朝、昇降口で、あの男の子に抱きつかれた時、わたしが感じたのは強い嫌悪感だけだった。ただひたすらに気持ち悪くて……正直、吐き気すら感じてしまったぐらい。今でも思い出すと気分が悪くなってくる。
でも……ミラーハウスの中で鏡音君がわたしを抱きしめてくれた時は、わたしが感じたのは強い安堵だった。もちろん、あの時と今日では全く事情が違う。あの時、わたしはパニックになっていて、わたしの方から抱きついてしまったわけだし、鏡音君はパニックになったわたしをなだめようとして、抱きしめてくれただけだ。
だから安心したのは当たり前のことのはず。なのに……どうして、気になるんだろう……。ううん、気になるっていうのは、ちょっと違う感じがする。一体、何なんだろう……。
放課後になった。わたしは鞄の中を見て、ため息をついた。今度こそ……。
「リンちゃん、それじゃあ、頑張ってね」
ミクちゃんが手を振って、教室を出て行った。わたしも手を振る。……頑張って、か。どうしてそんなことを言ってくれたのかわからないけれど、励まして貰えたのは嬉しい。そう、頑張らないと。
「……巡音さん」
鏡音君が来ちゃった。え、えーとえーと……。
「先にちょっとお姉さんの話をしてもいい?」
あ……そう言えば、鏡音君が自分のお姉さんに、ハク姉さんのことで相談に乗ってもらおうって、そう、言ってくれていたんだわ。嫌だ、すっかり忘れていた。
「え……ええ」
わたしが頷くと、鏡音君は真面目な表情で話し始めた。
「姉貴にハクさんのことを話してみたら、話をしてみるとは言ってくれた。……やっぱり姉貴も心配らしくって。ただ、難しいケースだから、いい結果が出るとは限らないとも言われちまったんだよ」
鏡音君の話を聞いて、わたしは少しだけ安心できた。これが安心していい状況なのかどうかはよくわからなかったけれど、とにかくほっとしたのは確かだった。
「……良かった」
「巡音さん、さっきも言ったけど、まだ上手くいくって保証はないんだよ。姉貴もできる限りのことはしてくれるだろうけど、やっぱり限界とかはあるだろうし……それに時間もくれって言われた。年単位で溜め込んでいる負のエネルギーをどうにかするのは、大変なんだって」
鏡音君は神妙な表情でそう言った。確かに、まだ成功するとは限らないのよね。でも……。
「ハク姉さん、引きこもってからはわたし以外の人とはほとんど話をしていないの。だから、誰か他の人と話せるだけでも、いいことなんじゃないかなって……」
それに、相手は鏡音君のお姉さんだもの。会ったのは一度きりだけれど、鏡音君のお姉さんなら、ハク姉さんとちゃんと話せそうな気がする。……わたしよりも、ずっと。
あ……そうだ。今ならいいかも。わたしは鞄の中から、クッキーの包みを取り出した。
「あの……これ、良かったらお姉さんと食べて。土曜日のお礼と、ハク姉さんのこととのお礼のつもりで焼いたの」
わたしは鏡音君の前に、残りの二つのクッキーの包みを置いた。鏡音君が驚いた表情になる。
「……巡音さんが焼いたの?」
訊かれたので、わたしは頷いた。……何だか恥ずかしい。頬が熱くなるのを感じる。クッキーを渡すだけなのに、なんでこんなに恥ずかしいんだろう。
「器用なんだね」
器用……というのとは、ちょっと違うような気がする。お母さんは何度もやらないと上達はしないと言っていた。それから手抜きをしては駄目とも。
確かにある程度の器用さは必要なんだろうけれど……。後、腕力もね。実を言うと、ちょっと腕が痛い。
「お母さんがお菓子を作るのが好きで、わたしに作り方を教えてくれたの。お母さんみたいには作れないけど、ちゃんと食べられるから」
「ありがとう。帰ってから姉貴と食べることにするよ」
鏡音君はそう言って、クッキーの包みを自分の鞄に仕舞った。良かった、喜んでもらえたみたい。
クッキーの包みを仕舞った後、鏡音君は場所を変えようと言い出した。どこに行くのかと尋ねると、コンピューター室という答えが返って来た。
「『ピグマリオン』のデータをテキストファイルに移したから、それを見ながら話をした方がいいと思う」
そういうわけで、わたしたちはコンピューター室まで移動した。学校のコンピューター室は、放課後生徒が使えるように開放されている。ネットは制約があるけれど、レポートを書いたりすることは自由だ。PCの一つの前に鏡音君が座り、わたしは隣から椅子を借りた。
わたしは自分のPCを持っていないので、あまり詳しくない。授業でワードやエクセルの基本的な使い方とか習ったりはしたけれど、身に着いているとは言いがたい気がする。
