その次の日。わたしは鬱々とした気分で目を覚ました。時計を見る。結構早いな……いつもより早いぐらい。学校の支度……あ、今日は第二土曜だから、学校は無いんだっけ。
あれ……? 意識に何か引っかかってるな……?
首を軽く横に振りながら、わたしは身体を起こした。いやだ、わたしったら服のままで寝ちゃったみたい。昨夜あったことを思い返す。確かお父さんに長時間に亘るお説教をされて、それでひどく気疲れして、部屋に戻ったらそのまま眠ってしまったんだ。当然、お風呂にも入っていない。
わたしはそっと廊下に出てみた。早い時間だから、まだ誰も起きていないみたい。もう一度部屋に戻ると、着替えの服と下着を取り出して、お風呂場に向かう。お湯は冷めているだろうけれど、せめてシャワーぐらいは浴びておきたい。
熱いシャワーを浴びると、気持ちが少しだけすっきりした。わたしは昨日の服とバスタオルを洗濯籠に入れると、自分の部屋に戻った。朝食まではまだ時間がある。……音楽でも聞こう。CDの棚からクープランのCDを取り出して、プレーヤーにセットする。
クープランの作る曲は色々あるけれど、わたしは可愛らしい感じの曲が好きだ。ずっと昔のバロック時代の作曲家の曲に「可愛らしい」というのも、ちょっと変かもしれないけれど。うーん……それにしても、やっぱりさっきから、何かが頭の中で引っかかっている。何だろう……?
どうにもすっきりしない気持ちのままに時間が過ぎて、朝食の時間になった。小さなため息をついて、プレーヤーを止め、部屋の外に出る。食欲はそんなに無いけれど、食べないと……。
食堂に行ってみると、お母さんしかいなかった。お父さんはまだ寝ているのかな。
「おはよう、お母さん」
「おはよう」
お母さんの表情は心配そうだ。昨日の音が、聞こえていたんだろう。
「リン、大丈夫なの?」
やっぱり。
「……多分」
「怪我とかは?」
「……してない。壁が傷ついただけ」
お母さんはため息をついた。……わかってます。お父さんを怒らせるようなことをした、わたしが悪いんだ。
「お母さん、お父さんは?」
「仕事関係で遠出するとかで、今日はもう出かけて行ったわ。ルカも一緒よ」
お父さんは家にいないんだ……。わたしは幾分落ち着いた気分で、椅子に座った。お手伝いさんが、朝ごはんを運んでくる。
「いただきます」
少なくとも、今日は安心して朝ごはんだけは食べられそうだ。
「リン、お父さんが、今日と明日は外出禁止だって」
そう言えば、昨日そんなことを言われたような気が……。今週末だけで済んで、幸運だったのかな。お父さんの怒りっぷりからすると、一ヶ月ぐらい外出禁止にされてもおかしくなかったし。
……変だな。妙に落ち着かない。わたし、何か大事なことを忘れてるんじゃない?
「ねえお母さん、わたし、今日か明日、どこかに出かける予定、入れていたっけ? 劇場とか、ミクちゃんの家とか」
「お母さんは聞いてないけど……リン、どうかしたの?」
「う、ううん、何でもない。昨日のことで、ちょっと精神的に疲れてるみたい」
劇場ってことは無いわよね。だって、劇場なら大分前に予定が埋まるから、お母さんにあらかじめ「この日は劇場に行く」って言っているはず。じゃあ、ミクちゃんの家……? でも、なんだか違うような気がする……。
わたしは結局悩みながら朝食を食べ終えて、自分の部屋へと戻った。どうもすっきりしない。頭の中に何かが引っかかっている。何だろう……。わたしはベッドに腰を下ろして、考え込んだ。
「絶対、何か忘れているような……」
考えたけれど、答えが見つからない。疲れたわたしは、部屋をぐるっと見回した。勉強机と椅子、カーテン、CDとDVDを入れてある棚、本棚……並んだ本が一冊抜けている。あれ、なんでだっけ……。あ、そうか。鏡音君に貸したままだった。
「……あっ!」
ここでようやく、わたしは今日の予定を思い出した。柳影公園で鏡音君と会う約束をしていたんだ。なんでこんな大事なことを忘れていたの!? わたしから約束したのに。しかもわたしは外出禁止にされてしまった。
どうしよう? どうしたらいいの? わたしは時計を見た。そろそろ九時十五分だ。鏡音君の家からだと柳影公園は結構距離があるから、もう移動している頃よね。電車の中かも……。
わたしは困り果てて、部屋の中をうろうろと歩き回った。どうにかしなくちゃ……このままじゃ、鏡音君との約束を反故にすることになってしまう。そんなことはしたくない。
でもじゃあ、どうしたらいいの? わたしは外出禁止なのよ。鏡音君の携帯にかけて、「外に出られなくなった」って言う? こんな時間が迫った頃に言われても鏡音君が困るだろうし……。
わたしは部屋のドアを開けて、廊下に出た。廊下は静まり返っている。お父さんは家にいない。ルカ姉さんもだ。いるのはお母さんとハク姉さんと、お手伝いさんたち。ハク姉さんは自分の部屋から滅多に出て来ないから、みつかる心配はない。
階段を下りて、一階に行く。玄関ホールには誰もいない。お母さんは……多分キッチンだろう。お手伝いさんたちは掃除か洗濯か……とにかく、目の届くことところにはいない。
