何とか電車には間に合い、遅刻もせずに済んだ。ああ良かったと思いながら教室に入る。……あ。
 巡音さん、今日は来ているんだ。自分の席で、今日も本を読んでいる。もう大丈夫なんだろうか。
「おはよう、巡音さん」
 声をかけると、向こうは驚いた表情でこっちを見た。弾みでぱたんと本が机の上に落ちる。……ガルシンの短編集ね。
「……おはよう、鏡音君」
 そう言って、巡音さんは視線を落とした。否応無しに今朝の夢が思い出されるが、俺は必死でそれを頭から追い払った。夢の話なんかされても巡音さんが困るだろう。ましてやあの内容じゃ……。
「貧血は、もう大丈夫なの?」
「……ええ、もう平気」
 相変わらず下を向いている。こっち向いてくれないかなあ。
「この前は……その……ごめんなさい」
 謝られてしまった。
「あ~、気にしてないからいいよ」
 俺の方が、具合の悪かった巡音さんを追い詰めちゃったみたいだし。
「でも……」
 巡音さんは困った表情で、そう呟いている。放っとくと堂々巡りになるな。ここは……あ、でも、そろそろ先生が来る時間だ。
「それより巡音さん、今日、時間空いてる?」
「え?」
「良かったら、放課後、ちょっと話せないかな」
 今日は部活は無いから、俺の方は時間が取れる。こんな朝のあわただしい時間よりも、放課後の方が話がしやすそうだ。
「話すって……何を?」
 訊き返されてしまった。
「大したことじゃないんだけど、巡音さんに訊きたいことがあって」
「……わたしに?」
「そう」
 俺は頷いた。巡音さんは、相変わらず困ったような表情で、落ち着きなく視線を動かしている。悩んでいるみたいだ。
 しばらくして、巡音さんは、こう口にした。
「多分、大丈夫だと思う……」
「それ、いいってこと?」
 巡音さんは頷いた。えーっと、じゃ、後はどこで話すかだ。人がうろうろしているようなところだと、落ちついて話せないだろうし……。
「じゃあ、放課後、屋上に来てくれる?」
 あそこだったらあんまり人は来ないはずだ。巡音さんが頷いたので、俺は自分の席へと戻った。


