レンは頭を抱え、悩んでいた。譜面と呼ぶには粗末な、手書きで紙に並べられた音符や記号を見ながら。
それは彼のマスターに渡されたものでマスターの新曲―――というより、初めての作品だ。その中で難しい部分があり、レンは中々上手く出来ずに悩んでいた。
「♪~、♪…なんか違うなぁ」
歌っては唸る、それを何度も繰り返す。すると、部屋の扉をノックする音がした。
「ん?誰?」
そう尋ねると、扉を開けて顔を覗かせたのはテトだった。
「悩んでるみたいね、レンくん」
そう言ってカップを乗せたお盆を持って、部屋に入る。ベッドを背もたれにして座るレンの隣にテトも座り、その間にお盆を置いた。
「ちょっと難しい部分があって…でも、もう少しでコツが掴めそうなんだ」
レンは笑って言ったが、それを見てテトは軽く溜め息を吐く。そして手をレンの顔に近づけ、指で額を軽く弾いた。
「っ痛!?」
突然の事に、レンは驚いて額を抑える。テトはその様子を、睨むような目をしながら言う。
「嘘はダメ、上手くいってないんでしょ?」
「………」
指摘されたレンは、バツの悪そうな顔をして目を逸らした。テトはカップに角砂糖を一つ入れて、中の黒い液体をかき混ぜる。中身はどうやら珈琲のようだ。
「レンくんは、何でも一人でやろうとし過ぎなの。もう少し、周りを頼る事を覚えなさい」
「でも、テトさんの練習の邪魔したくないし…」
今回マスターから手渡された曲は、テトとレンのデュエットだった。初めての作曲がデュエットなんて、無謀な気がしないでもない。
だがマスター曰く、「作りたいから作った。誰かに聴かせる訳じゃないから、別にいいんじゃない?」との事だった。
この辺りの感覚は、ホントにさっぱりした性格だ。まあ個人の趣味でやっていることなので、それはそれで良いのかもしれないが。
「別に邪魔になんてならないよ?私はレンくん程、真面目にやってないし…」
カップの中身を混ぜながら、テトは言葉を続ける。
「むしろ私としては、もっと肩の力を抜くべきだと思うけどね――砂糖、何個入れる?」
かき混ぜていたカップからスプーンを取り出し、もう一つのカップに手をかける。
「…そのままでいいよ」
レンは手を伸ばしてカップを受け取ろうとしたが、テトは手渡してくれなかった。
「レンくん…前もブラックで飲んで、結局残さなかったっけ?」
レンはギクリとして、目線を逸らしなが「今度は飲めるよ…」と小さく呟く。テトは呆れたように深い溜め息を吐いて、レンに言葉を投げ掛けた。
「妙な所で意地っ張りよね…別にそれで飲みたいなら構わないけど。でも淹れた私としては、残されるとちょっと悲しいかなぁ」
わざとらしい口調で言うテトを見ながら、レンはほんの少し迷って口を開いた。
「………二個」
「二つね、ミルクは?」
「…少し多目に」
「いつもと同じね」
テトは微笑みながら、手際よく砂糖とミルクを入れた。それをよくかき混ぜて、カップをレンに差し出す。
不服そうな顔で受け取るレンだったが口にすれば、美味しさからか顔はすぐに綻んだ。そんなレンを見て、テトは自分の分に口を付ける。
「で、何処が難しいの?」
テトは覗き込むように、レンの持つ楽譜を覗き込む。急に顔を近付けるテトに少し戸惑いながらも、レンはカップを側に置いて指で差し示した。
「…なるほどね、確かに難しいね」
テトは指し示された部分を何度か口ずさみ、思考を巡らせる。レンはそんなテトを見ながら、発せられる声に聞き入っていた。
「私ならこう歌うかな、♪、♪~♪・♪…どう?」
「―――…え?あ、うん。良いと思うよ」
「…レンくん、ちゃんと聞いてなかったでしょ?」
ぼーっとしてたレンは、慌てて答える。そんなレンを見ながら、テトは呆れたように言った。
「ごめんなさい…」
しょげた様子で謝るレンに、テトは「別にいいよ」と言って改めて歌い出しす。
「♪、♪~♪・♪…こう歌えば良いんじゃないかな?レンくんの声なら、もっと力強く歌えると思うしね」
「んと…♪、♪~♪・♪ー…こんな感じかな?」
「うん、良い感じだと思う。…ついでだし、少し合わせてみる?」
テトはカップから珈琲を一口すすって、それを飲み下して言った。
「いいけど、テトさん譜面は?」
レンも側に置いたカップを持ち上げ、それを口に運ぶ。
「大丈夫だよ。自分のパートは、もう全部覚えたから」