わたしは靴を履くと、玄関のドアに手をかけて押した。普段から手入れが行き届いているから、そんなに音も立てずに開いてくれる。もう一度振り向く。やっぱり誰もいない。
……ごめんなさい。
声に出さずに呟いて、わたしは、家の外に出た。
柳影公園は、家からかなり距離がある。だから、普段公園や図書館に行く時は、運転手さんに車で送ってもらう。とはいえ、道はなんとなく憶えている。急げば、まだ間に合うかもしれない。
わたしは走って公園に向かった。走るのなんて慣れてないけど、そんなことは言っていられない。走って走って、途中で息があがってしまった。……これ以上は無理。息が整うまでは歩くしかない。
歩いたり走ったりしながら、わたしは何とか公園にまで辿りついた。今は何時だろう……嫌だ、時計を忘れて来ちゃった。公園の時計って、どの辺にあったかしら? ううん、そんなことより、待ち合わせ場所に行かないと。
また走る。ボート乗り場が見えた。近くに時計がある。えっ……十時二十分!? 二十分も遅刻しちゃった……。
わたしは辺りを見回した。あ……良かった。公園の池を囲む柵の前に、鏡音君が立っている。池の方を見ているので、まだわたしには気づいていない。わたしは鏡音君のいる方に駆け寄った。
「ご……ごめんなさいっ! 遅刻、しちゃって……」
息があがってしまっているので、そこから先は言葉が出てこなかった。鏡音君が振り向いて、わたしを見て、驚いた表情になる。
「あ……巡音さん」
きちんと説明しないと。そう思うのに、言葉が出て来ない。わたしは必死で、呼吸を整えようとした。
「髪がすごいことになってるけど……」
ああ、走ったから乱れてしまったんだ。髪が顔にかぶさっているので、視界が少し暗い。鏡音君は苦笑すると、わたしの顔にかぶさっている髪をかきあげようとした。弾みで、鏡音君の指がわたしの頬をさっとかすめる。……え。
瞬間、わたしの胸がどきっとした。……今の何? なんで胸が苦しいの?
「え……」
わたしは何も言えずに、鏡音君を見ていた。向こうもわたしをみつめている。な、何か言わないと……でも、言葉が出て来ない。胸がますます苦しくて、息をするのが辛い。……わたし、走ったせいでどこかおかしくなってしまったの?
「ああああの……本当に、ごめんなさい……」
やっとの思いで、わたしは何とかそれだけを言った。
「……寝坊でもしたの?」
鏡音君はそう訊いてきた。……寝坊ってことにしておいた方が、いいわよね。お父さんに外出禁止にされたのに、こっそり抜け出して来たなんて言ったら、鏡音君にまた気を遣わせてしまう。わたしは頷いた。
「夕べ夜更かしでもした?」
今度はそう訊かれてしまった。えーとえーと、どうしよう。ここも頷いておいた方がいいのかな。
「え……ええ。そんな感じ……」
「なんかあったの?」
どう答えよう……? あったといえばあったんだけど……。
「あったっていうか、その……」
顔があげられない。わたしは口ごもりながら、足元を見つめていた。
「巡音さん、あっちにベンチがあるから座って話そうか」
そう言われたので、わたしは頷いた。鏡音君、ずっとここで待っていてくれたのよね……。
わたしたちは並んで、池の向かいに置かれているベンチに座った。当然、公園の池が視界に入る。あ、鳥が泳いでいる。……留鳥みたいね。冬鳥が来るにはまだちょっと早いのかな。
座ったものの、何を話せばいいのかわからず、わたしはぼんやりと鳥たちを眺めていた。……なんだか羨ましいな。
「巡音さんって、この公園にはよく来るの?」
「……小さい頃にはね。最近はあんまり……わたしも忙しくて」
お母さんが連れて来てくれたんだっけ。この近くには図書館がある。公園を散歩してから、図書館で本を借りるのが、あの頃のわたしとお母さんのお約束のコースだった。
そう言えば……いつも、わたしとお母さんの二人だったのよね。ルカ姉さんもハク姉さんも一緒じゃなかった。
不意に、涙がこみ上げてきた。……駄目よ、こんなところで泣いたりしちゃ。また、鏡音君を心配させてしまう。わたしは下唇をぎゅっと噛んで、涙をこらえようとした。
「巡音さん……」
鏡音君の声が、気遣うような色を帯びている。……遅かったみたい。ああ、なんでわたしはこうなんだろう。
「……平気だから」
「あ、あのさ……なんか悩みがあるんだったら、俺でよければ話を聞くよ?」
そう言われてしまった。わたしは「大丈夫だから」と答えようとして、戸惑った。……これと同じことを、わたしは昨日、ルカ姉さんに言った。あの後、お父さんにわたしを任せてさっさと行ってしまったことから考えると、ルカ姉さんにはわたしに話してくれる気は無いのだろう。それはつまり、ルカ姉さんはわたしを全く信頼していないということで……改めて認識しなおしたその事実は、わたしにはショックだった。
ここで鏡音君に話さなかったら、鏡音君はわたしに信頼されてないって、そう、思ってしまうかも。全部は無理だけど……話せるだけ、話してみよう。
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