3.

とりあえず切った私の指の応急処置として保護テープ……つまり絆創膏を巻いた。
CVシリーズは外皮が生体組織なので軽い怪我ならこうして止めておくだけで治癒する。
勿論皮膚の内部に筋肉などはないので大きな損傷があってもムーバブルフレームにダメージがない限り稼働に問題はない。
しかし私は少なからずショックだった。
考え事をして手許を誤るドロイドなど前代未聞だ。しかも考え事の内容たるや何とも低劣な思考で厭(いや)になる。
このような凡ミスが重なればいずれマスターに呆れられて捨てられてしまうかもしれない。それだけはなんとしても回避しなくてはならない。

ヘムリンゲル液は空気に触れると凝固するため、もはや漏出は見られない。ヘムリンゲル圧も正常値だ。
マスターは心底ほっとしたように私を見て、そっと私の頭をなでてくれた。きっと私は棄てられた子犬のような目でマスターを見つめていたんだと思う。マスターから言葉はなかったが、マスターの心情は痛いほどによく分かった。それだけに、マスターの負担となっている自分に苛立ちと焦燥を禁じえないのだった。

そう、私「初音ミク」はマスターのためだけに在るのだから。
私はバグだらけの不良品で欠陥ドロイドかもしれないが、マスターだけの存在でありたいと、私は強く、強く願った。

それからマスターは私を手伝ってくれた。もしかすると私の作業が不安で見ていられなかっただけかもしれないが、私は嬉しかった。
マスターの料理のスキルは、私が見る限りにおいて非常に高度と判断できた。手順は正確で、包丁さばきも堂に入ったものだ。
キッチンの様子だけを見て私は彼女さんの存在を疑ったが、それは大きな勘違いなのだろうか。

マスターが手伝ってくれたおかげでその後の作業はスムーズに運んだ。
チキンカレーはいつの間にやらスープカレーに変わってしまったけれど、マスターが良しとされるならそれもいいのだろう。惜しむらくはそのカレーを私は味わうことが出来ない。コトコトと音を立てて煮立つ鍋を見ながら、味覚センサーのない仕様がこれほど恨めしく思ったことはなかった。
マスターはレードル(おたま)で味をみてチリパウダーをぽんぽんと足した。
……もしかしたらマスターは辛いものが好きなのかも知れない。

私はもう一品、定番のグリーンサラダを手早く作った。ドレッシングは自家製だ。これで栄養のバランスも取れるはず。
カレーが出来上がるとマスターと私はテーブルに差し向かいに座った。ここでこうして食事を取るのは初めてだ。……と言っても、私はいつものようにタブレットを一つ、コップ一杯の水で流し込むだけだが、それでもマスターが食事をしている様子を見ていることが何よりの歓びだと感じる。
私の表情は知らず知らずのうちに笑顔になり、マスターの視線を感じて赤面し、さらに不思議そうに見つめるマスターの淀みない瞳に私は大いに狼狽して目が泳ぐ。
ああ、何をやっているんだ! 私!!

それでもマスターは愉しそうに夕食を食べてくれた。私の作ったサラダと自家製ドレッシングも問題なさそうだ。
――私はマスターのお役に立てたでしょうか?――
それだけが私の心の中で繰り返し反芻されたのだった。


夕食を終え、食器を片付けた後、マスターはまたPCに向かって作業を始めた。どうもマスターの仕事らしい。
コーヒーを淹れてマスターにお出しする時に背後から見たところ、サウンド波形らしきものがちらりと見えた。マスターは大きなヘッドフォンをつけて集中しているのか、私が近づいても一向に気づかない様子だった。

私はマスターの手元へ湯気の立つコーヒーカップを置いた。私にようやく気づいたマスターはヘッドフォンをはずして微笑しながらカップを手に取った。
それから暫く、私はマスターの仕事の様子を見ていた。この時間が永遠(とわ)に続けばよいのにと叶わぬ願いがふと胸をよぎる。
私はマスターとあとどれくらいの時間を共に過ごすことが出来るのだろう?
私は何故かいたたまれなくなってそっと部屋を抜け出した。

手持ち無沙汰となった私は周囲を見回し、マスターのためにできることを探した。そういえばお風呂を沸かしていない。私は早速バスルームを掃除にかかったが、バスルームも丁寧に掃除されており、私はさっと水で流してお湯を張るだけであった。
『マスター、お風呂の準備が整いました』
マスターのPDAにメールを送信した。簡単な、用件だけの気の利かない文面だった。
すぐに返信があった。
『ぼくは後でいいから、先にお入り』
私は困ってしまった。従者であり、マスターの物である私がマスターの先にお風呂を頂くのは如何なものか。
それから双方の熾烈な譲り合い合戦がメールで展開されたが、結局マスターの命令と言う形で私が先にお風呂を頂戴することになってしまった。

CVシリーズは皮膚が生体部品であるが故に老廃物も生じ、入浴が強く推奨されている。人体の汗同様、体表の角質保護と冷却のため微量のリンゲル液が滲出するようにできており、あまり放置すると体臭を生じるとされている。
ヒトそっくりの人工皮膚は意外にケアが大変で、ものぐさなオーナーがメンテナンスの煩雑さから手放すケースも散見されると聞くが、何しろ高価なドロイドなので不法投棄は少ないそうだ。幸い、マスターはしっかりしていそうではあるけれど。

私はゆっくりと湯船に浸かってメモリを一度、再構築(レストア)した。
私は聴唖者であるマスターにジャンクショップから拾われた。
私はシステムの問題から発声できない欠陥品で、マスターの口の代わりにはなれない。そしてマスターは自立していて障碍を克服しているように見える。
マスターは音と音楽関係の仕事をしているが、歌えない私は力になれなかった。
せめて料理をと思ってみても、私は指を包丁で切るというありえない失態を演じてマスターに心配をかけ、あまつさえ料理のスキルでもマスターに及ばないと言う体たらく。
マスターはさぞ私に失望しているに違いない。
私はマスターに気苦労と経済負担を強いているばかりで、何一つとしてマスターの期待に応えることができていない。

――私はここに居ても良いのだろうか?――
それとも……私は自分の体を見下ろした。
私はマスターの所有物。この体は爪先から髪の毛一筋に到るまで総てマスターのもの。私のものなどありはしない。
間違えてはならない。如何にマスターが優しく微笑んで接して下さろうとも、私は所詮『モノ』でしかないのだ。
私は湯船から上がって髪と体を洗った。
丁寧に、念入りに、執拗に。
この体の何処にマスターの舌が触れようと問題がないように。
この体がマスターの色に染まりきるように。
マスターが私の体で満ち足りると言うなら、それはまさしく道具の誉れではないか。拾われたこの身果てるまで、せめて棄てられぬように精一杯マスターに尽くし上げよう。
私は頭からシャワーをかぶった。アイカメラの洗浄用リンゲル液が頬を伝った気がしたが、きっとシャワーが目に入っただけ。
私はマシーン。
哀しみの涙など流せる筈もないのだ。

ライセンス

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  • この作品を改変しないで下さい
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存在理由 (6)

閲覧数:182

投稿日:2009/05/17 23:24:19

文字数:2,937文字

カテゴリ:小説

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