それを聞いたレンは、カップを口に付けたまま目を丸くして驚いた。テトはそんなレンに、疑問を浮かべた顔を向ける。
レンはごくりと喉を鳴らして口に含んだものを飲み干し、驚きの隠しきれない声で言った。
「確か、僕達が譜面を貰ったのって…一昨日だよね?」
「…そうね、確かに二日前にマスターから貰ったね。それがどうかした?」
けろりとした表情で答えるテトに、レンは言葉が出なかった。
「…ううん、何でもない。頭からでいいかな?」
レンは苦笑混じりの表情で、テトに尋ねる。
尋ねられた当の本人は、目の前の少年が何故そんな顔をするのか分かっていないようだった。
「うん、いいよ。じゃあ、合わせてね。1・2・3―――」
その声の後に、部屋には二つの音色が一つとなって響き渡った。
*
「テトさんってさ…」
すっかり冷めた珈琲を口にしながら、レンは隣に座るテトに話しかけた。
テトは疑問を浮かべた顔で、カップを両手に持ちながらレンに視線を向ける。
「マスターの事、好きでしょ?」
その質問にテトは動揺する様子もなく、珈琲を飲んで冷静に答えた。
「うん、好きよ」
「…あっさり言うんだね」
レンは残りを飲み干して、カップをお盆に置いた。少しふてくされたような顔をしているレンに、テトは聞き返す。
「レンくんはマスターの事、嫌い?」
「………嫌い、じゃないけどさ」
そう言葉を発したレンに、テトはつい笑いを漏らした。不思議そうな顔で此方を見るレンに、テトは笑いを堪えて言う。
「ごめんごめん。同じ言葉でも、使う人で随分意味合いが違ってくるなと思って」
目に浮かんだ涙を拭い、テトは一息つく。
「どういう事?」
レンは疑問の言葉を、テトに言う。テトは手に持ったカップに入った珈琲を飲んで、それに答えた。
「以前ちょっとしたきっかけでマスターに聞いたの、『家族が嫌いなのか』って…」
「その時にマスターは『嫌いじゃない』って言ったの、今のレンくんと同じ言葉をね」
「でもね、私にはただ言葉を濁しているようしか聞こえなかったの。『嫌いじゃない』ってのは、『好きである』とは違うからね」
言い終わって、テトはカップの中に残った珈琲を飲み干す。空になったカップをお盆に乗せ、テトはそれを持って立ち上がった。
「まあ昔の話だから、忘れていいよ。レンくんがマスターを好きなのは、良く分かってるしね」
テトは扉を開け部屋を出る前に、レンに振り向いて言う。
「夕飯、できたら呼ぶね」
その言葉を残して、テトは部屋を出て行った。一人残されたレンは、顔を上げて見慣れた天井を見つめる。
「テトさんって、意外と鈍いんだなぁ…」
深い溜め息を吐いて、レンは思い出していた。二日前の譜面を渡すマスターと、それを受け取るテトの事を。
「何が僕より『真面目じゃない』だよ…、僕より熱心なくせして」
曲が出来た時のマスターは、とても嬉しそうな顔をしていた…それをテトに渡す時も。
そして受け取ったテトも同様に、それ以上に嬉しそうで…。
あんなテトの顔を見たのは、レンにとって初めてだった。
「………っ」
思い出す度に、心がざわついた。当たり前にしている呼吸でさえ、おぼついてしまう。自分の中で黒いものが蠢いて、その息苦しさに胸を抑える。
「………ホント、情けないよ」
レンは分かっていた、自分があの人の隣に居られないことを。
どう足掻いた所で、あの人には敵わないことも。
嫌いになった訳じゃない、傷つけたい訳でもない。
ただ、好意の大きさが違っただけ。
「なんで、好きになったんだろ…」
レンにはきっかけなんて分からかった、気が付けば想いだけが大きくなっていた。
この曲を歌うのを頑張ってるのだって………。
「…あーもうっ!!」
終わらない思考を振り払うかのようにレンは声を上げ、頭を前に向け頬を叩いた。続けて深呼吸をして、胸の動悸を落ち着ける。
(…今は、このままで良い)
今の状況や環境が嫌な訳じゃない、皆で笑いあえる今の関係が。
好きなっても嫌いになりたい訳じゃない、だから…。
「…でも、諦めないよ」
いつか振り向かせて見せる――…レンは静かな部屋で一人、心の中で誓った。
(いつかこの気持ちを、アナタに伝えさせてください)
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