 うちの学校の屋上は、何故か鍵がかかっていなかったりする。俺は一年の時、ふっと思いついて屋上へ続く階段を上がって、扉の取っ手を軽い気持ちで回したら、開いてしまったのでひどく驚いた。
 それ以来、休みの時間なんかにたまに来てみたりするが、あれ以来、ずーっと開きっぱなしだ。無用心といえば無用心だが、俺がわざわざ注進することもないしな。なんでそんなこと知ってるんだとか、言われたら嫌だし。
 もっとも、ほとんどの人は屋上というのは上がれないものだと思っているらしく、ここはいつ来ても誰もいない。まあそんなわけで、巡音さんと話をする場所をここにしたんだ。
 屋上に来てみると、巡音さんはまだ来ていなかった。さっき、教室内で初音さんと話していたっけ。もうちょっとしたら来るだろう。俺は屋上のフェンスにもたれて、空を眺めた。いい天気だ。
 そんなにしないうちに、扉が開く音がした。巡音さんだ。ちょっと辺りを見回してから、こっちにやってくる。
「鏡音君、話って、何?」
 俺としては色々訊きたいことはあるんだが、どういう順番で話したもんかな……。一応考えといたはずなんだが、本人を前にすると出てこない。
「あ、えーと……」
 俺は鞄を開けて、中から巡音さんが貸してくれた『ラ・ボエーム』のDVDを取り出した。
「まずはこれ、返しとくよ。どうもありがとう」
 巡音さんはDVDを受け取ると、自分の鞄に入れている。うつむいているので、表情はよく見えない。
「あの……巡音さん、二日前のことなんだけど」
 俺はやっぱり、気になっていることを訊いてみることにした。
「巡音さん、倒れる前に『ガラス』って言ってたけど、何のことだったの?」
 巡音さんは顔を上げると、怪訝そうな表情になった。
「わたし……そんなこと言った?」
 俺は巡音さんの顔を見た。とぼけているとか、嘘をついているわけじゃなさそうだ。
「少なくとも俺にはそう聞こえたけど」
 巡音さんは考え込む表情になって、それから首を横に振った。
「ごめんなさい……憶えてないわ」
 貧血でふらついていた時だから、憶えてなくても仕方がないかなあ。こだわった俺がバカみたいだけど、人間たまにはバカもやるさ。
 巡音さんは何か考えるような表情で、フェンス越しに外を見ている。
「ガラスって、透き通っているから外が見えるのよね。だから、ガラスの中に閉じ込められたら、すごく苦しいと思う。外は自由に見えるのに、自分は動けないから」
 不意に、巡音さんはそんなことを言い出した。一瞬、曇ってるガラスもあるよと言いそうになったが、俺は口をつぐんだ。今は、茶化していい時じゃない。
 ガラスの中か……今朝の夢で、巡音さんはガラスの棺に入っていた。
「その状態だと、眠っている方が楽だと思う?」
 巡音さんは、俺の言ったことに驚いたみたいだった。ちょっと唐突すぎたかなあ。
「……多分、ね。眠っていれば、外は見えないから」
「何も見えないし、何も感じないんじゃない?」
 って、姉貴は言ってたよな。そしてそれは死んでいるのと同じだって。
「だから楽なのよ。見えるけれど動けないのとは違うから」
「でもそれだと、死んでいるのと一緒なんじゃない?」
 言いたいことはわからなくもないが……。
「……一緒かも」
 巡音さんは淡々とそう言った。表情も無表情に近い。
 俺が言うのもなんだけど、起きた方がいいと思うぞ。眠りっぱなしより。
 あ、でも……。
 考えてみたら、初めて、まともに巡音さん自身の意見というものを聞いた気がする。
「ちょっとほっとした」
「……え?」
「巡音さんの考えてること、初めてちゃんと聞いたから」
 何も考えてないわけじゃないんだ。
「どうして鏡音君がそんなことを気にするの?」
 巡音さんの質問。どうしてって……なんだか、放っておけない気がするんだよ。でも、それをそのまま言うのもあれだしなあ。
「単なる好奇心だよ」
 巡音さんは、また困ったような表情をしている。
「あ……それと」
 俺は鞄から、もう一枚のDVDを取り出した。ミュージカル『RENT』のDVDだ。
「良かったら、これ、見てみない? 残念ながら映画版だけど」
 舞台版のDVDは出ていない(注)映画は曲が幾つかカットされたり、シーンが変更されたりしていて、話が多少わかりづらくなっているから、できれば舞台の方が良かったんだが……こればっかりは仕方がない。
 巡音さんはDVDを受け取って眺めている。
「これ……鏡音君がこの前聞いていた曲のミュージカル? 『ラ・ボエーム』が原案の」
「そうだよ」
 巡音さんはもう一度、DVDに視線を落とした。そのまま、何やら考え込んでいる。……あれ? なんか、変な表情してるけど、どうしたんだろう。
「……巡音さん?」
 俺が声をかけると、巡音さんははっとこっちを見た。……何だろう。何かに怯えているみたいに見えるけど……。興味ないけど、それを直接口に出したら俺が怒るとでも思ってるんだろうか。そこまで了見狭く無いよ。
「こういうのには興味ない?」
「そうじゃなくて……」
 視線が動いている。言いにくいことがあるみたいだ。
「言いたいことあるならはっきり言ってくれていいよ」
 巡音さんはまだしばらく迷っていたが、やがて、意を決したように口を開いた。
「あのね……わたしとしては、これ、とても見てみたいんだけど……」
 だから貸してあげるって。だが巡音さんが言い出したのは、意外なことだった。
「わたしの家……この手のもの、全部禁止なの……」
 え?
「……全部って?」
 思わず訊き返す。
「漫画とか、アニメとか、ゲームとか……最近の音楽とか……」
 巡音さんは伏し目がちに、小さな声でそう言った。ちょっと待て。何だその滅茶苦茶な禁止令は。じゃあ、巡音さんは普段どうしてるんだ?
「えーっと……それ全部禁止なの? 何か条件ついてるとかじゃなくて、最初から全部?」
