまった罪悪感で、胸が痛む。……ごめんなさい、お母さん。
日曜になった。わたしは鞄に必要そうなものを詰めて、車に乗り込んだ。図書館までは少し距離がある。図書館で車から降りると、運転手さんは「では、夕方お迎えに来ます」と言って、車で引き返して行った。わたしは車が見えなくなると、図書館には入らずに、道を歩き始めた。
……何だか落ち着かない。わたしはいわゆる「箱入り娘」なので、こんな風に外の道を一人で歩くのは初めてだ。図書館から駅までの道の地図はコピーして来たけれど、何度も、こっちでいいのか確認してしまう。
幸い道は間違っていなかったようで、しばらく歩くと駅に着いた。わたしは大きく息を吐いた。次は切符を買わなくちゃ……。
切符を買って、電車に乗る。……実はこれも初めてだ。もともと出歩く方では無いし、外出時は車で送り迎えしてもらえるので、電車などの公共の交通機関を利用する機会が無かったのだ。だから学校の遠足や修学旅行以外で電車に乗ったことはないし、そういう時は切符はまとめ買いだし……。
来るまでは自分にできるのかどうか不安だったが、いざ来てみると、拍子抜けするぐらいことは簡単だった。わたしは電車の座席に座って、一息入れようとした。だが上手くいかない。結局、目的の駅につくまで、わたしはずっと緊張しっぱなしだった。
鏡音君の家の近くの駅に着いた。この駅はあまり大きくないので、改札は一つだけだ。駅前に公衆電話があったので、そこから鏡音君の家にかける。コール三回で、相手が出た。駅に着いたことを告げると、すぐに行くので改札の前で待っていてくれ、と言われた。
わたしは落ち着かない気持ちのまま、改札の前で待っていた。十五分ほどで、鏡音君が来てくれた。
「巡音さん」
「あ……鏡音君」
「大丈夫だった?」
「……なんとか。親に嘘ついちゃったけど」
思わず下を向いてしまう。バレたら……ううん、こんなことを考えるのはよそう。
「俺の家、こっちだから。ついてきて」
わたしは、鏡音君に後について歩き出した。やっぱりまだ緊張する。
しばらく歩くと、鏡音君の家に着いた。
「着いたよ」
鏡音君が鍵を出して、ドアを開けてくれた。わたしは「お邪魔します」と言って、中に入る。鏡音君も後から入って、ドアに鍵をかけた。
「姉貴~、帰ったよ!」
家の中に入った鏡音君は、家の奥に向かってそう叫んだ。ぱたぱたと音を立てて、奥の部屋から女の人が出てくる。ルカ姉さんと同じぐらい……かな? 活発そうな感じの、スタイルのいい、綺麗な人だ。この人が鏡音君のお姉さんなんだ。
「レン、お帰り。そちらがお友達?」
「そうだよ」
「初めまして、レンの姉のメイコです」
鏡音君のお姉さんは、笑顔でそう言って頭を下げた。慌ててわたしも頭を下げる。
「は……初めまして。巡音リンです。鏡音君とは同じクラスです」
わたしがそう言うと、お姉さんは怪訝そうな表情になった。
「……巡音?」
「そうです……どうかしましたか?」
どうしたのかな。そう思った矢先、お姉さんが言い出したのは意外なことだった。
「昔の知り合いに同じ名字の人がいたから……もしかして、親戚か何か? 巡音ハクって、いうんだけど……」
わたしは驚いてその場に立ち尽くした。鏡音君のお姉さんが、ハク姉さんと知り合い?