「鏡音君って、自分のパソコンを持っているの?」
テキストファイルに移したのは、多分自分の家でやったのよね。ということは、多分持っているんだろうけど……。
「ああ。姉貴のお下がりだけどね。巡音さんは?」
あ、やっぱり。
「わたしは持ってないの。お父さんが、高校生の間は駄目だって」
無理だろうから、最初から交渉はしていない。お父さんは、こうと決めたことはまず変えてくれないもの。
「とりあえずこのままだと長いから、削れそうな場所は削ろうと思うんだよね。演出上、無理そうなところもあるし」
「最初のイライザのお部屋のシーンとか? 無理に入れなくても、モノローグとかを語らせたら話は通じるんじゃないかしら」
イライザが一人で、自分の生活のわびしさを噛み締めるシーンだ。あそこで出てくる、「空っぽの鳥籠」というのが、何だかとても淋しい感じがする。中に入っていた存在がいなくなってしまっても、きっと、籠を捨てることができなかったんだわ。
鏡音君はテキストファイルを画面に表示させると、その部分の前後に「削る」と書き加えた。
「データ、いじっちゃって大丈夫?」
「ちゃんとバックアップは取ってあるよ」
鏡音君の方が詳しいから、任せちゃって大丈夫よね。わたしは中身のことだけに集中しよう。
「あの……鏡音君」
「何?」
「ラスト……どうするの?」
わたしが尋ねると、鏡音君は手を頭の後ろで組んで天井を見上げた。
「……俺としては映画の方がいいと思うけど」
それが鏡音君の返事だった。わたしはどちらのラストがふさわしいかを、もう一度考えてみた。
……飛び出しっぱなしっていうのは、よくないかも。一昨日にわたしは家をこっそり抜け出して、お母さんを心配させてしまった。イライザがあんな形で出て行ってしまったら、教授だってやっぱり淋しいだろうし、ピアス夫人もきっと心配するわ。
「じゃあ映画の方にする?」
「いいの? 原作どおりの方がいいって言ってなかった?」
「色々考えてみたんだけど……映画の方が、お客さんが想像する余地があるんじゃないかって気がしてきたの。それに、フレディと一緒になるにせよならないにせよ、教授とあのままさようならって良くないと思うし」
映画のラストなら帰って来るところで終わりだ。一度帰って筋を通してから、フレディと一緒になってお花屋さんを始める、という結末へつなげることも可能なはず。もちろん、違う方向へも。
「じゃあ映画の方ということで」
鏡音君は最後の方に、そう書き加えた。
わたしたちはその後、『ピグマリオン』に話し合いながら修正をかけていった。台詞が長すぎたりくどすぎたりしないかとか、演出上ここはどうしたらいいか、とかそういう感じのことだ。
色々な角度から戯曲を見てみるのは興味深かったし、面白かった。わたしは舞台を見ることはあっても、演じる側の立場に立ったことはなかったから、そういう意味でも鏡音君の話は面白かった。
「演劇って、夢を形にすることなのね」
戯曲は小説とは違って、それだけじゃ完全な形じゃないんだわ。作家が作った夢は、上演されないと完全な形にならない。
「どういうこと?」
「作家が頭の中で描いた夢を、形にして見せてくれるのが演劇なんだって思ったの。戯曲は、上演されて初めて命を吹き込まれるんだろうって」
だから戯曲だけを読むと、ちょっと単調で読み辛いと思ってしまうのかもしれない。
「巡音さんって……時々詩人みたいなことを言うね」
え……。思ってもいなかったことを言われて、わたしは戸惑った。
「好きな詩とかあるの?」
「ディッキンソンとか、ヒメーネスとか……」
「どんな感じの詩?」
訊かれたので、わたしはお気に入りのディッキンソンの詩を口にした。
「希望は羽根のある小鳥――
魂の中の止まり木に止まって――
言葉のない歌を歌う――
歌い止むことはない――いつだって――
優しく響くその歌は――嵐が吹き荒れる中――聞こえたの――
嵐の中は苦痛に違いない――
小さな小鳥は迷ってしまうだろう
多くがその歌で心温まるというのに――
その歌を聞いたのは凍える北の地――
そして見知らぬ海の上――
けれどどんなに辛い時でも
この小鳥は餌を求めない――わたしからは」
ディッキンソンの詩にはタイトルが無い。だから最初のフレーズを取って呼ばれることが多かったりする。この詩なら「希望は羽根のある小鳥」だ。
「……可愛い詩だね」
そう言ってもらえて、わたしは嬉しかった。わたしもこの詩はとても可愛いと思う。
「ディッキンソンの詩は可愛らしいのだけれど、でもそれだけじゃない感じがするの。ぎゅっと胸がしめつけられるような……淋しさというか、切なさというか……そんなものを感じることがあるのよ」