 一応確認。巡音さんは頷いた。……信じられない。
 そりゃ俺だって「勉強するまでゲームはだめ!」とか言われたことなら、数え切れないぐらいある。でもそれはあくまで「勉強するまで」であって、やることさえやっておけば、漫画を読むのもゲームをやるのも自由だ。そのものを禁止されることはさすがに無い。
「そういうものは、悪影響があるって……」
 ゲーム脳がどうたら、とか変な理屈こねてる学者の本でも読んでるんだろうか。
「俺の本音を正直に言わせてもらうと、巡音さんの親って、厳しすぎるというか、むしろ変だと思う」
 あ、結構きつい調子になってしまった。巡音さんが、視線を伏せてしまう。参ったな。傷つけてしまっただろうか。
「……やっぱりそう思う?」
 あれ。予想したのと違う反応が来たぞ。
「やっぱりって?」
「わたしも……その、変じゃないかとは思ってたんだけど……。ミクちゃんの家は、どれも禁止じゃないし……あまり話したことないけど、他の人もそうみたいだし……でも、ミクちゃんの家はミクちゃんの家だから……」
 おどおどと巡音さんはそう言った。
「要するに、これが我が家ルールなんだからそれに従ってろって、そう、言われているわけ?」
 訊いてみると、巡音さんはまた頷いた。道理でいつもクラシックばかり聞いてたり、固い本ばかり読んでたりするわけだ。クラシックが好きだから、文学作品が好きだから、ってわけじゃなくて、それしか駄目だからか。しかし、巡音さんの親ってのも、よくわからないな。巡音さんが今朝読んでたの、ガルシンの短編集だったぞ。あの作家、確か精神病院に出たり入ったりを繰り返したあげく、三十ちょいで自殺してるんだが……。正直、精神が不安定な時に読む本じゃないと思う。
「そういうわけだから……わたし、これ、借りて帰るわけにはいかないの。もし見つかったら、鏡音君にも迷惑がかかるし」
 巡音さんはそんなことを言い出した。
「迷惑って?」
「……わたしがまだ小さかった頃の話なんだけど、ミクちゃんに漫画を貸してもらったことがあるの。そうしたら、それが見つかって……お父さん、ひどく怒って。ミクちゃんの家に電話をかけて……ひたすら苦情を……」
 これは巡音さんにとっては思い出したくない思い出なのか、話すにつれて、どんどん声のトーンが下がっていった。ってちょっと待てよおい。そこまでやるのか、巡音さんの家。
「その時、巡音さんいくつだったの?」
「確か……小学校の一年生」
 会ったことのない相手のことをどうこう言うのもなんだが、巡音さんの親って、相当イカれているんじゃないだろうか。
 しかしこうなると、これを貸すのは無理だな……。折角見たいって言ってくれたのに。うーん、何か打開策は……。
 視聴覚教室には、再生機材があったな。でも、生徒だけじゃ使わせてもらえないだろうし……。初音さんの家は……幾らなんでもこんなこと頼むのは、図々しすぎるよなあ。
「あのさ……巡音さん。だったら、いっそ俺の家に来る?」
 結局俺が出した結論はこれだった。幸い、我が家ならやかましいことを言う人はいない。……姉貴にからかわれるかもしれないけど。
「家って……」
 こう言われたことがよほど意外だったのか、巡音さんは目を見開いている。
「だから、俺の家。友達連れてきてどうこう言われるような、うるさい家じゃないから。クオはよく遊びに来てるよ」
 ここで俺は一つ、問題点に気づいた。俺の家には親がいない。つまり、下手をすると俺の家で、俺と巡音さんが二人っきりになってしまうわけで……。
 ……姉貴に頼んで、当日は家にいてもらおう。留守中に女の子と二人っきり、なんてことが後でバレたら、色々とややこしいことになる。やましいことが何もなかったにしても。痛くもない腹を探られるのはごめんだ。
 巡音さんは考え込んでしまった。せかしてもしょうがなさそうなので、俺は巡音さんが結論を出すのを、黙って待つことにした。……断られるかもしれないな。それはそれで仕方がないか。
 しばらくして、巡音さんが顔をあげた。結論が出たらしい。
「……本当に行っていいの?」
 えーっと、これは、OKってことだよな。
「来るってこと?」
 巡音さんはおずおずと頷いた。
「……日曜なら、なんとか、家を抜け出せると思うから……」
 日曜ね。姉貴に確認取っとかないと。
「鏡音君の家って、どこにあるの?」
 俺は手帳を取り出して、自宅の住所と最寄駅、電話番号、それから俺の携帯の番号とメールアドレスを書いた。それからそのページを破って、巡音さんに渡す。
「俺の家、ちょっとわかりにくいとこにあるから、駅に着いたら電話して。迎えに行くから」
「……ありがとう」
「ついでに巡音さんの携帯の番号とアドレスも教えてもらえる? もしうちに不都合があったら、連絡しないといけないから」
 そう言うと、巡音さんはまた困った表情になった。えーと、もしやこれって……。
「あの……教えるのはいいけど、なるべくかけないでもらえる?」
「どうして?」
 想像はついたが、一応訊いてみる。
「お父さん、わたしの携帯を調べることがあるから……見慣れないアドレスがあったら、多分問い詰めると思うの」
 巡音さんの親は、娘の一挙手一投足を監視してないと気が済まないんだろうか……。どんな親だよ。
「だから、教えてくれたのは嬉しいけれど、わたしの方から携帯とかにかけることは、多分ないと思うの……ごめんなさい」
 いや、巡音さんが謝ることじゃないと思う。
 巡音さんが自分の携帯番号とメールアドレスを紙に書いて渡してくれた。そんな事情があるんじゃかけることはあまりなさそうだけど、一応自分の携帯に登録しておこう。
「それじゃあ、日曜日に」
「ええ……ありがとう」
 そうして、俺は巡音さんと別れて帰宅した。