「姉をご存知なんですか?」
「え、姉ってことは、あなた、ハクちゃんの妹なの?」
ハク姉さんをちゃん付けで呼んでる……。
「あ……はい」
「やだ、嘘、信じられない。世間って狭いのねえ。まさか弟が、ハクちゃんの妹と同じクラスとは」
お姉さん、なんだか嬉しそう……。でも、わたしは困ってしまった。となると、この後は絶対……。
「姉貴、巡音さんのお姉さんを知ってたの?」
鏡音君が、お姉さんにそんなことを訊いている。
「高校の時の部活の後輩なのよ。卒業してからずっと会ってないんだけど。懐かしいな。ハクちゃんはどう? 元気にしてる?」
やっぱり……。どうしよう。引きこもってますなんて言えない……。
「あ……えーと、その……」
わたしは困り果てて、結局また要領を得ない返事をしてしまった。
「姉貴、お客さんを玄関に立たせっぱなしにしとくの?」
不意に、鏡音君がそう言った。お姉さんがはっとした表情になる。……もしかして、今の、わたしを助けてくれたんだろうか。
「ああ、ごめんごめん。さ、あがってちょうだい」
お姉さんがそう言って脇に退いたので、わたしは靴を脱いで、鏡音君の家にあがり、脱いだ靴を揃えた。
「俺たちは予定どおり『RENT』を見るから、姉貴、邪魔しないでくれよ」
わたしの後からあがった鏡音君が、お姉さんにそんなことを言っている。
「はいはい、わかったわ。じゃ、私は自分の部屋にいるから、用があったら呼んでちょうだい。それと、お客さんには失礼のないようにね」
鏡音君のお姉さんはそう言って、二階へと上がっていった。二階にお姉さんの部屋があるのね。
「巡音さん、こっち」
わたしは鏡音君の後について、隣の部屋に入った。畳敷きの和室で、中央に大きめの卓袱台、その周りに座布団が置いてある。
「適当に座ってて。今、お茶を淹れるから」
そう言われたので、わたしは座布団の一つに座った。鏡音君は居間に隣接しているキッチンに行って、お茶道具を用意している。
「緑茶でいい?」
鏡音君が声をかけてきた。
「あ……うん」
わたしはまだ落ち着かない気分で、周囲を見回した。そんなに広くない――もっとも、わたしの感覚の方が一般的ではないのだろう――部屋は、おおむね片付いていた。サイドボードや本の詰まった本箱が、壁際に置いてある。サイドボードの上の、大きめの写真立てがわたしの目に留まった。
その写真立てに入っていたのは、家族の集合写真だった。犬を抱いている男の子は、多分小学生の時の鏡音君だろう。隣にお姉さん、後ろに両親とおぼしき二人が立っている。お父さんの方はお姉さん、お母さんの方は鏡音君に似ている。
わたしが写真立てを見ていると、鏡音君がお茶を乗せたお盆を手に戻って来た。
「どうぞ」
鏡音君がわたしの前にお茶を置く。わたしはお礼を言った。
「……ありがとう」
写真のことを訊いてみたいけれど、いいものだろうか。わたしがためらっていると、鏡音君の方から説明してくれた。
「俺と姉貴と両親と、前に飼ってた犬。確か、旅行に出かけた先で撮ってもらったんだ」
「犬を飼ってたの?」
ミクちゃんはポメラニアンを飼っていて、ミクちゃんの家に遊びに行った時に撫でさせてもらったりしている。ミクオ君も種類は忘れたけど、大きな犬を飼っていて、いつだったか、庭でフリスビーを投げて遊んでいた。
「ああ、去年死んじゃったけど。巡音さんとこは、ペットとかは?」
鏡音君に訊かれたので、わたしは首を横に振った。お父さんは、動物が嫌いだ。ミクちゃんのペットがうらやましくて、わたしも飼いたいとねだったけれど、許してもらえなかった。
「あの……そう言えば、鏡音君のお父さんとお母さんは? 家にいないの?」
今日は日曜だから、たいていの人は家にいるはずなのに、出てきて挨拶をしたのはお姉さんだけだ。
「あー、えっとさ……うち、今、どっちもいないんだよ。あの写真を撮ったちょっと後に、父親が交通事故で亡くなって……」
鏡音君がそんな話を始めたので、わたしは固まってしまった。訊いてはいけないことを訊いてしまったみたい。
「……それは……その……ごめんなさい。わたし、そんなことだとは思わなくて……」
わたしは下を見ながら、やっとのことでそう言った。
「あんまり気にしないでくれ。実は……構えられるとこっちが辛くて。で、話戻すけど、そういうわけで、俺のところは母子家庭なんだ。で、母親の方は、去年から仕事で海外に行ってて、この家は実質上、俺と姉貴の二人暮らし。あ、夏と冬の休みの期間には、母さんも戻ってくるけど」
そう話す鏡音君の声は、普段とあまり変わらない。けれど、わたしは申し訳なくて、鏡音君の顔がまともに見れなかった。
「この話はここまでにして、『RENT』を見ようか」
……鏡音君は優しい。でも……だからかな。なんだか辛い。
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