それはただの思いつきだった。
保育園からの長い付き合いだけど、ずっと同じ関係性のままではつまらないから、何かの真似事をしようと言ったのは高校二年の夏だった。何かって何を、と彼が笑うので、私は真っ先に思いついたことをそのまま口にした。
「コイビトとか?」
「恋……いやいや、ちょっと待ってください」
「だって私も清輝も恋人いないじゃん。好きな人がいたらごめん、この話は聞かなかったことにしてね」
「いや、まあいないですけど」
「いいじゃん、ちょっと試してみてダメだーって思ったらやめちゃえばいいんだから」
「簡単に言いますね」
少しだけ困った顔をしつつ、結局彼はその提案を受け入れた。お互いに退屈だったのだ。
かと言って毎日ずっと恋人の真似事をするのでは、真似事の範疇に収まる気がしない。いや、特別何かそういう行動をし続けていられる自信はないけれど、それは幼なじみではなくなると思った。
「じゃあ、こうしよう。その日、先に相手の影を踏んだ方が、その一日どちらの関係で過ごすか決める」
「斬新な決め方ですね。じゃんけんでも良いのでは?」
「私が清輝にじゃんけんで勝てないことを知ってて言ってるよね?」
「バレましたか」
曜日や日にちで分けるのは記念日を設けているようで変に意識してしまう。これなら影ができる場所は限られているし、どちらも気が乗らなかったらいつも通りの行動をすればいいのだ。影踏みなんて手法を選んだのはそれが理由だ。もっと他にやり方はあっただろうけど、思いついたのがこれだった。
翌日から、私たちのおかしなルールが動き出した。おはようと声をかけて、通学途中に歩きながらふと足元を見ると、先に相手の影を踏んでいたのは彼だった。あ、と声を上げると不思議そうな顔をした彼が私の視線の先を見て、同じくああと声を上げる。
「今日は僕の勝ちですね」
「なんかもっと、えーい! 先に踏んでやったぞ! くらいの勢いで言ってやろうと思ってたのになあ」
「言い出しっぺの割にはあまりやる気がないですね」
「正直鬼ごっこで決める勢いを想定していたのよ、昨日の時点では」
「まあ百合の意気込みはともかく、決めるのは僕ですよ。せっかくなので、今日は恋人で行きますか」
言い終わらないうちに彼が手を取って歩き出す。少しの間を置いて握り返すも、これだけでは特に新鮮味がない。
「キヨ」
「えっ」
「いや、普段通りの呼び名じゃ味気ないから、こういう時は呼び方を変えてみようと思って」
「なるほど。じゃあ百合は……うん、リリィで」
「まあ、あだ名になるよね。いい感じじゃん」
そうですかね? と首を傾げる彼。じゃあキヨが思いつくものをやってよ、と言ったら下校してからやりますよ、と返される。下校って、まだ朝早いん上に学校へ向かっている途中なんですけど。何時間待たせるつもりなのか。
思考の半分くらいを彼のことで満たした授業を終えて、いざやってきた下校の時間。校門を出てすぐのところで待っていた彼に向かって手を振れば、優しく笑って同じように手を振り返してくれる。
「それで? 朝言っていた宿題は教えてくれるワケ?」
「そうですね。ちょっと寄り道に付き合ってもらえませんか」
「デートねオッケー」
「快諾すぎませんか?」
むしろ渋る理由がどこにあるのか。いや、普通は行き先と目的を聞いてから返事をするのか。
彼が私を引っ張って行った先は、駅近くの三階建ての書店。入り口近くのアイス自販機にコインを入れて、何がいいかと問われてチョコチップ入りのミルクアイスを答える。彼が私のリクエストとぶどうシャーベットのボタンをそれぞれ押す。
暑さで溶ける棒付きアイスは、勢いで剥がすとパッケージごとアイスが棒とさようならを告げることがある。慎重にパッケージを剥がす私に、彼が笑いながら自らの手元のアイスを食べていた。
「キヨ、いつもそれ食べてるよね」
「一口どうですか?」
「いいの?」
「その代わり、リリィも」
「……ああ、なるほどね」
お互いに一口頂戴、をすることが彼の目的だったわけか。たしかに恋人ならあり得るかもしれないけど、普段の私たちでもあまり変わりないのでは、と思いつつ結局ぶどうシャーベットも味わった。味は特にいつもと変わらなかった気がする。それは隣で表情を変えずにアイスを食べ切った彼も同じだろうか?
その日はそれ以上のことは起こらなかった。翌日は雨が降ったので踏めるほどの影ができず、そのまた翌日の晴れの日は私から影を踏んだ。
二回目は金曜日だった。影を踏んだのは夕方。もう一日が終わる時間帯、さすがに今日はやめておきますかと言う彼の袖を引いて、彼にしか聞こえない声量でそっと告げた。
「ねえ、キス、してみたいな」
「……ずいぶん思い切りましたね」
確かに正式に付き合ってもいないふたりがすることではないかもしれない。だけどその行為自体に興味はあったし、するのなら彼以外は考えられないと思った。
場所を変えよう、とやってきたのは彼の部屋。いざ場面が切り替わって正面から向かい合うのは緊張する。彼も緊張しているのだろう、しばらく逸らしていた顔を、私が触れたことでようやく目が合った。
「お互いのいずれできる本命に備えた練習と思えばいいの」
「そんな言い回し、どこで覚えてきたんですか」
「乙女の参考物件はたくさんあるの」
そうして彼の眼鏡をゆっくり外して、恐る恐る顔を近づけて唇を触れ合わせた。数秒経ってから離すと、彼の視線がじいっと私に固定されていることに気がつく。
「どう、だった?」
「……今、君の表情が見えないのが気になりますね」
「えっそれだけ?」
「君こそどうなんですか」
「うん、まあ、悪くはなかった、かな」
彼に眼鏡を返すと、さっと彼が立ち上がってその日は解散になった。
それから、週末に私が勝った時は必ず彼にキスを強請った。最初にしていた少し触れるだけのものから、少しずつ触れ合う時間が長くなっていく。もっと、と引き止めるのはいつも私だ。そうして彼の温度を感じて、彼自身の本音を聞けることもなく。
こんなつもりではなかったのだ、本当に。最初はただの好奇心だった。一瞬でも照れたり恥ずかしがったり、いつもと違う彼を見てみたかっただけなのに。気がつけば私の方が、本当に彼のことを好きになってしまっていた。
優しい彼が決して私を拒まないのをいいことに、私のわがままを押し付け続けた。彼が勝った日は体が触れ合うことはなく、呼び方も元のものに戻って行った。彼が望んでいるものは違うものなのだと理解はしていた。でも、それを認めたくなかった。
銀糸を断ち切るように唇を拭う彼の目が問いかけている。いつまでこんなことを続けるのかと。だけどそれは決して言葉として私に向けられない。私が眼鏡を預かっている間だけ、彼の目は私を責め立てる。
それでも影を踏ませない距離にまで私を突き放さないのは、彼の甘さか。いずれどちらかが口に出すまで、この歪な関係を正すことはない。
決してこのままの距離感ではダメだと、心のどこかではわかっていたとしても。彼にも同じ気持ちを抱いてもらうまで、私は彼にないものを強請り続ける。
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