(注)『RENT』は、現在、舞台版のDVDが発売されています。ですが、話の都合上、この作品の時間軸を「舞台版のDVDが発売される前」ということにしています。

ライセンス

  • 非営利目的に限ります
  • この作品を改変しないで下さい

アナザー:ロミオとシンデレラ 第十二話【雪の中で咲こうとする花】

 都合は……大したことじゃないんですが、舞台版のDVDが発売されるちょっと前に、オペラ映画の『ラ・ボエーム』が公開されているんですよね。DVDを貸してもらわなくても、これを見に行けばいいじゃん! となってしまったので、この話の時間軸は「映画版『RENT』公開後」~「映画版『ラ・ボエーム』公開前」ということになっています。

 この次はレンの家訪問記になるわけですが……話の構想のまとめ方で少々悩み中です。それに長くなりそう……。更に章タイトルが浮かばない……と、考えなくてはならないことが多いのでした。与太話ですみません。

閲覧数:1,106

投稿日:2011/09/09 19:35:07

文字数:5,824文字

カテゴリ:小説

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  • 日枝学

    日枝学

    ご意見・ご感想

    7月中旬から今にかけて、大体2日か3日間隔のペースで投稿、すごいですね。物語の中で、一人ひとりのキャラが立っていて良いですね。キャラ書く時、どれもこれもが似たような正確になってしまうことってよくあると思うんですよ。けれど目白皐月さんの作品では、そのキャラの書き分けが上手く出来ていて、しかもその一人ひとりを緻密に書いているのがすごいと思います。
    あと、『ロミオとシンデレラ 第十一話【冷たくもなく、熱くもない】』の途中の、
    >言葉が、周りを舞っているような気がする。わたしには、絶対に捕まえられない。
    って描写に惹かれました。その文章一つでその言葉にし難い雰囲気を上手く表現できていて、おおおお、と思いました。
    読んでいて、自分自身も作品書くモチベーション上がりました。続き執筆、頑張ってください!

    2011/09/12 21:02:35

    • 目白皐月

      目白皐月

      こんにちは、日枝学さん、メッセージありがとうございます。

      いや?、毎日投稿する方がもっとすごいですよ(笑)
      この時期はちょっと暇だったので立て続けに投稿できたのですが、この先ちょっと忙しくなるかもしれないので、ペースは落ちるかもしれないです。
      キャラクターの性格の書き分けに関しては、かなり気を使って意識して書いています。ごちゃごちゃになると、書いている私が辛いので……。それでも限度はあったりしますが。

      日枝さんもちょっと前までハイペースで掲載していましたが、あまり根を詰めると集中が切れてからのリカバリが大変になりますので、その辺りは気をつけてくださいね。私は、作品は少し寝かせるぐらいがちょうどいいと考えています。

      2011/09/13 00:31:53

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