僕は君の
国一番の総合病院、その院長息子が入院患者であった少女を地下の手術室で解剖し、失血死させた。
こんなホラー映画の一部分のような報道は一切されなかった。理由は簡単だ。醜聞と責任追及を恐れた父が、文字通りその権力の全てを駆使してもみ消したのだ。
少年は総合病院の特別待遇という名の隔離病棟で目覚め、母からその事実を聞かされた。
どうでも良かった。
母から告げられる今後の指示を右から左へ聞き流しながら、少年は数週間上の空で過ごした。そして現実逃避から戻ってから、自らが握り潰してしまった命を想って泣いた。
申し訳なくて申し訳なくて、せめて彼女の親族と直接会って謝りたかった。しかしその希望が叶わないことは分かり切っていた。どのようにして黙らせたのかは知らないが、もう二度とこちらの人間が接触出来ないようにするくらいはしているだろう。
そもそも、事件が起こってから少年には父に会うことすらできなくなった。
今まで己の後継者となるべく様々な義務を背負わせてきた父親だったが、今回の暴走で完全に見限られたらしい。その決定をわざわざ書類にして実の息子に寄越した父には、呆れて笑ってしまった。
このまま精神病棟に閉じ込められて一生を過ごすかもしれない。そんな可能性が頭を過ったが、返ってそれも好都合だった。
罰を、与えて欲しかったのだ。
しかし父は、半年後に少年を隔離病棟から出した。病院に繋がっている実家に戻し、同じ建物内で衣食住を共にする事を許した。
隔離病棟で過ごした数カ月、始めは茫然自失状態だった少年だが徐々に精神状態を回復し、何か自分にできることは無いかを探し始めた。
その時に目に映ったのは、同じ隔離病棟に居る患者たちだった。
人と違う言動を繰り返す彼ら。けれど少年も外に居る時、他の子から見れば異端な存在だっただろう。そんな少年に声をかけてくれたのが亜麻色の少女であり、それが少年を救った。
それを思い出して、少年は彼らに話しかけた。
おかしな言動を繰り返す彼らにもちゃんと心があり、気持ちを通じ合わせる事ができるのだと分かった。時にはどうしても理解できない事もたくさんあったけれど、『理解できない』ことを知ることができればお互い満足できた。
精神科医の先生との会話も、少年の行動を後押ししてくれた。その時は知る由もなかったが、事件の実態を知る父の腹心の部下であった彼の強力な助言が少年を隔離病棟から出させたらしい。
父と顔を合わせることはほとんどなかった。更には、以前のように勉強を強制されることすらなかった。彼は少年をもう『いないもの』とみなしており、気にかけるものでもなかったのだろう。
思い通りにならない実の息子の代わりを、父はもう見つけたのだから。
少年の従兄妹だった。
少し前の少年と同じく、過剰な教育と期待を寄せられていた。彼女の気持ちは痛いくらいによく分かったから、少年はほんの少しでも彼女を元気づけようと声をかけた。
父に何か言われているのか始めはろくに返事もしなかった少女だったが、それでも諦めずに毎日挨拶をしてくる少年に少しずつ心を開き、少年には愚か他の誰にも見せる事の無かった笑顔を彼に向け始めた。
嬉しかった。
亜麻色の少女が自分にしてくれた事を、他の誰かに与えられたから。
償いになると思うほど馬鹿ではなかったけれど、それでも亜麻色の少女から貰った『サイノウ』ではない『何か』を実感することができたから。
小児病棟と精神科の隔離病棟を毎日行き来しながら四つの季節が一度ずつ訪れた頃、父から課される教育を一身に浴びていた従兄妹が倒れた。すぐさま病院を上げての原因究明が開始され、その結果は絶望的なものだった。
重度の心臓疾患。生存の見込みがある治療法は心臓移植のみで、それも四十八時間以内に施術を開始する必要がある。
世界全国共通の医学界の権威である彼の跡取りの危機に、地球上の全医療機関が臓器提供者を探し求め、そして患者の恐ろしく身近に見つけた。
落ち込んでいる彼女を、必死に慰めている一人の少年。
検査の結果少年の心臓は、従兄妹に移植可能であると結果が出た。
実の息子の『教育』のために人間の命を消費出来る男だ。父に呼び出されて遠まわしなれど事実上の死刑宣告を受けた時、少年はそれでも笑って頷いた。そして丁寧に頭を下げた。
そして手術を始める前に、従兄妹と少し話したいと懇願した。