だから不思議な感覚がする。シルヴィアの描き出す世界が暗さとわびしさ――あれはあれで惹かれるものがあるけれど――だとしたら、エミリーの世界は……何だろう。優しさ? それとも、切なさ? よくわからないけど、エミリーの詩を思うと、胸の中がいっぱいになる。
「巡音さん、明日は時間取れる? 俺はさっきも言ったけど、明日も部活休みになったから暇なんだよね」
今日一日で全部の作業を終わらせることはできなかった。学校はもう少し後まで開いているけれど、わたしは門限があるので、ギリギリまで残ることはできない。
「わたし……明日は部活があるんだけど……」
「あ、そうなんだ。何部なの?」
「英会話よ。火曜と木曜が活動日なの」
活動といっても、皆で集まってお喋りをしたりするだけだったりするのだけれど。一応「英語だけで話そう」と言うことになってはいるけれど、そんなに続かないから、みんな適当にやっているだけだったりする。……実際、わたしもミクちゃんと話をしたり、一緒に英語の絵本や童話を読んだり、そんなことばかりやっているし。顧問の先生も熱心じゃないから、いないことの方が多い。
「明日、部活休んじゃってもいいけど」
実質的に活動している部員は少ない部なのよね。二年が三人、一年が四人だけど、二年の一人と一年の二人は兼部している子なので、あまりこっちにはやってこない。
「いやそれはまずいでしょ」
「大丈夫、忙しい部じゃないから。部長はミクちゃんだから、話せばわかってくれると思うの」
ごめんね、ミクちゃん。……何ならミクちゃんにもこっちに来てもらっちゃおうか。
「そうしてもらえると俺としてはありがたいけど……無理はしないでくれよ」
「うん……そうするね。あ……もし、ミクちゃんも参加してみたいって言ったら、一緒でもいい?」
鏡音君は驚いた表情になった。……わたし、そんなに変なことを言ったのかな?
わたしは少し考えてみて、ミクちゃんはわたしとは仲がいいけれど、鏡音君とはそうでもないことに思い当たった。ミクオ君も呼んでもいいかも。演劇部お休みだから、ミクオ君も時間はあるわよね。
「あの……ミクちゃんだけじゃ気を遣っちゃうって言うんなら、ミクオ君も一緒でも……」
ミクオ君なら鏡音君と仲がいいわよね。
「船頭多くして船山に登るって昔から言うし、人数は増やさない方がいいと思う」
鏡音君はそんなことを言い出した。
「三人寄れば文殊の知恵とも言わない?」
この場合はそっちの方が適切なんじゃないかな?
「……クオは恋愛物嫌いだから、多分、呼んだら脇でぎゃーぎゃー不満を言い続けると思うんだよ。だから俺としては、こういう作業をクオと一緒にやるのはパスしたい」
そう言えば、前にそう言われてたわ。ミクオ君は恋愛物が嫌いだって。じゃあ、仕方ないかな。ミクちゃんには、何か別の方法で埋め合わせを考えよう。
結論が出たので、もう帰ることにする。鏡音君はデータを保存してPCの電源を落とした。わたしは、時計を見た。お迎え、もう来ているわよね。
「校門まで一緒に行く?」
そう訊かれたけれど、わたしは首を横に振った。
「けど、もう暗いよ」
「一緒にいるところを運転手さんに見られたくないの。男の子と一緒って報告されたら、わたし、多分外出禁止にされてしまうわ」
ミクちゃんにも迷惑がかかっちゃうし……。それにもしかしたら、外出禁止だけじゃ済まないかもしれない。わたしはもう、ロフトに閉じ込められるような年齢じゃないけれど。
わたしは俯いて、しばらく自分の物思いに沈んでしまっていた。なんだか、胸の奥が締め付けられるように苦しくて、淋しい。
不意に、わたしの肩に重みがかかった。びっくりして顔をあげる。鏡音君の手が、わたしの肩にあった。……温かい。
わたしは自分の手を、そっとその手に重ねてみた。当たり前だけど、手の大きさが全然違うのね。わたしの手の方がずっと小さい。
「……今日は色々とありがとう。じゃあ、わたし、帰るね」
淋しい気持ちを心の奥に押し込んで、わたしはコンピューター室を出た。
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ご意見・ご感想
凪猫
ご意見・ご感想
すっごくおもしろくなってきましたよね!!
毎回、見てます。頑張ってください!
2011/12/10 08:38:11
目白皐月
こんにちは、メッセージありがとうございます。
楽しみにしてもらえて嬉しいです。
続きも順次アップして行きますので、お待ちくださいませ。
2011/12/10 23:42:05