鬼の目にも涙というものなのかそれともただの気まぐれか、父は監視付きではあるが面会を許可した。
「わたし、死んじゃうのかな?」
病状は一切知らされていないはずだが、従兄妹とて医学をこれまで学んできた子だ。これだけ絶対安静状態が続けば、何かとんでもない病魔が身体にあると疑って当然だろう。
「大丈夫だよ。君は絶対死なないから」
そんな従兄妹の手を握って、こう答えた。今度こそ、今度こそ嘘じゃない。人間としては己と同じく最低の父だが、医者としての技術はそれこそ世界が認める腕だ。あの利己的な男のこと、跡取りのためとなれば死力を尽くすだろう。
「大丈夫だよ」
もう一度強く言う。握る手に力を込めるが、情けないことにそれは僅かに震えていた。具体的な事が説明されないせいかただの気休めだと思ったらしい従兄妹は、それでもありがとうと笑みを浮かべた。
「貴方は医者になるの?」
唐突な将来に関する質問。これから心臓の臓器提供者となって死ぬ少年には無意味なことだ。
「僕はなれないよ。父が許さないだろうし、僕にはそんな資格が無い」
自嘲が零れる。自分を救ってくれた少女を、あまりにも身勝手な理由で殺してしまったのだ。命を救う医師などにはどう転んでもなれない。
しかし、従兄妹は首を振った。
「貴方は医者になるべきだと思う。わたしなんかよりずっと頭が良いし、それに貴方は『人を救う』医者になれる」
よく、分からなかった。医学とは人の身体に関する知識を身に付ける者で、医師とはそれを駆使して人を助ける職業だと思っていたから。
首を傾げる少年に、従兄妹は言い加えた。医者には父のような『病気を治す』医者と、少年のように『人を救う』医者がいるのだ、と。
「病気を治すのは知識と技術と設備があればできるけど、人を助けるのは貴方のような『サイノウ』を持った人だけだと思う」
だから諦めないで。と手を握り返され、少し困りつつも心中は穏やかだった。
「僕は、人を救うなんてできないよ」
首を横に振る。しかし、従兄妹も同じように少年の言葉を否定した。
「わたしは、貴方に救われた。叔父さんにここに呼ばれて、毎日毎日勉強させられて、医者になりたいとは思っていたけれど気が狂いそうだった。けれど貴方が励ましてくれたから、何とかこなしてこれたの。他の誰もそんなことできなかった。貴方だけの『サイノウ』よ」
それを持っていたのは、少年を助けてくれた亜麻色の少女だ。そして恐らく、死寸前まで追い詰められているこの従兄妹にもそれがある。
何故なら今、また少年は数われたから。
慰めるために来ていた少年が、逆に助けられてしまった。もう彼女の話す機会は永久にやってこない以上、今の内に伝えられる事を言っておかなければならない。
彼女の小指に自分のそれを絡ませて、少年は祈るような目で見据えた。
「約束して。君は絶対僕なんかよりいい医者に、たくさんの人を助けられる医師になるって」
混乱が従兄妹の目に灯るが少年の真剣な様子に疑問も挟めなかったのか、しばらくしてこくりと頷いた。
「そろそろお時間です」
手術室と医師の準備が整ったらしい。立ち上がろうとする少年の手を逃がさぬように握りながら、従兄妹は泣きそうな顔で取り縋った。
「もう行くの? 早過ぎるよ」
浮きかけた腰を再び下ろし、両手でもう一度小さな手を握った。
「心配しないで、すぐに君の所に行くから」
寿命が来たというのに、恐ろしく胸中は静かだった。柔らかく笑ってから、そっと繋がっていた手を離して立ち上がる。
「絶対だよ、約束だからね!」
扉を閉じかけた時に、悲鳴に似た従兄妹の声が響いた。
「もちろんだよ」
苦笑いして言うが、従兄妹には届かなかっただろう。
もうこうやって話をする事も手を握る事も出来ないけれど、間違いなく君と他の誰よりも近い場所に身体の一部を遺せるから。そう言外で呟きながら、急ぐでもなく手術室に向かって歩き始めた。
監視役がそれに続くが、生憎今更ここで惜しむ命ではなかった。むしろ、あの地下室で己の喉をかき切った時よりはよほど気分が良い。
上機嫌のまま手術室に到着し、誰に強制されるまでもなく手術着に着替えた。そして冷たく硬い手術台の上に寝そべると、完全に用意を整えた父に見降ろされた。
目を合わせたのは事件以来だったが、もう少年にとってどんな種類の興味が湧く人物でもなかった。ただ目を逸らす事も億劫で、そのまま彼の不思議そうな瞳を観察していた。
「何か、言うことは無いのか? 今なら何でも聞いてやろう。愚痴でも私怨でも」
高飛車な言い草もいつものことで腹も立たなかったが、ふと思いついた。今まで考えたことは無かったが、もしこの男が従兄妹の言う『病気を治す』医者ではなかったとしたら、少年は恐らく一生誰かを助けられなかった。
自分の跡取りのためなら血の繋がった実の息子すら殺せる男だから、少年は誰かを救う事ができる。そしてその事実に、救われている。
長い間迷っていたが、せっかちなはずの父は急かす事も打ち切る事も無かった。そんな男を改めて見据え、ようやく口を開いた。
じゃあ一つだけ、こう前置きして少年は最期に父に伝えた。
「貴方のお陰で彼女を救える。ありがとう」
まさか礼を言われるとは思っていなかったらしく、マスクをしていても分かる程に驚愕が父の顔に浮かぶ。しかし一瞬でそれは消え去り、父は麻酔ガスの吸入器を少年の口に当てた。
「愚かな息子の命一つで、病院の未来を買えるから買っただけだ」
声が震えているように聞こえたのは、麻酔の影響で聴覚が部分的に働かなくなっていたからだろう。
次第に暗くなっていく意識。視界が真っ暗になった瞬間、光り輝く世界に少年は逆戻りした。
そこに現れた、一人の少女。
無意識の内に手を伸ばし、それは相手の両手によって歓迎された。
そのぬくもりに触れて、顔が歪んで涙が一気に溢れ出す。
ごめん、ごめん、ごめん、ごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめん――……
本来何の関係も無い親子喧嘩に巻き込んで、そして勘違いと言うにも下らない理由で命を奪ってしまった。
言葉での謝罪が何の役に立つかもわからない。
けれど、もう少年にはそれ以外何もできなかった。
亜麻色の少女はそんな少年を見て困ったように笑い、そっと顔を近づけた。
ほんの少しだけ触れあった唇。
思わず涙も、無意味な言葉の羅列も止まった。
少女は何も言わなかった。ただ優しく微笑んでくれていた。
永遠と同じくらい長い一瞬の後、少年の背後に再び強い光が灯る。少女はそれを指差した。
意味が分からず混乱していると、亜麻色の瞳に悪戯っぽい色が混じった。そして囁かれたのは天使の導きだった。
「きみのみちは、まだおわってない」
少年は首を横に振る。そんなはずは無い。物心つく前から医学書を愛読していた少年だ。人間が心臓を失って生きていられるはずは無いと、心から確信できる。
それでも少女は指した指を戻そうとはしなかった。やがてしっかりと繋いだはずの手も解いて、少年を振り返らせた。更に背中を押しやろうとされたが、少年は動かなかった。
もう離れたくなかった。どんな形であれまたこうして会えたのだから、これからずっと一緒に居たかった。
俯く少女に向き直り、その細い肩を掴む。
「僕はここに残る。だって」
頬に衝撃、そして痛みと熱が残った。
一声も上げられずに硬直していると、少女の顔がゆっくりと上げられた。そこに映るのは、病院を変わらなければならないと嘆いていた時と同じくらいの、悲しみだった。
「わたしは、いきたくてもそこにいけないの。けれどきみは、まだまえにすすめる」
「君を置いて行きたくないよ」
こんな態度が少女を困らせて、苦しませていることは分かっていた。それでも停滞が彼女との時間を作れるのなら、それを受け入れる覚悟があった。
少年の我儘に、少女は励ますように口を開いた。
「また、あえるよ。けれどいまは、きみにはするべきことがある」
亜麻色の目にある決意は、ほんの少しも揺らいではいなかった。
するべき事も、そもそもどうしてまた戻れるかも解らない。けれど、彼女が言うのならそれは少年にとって従うべきものなのだろう。
「わかった、行くよ」
少年が歩き出すと、少女はまた手を取って並んで歩いてくれた。距離にしてほんの十数メートルだろうか。言いたい事があり過ぎて結局口を開けなかったけれど、二人にとって本当に本当に貴重な時間だったと思う。
「わたしは、ここまで」
光の前に立つと、そう言って亜麻色の少女は手を離して一歩下がった。途端、光が膨張して少年の身体を包み込む。
まだ、言っていない。あっという間に取り込まれていく中で、少年は必死に叫んだ。
僕は君の――
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