彼女と別れてから一週間がたとうとしている。あれ以来決して僕からは彼女とコンタクトをとろうとはしなかった。別れて二、三日のうちは、仲介をしてくれたメイドを経由して、彼女から手紙が届いたが、どうしても読む気にはなれず、さりとて捨ててしまうほど冷徹にもなりきれず、机の引き出しへしまいこんだまま封も開けなかった。それ以降は彼女からも何も来ていない。
きっともうどうあがいても無駄なのだと、そう悟ったのだろう。そのまま忘れてしまえばいいのだ、こんなひどい男のことなど。陛下のもとへ行けば、きっともう二度と会うことはかなわない。そうして日々を過ごしていけば、自分を手ひどく振った男のことなど、そのうちあの小さな胸のどこにもいなくなる。それでいいと思った。
厭味のつもりか、二日後に控えた彼女の誕生パーティへ参加されたしと、彼女の父親から招待状が送られてきていた。おそらく誕生パーティにかこつけた娘の後宮入りを祝う会だろう。行きたくなかったが、父と同席しなければいけない。さんざん罵倒されながら僕は嘆息とともにあきらめた。
もうとにかく何も考えたくなかった。これから父に、全て終わったら留学したいと頼んでこよう。今回の件で僕がいかに無能かわかったから、もう少し学びたいことがある、とでもいって。それとも気疲れする父へのお目通りはもう少し先延ばしにして、気晴らしに馬に乗って遠出でもしようか。
どちらも気分など晴れるはずもない、つまらないことだという確信はあったが、しばらく考え、後者にしようと決めた僕は、のろのろと部屋を出て納屋へ向かった。裏へはなるべく目を向けないようにして……しかし、ふと視線をあげて、見慣れないドレスをまとった女性の後ろ姿を見止める。誰何の声を上げようとして、僕はあわててそれを喉の奥へ飲み込んだ。あのドレスは……いや、あの制服は、彼女の家のメイドが着ていたものだ。
いったいどうして、あの娘の家の使用人がここに?
どうしても気になって、こっそりと近づいてみる。納屋の裏で、そのメイドはどうやら、誰かと話をしているらしかった。
だが、誰と?
見つからないように注意しながら、植木に隠れ、密会中の人物をうかがう。相手はすぐにわかった。彼女の家のメイドと話をしているのは、我が家に古くから仕える執事だ。
ただの密会ではない――すぐに直感した。二人の醸し出す雰囲気が尋常でなくピリピリと緊張している。
「――だれにも見つかっていないだろうな」
「はい、誰にも」
執事は用心深く周囲に気を配っていたが、やがて懐から色のついた小瓶を取り出すと、押しつけるようにしてメイドに握らせた。
「パーティの日だ。使い終わったら必ず捨てろ。わかったな?」
「わかりました」
一瞬だがちらりと見えた小瓶の形状は特徴的で、その中身を僕はすぐに確信した。
なぜ、彼があんなものを!?
――昔から、当然権力闘争には血なまぐさい話が付いて回る。政敵を病気に見せかけて殺すなど、よくあるパターンだ。
そして、そう言った血の匂いがする歴史を土足で突き進んできた我が家には、「毒」に関する恐ろしい秘密があった。
ひとつ、子供のころから毒殺の危険を軽減するため、少しずつ毒に身体を慣らす。もちろんこの程度のことは、王家ならば当然、同じような歴史をたどってきた貴族の家柄にはよくある習慣だ。問題はもうひとつ。
我が家には、当主以外には決して使用が許されない、代々続く毒薬がある。
一滴ワインに入れ、それを一口でも飲み下したなら、たちまち命を落とすというその劇薬は、これもまた先祖代々続く、当主と嫡子以外には伝えられない製造方法があり、解毒はおろか、その種類の特定さえも難しいといわれている。医師が頭を抱えて毒の種類を調べている間に、相手は全身に回った毒に侵され、破壊された臓腑から血を吐いて絶命する。その遺体を調べても、もちろん我が家が毒を盛ったという証拠は出てこない。
その劇薬に、名はない。必要ないのだ。「あれ」と言えば通じるほどに強烈な、必殺の毒。一般的な毒に慣らされている我が一族の当主や嫡子でさえ、これをあおれば絶対に助からない。
伝説じみた毒薬だが、その存在は確かだ。そうでなければこれほどの権勢を誇る一族が、今まで転落を知らないという不自然さの説明がつかない。
今、執事がメイドに渡した小瓶の形状は、明らかにそれの入った小瓶と酷似していた。
パーティの日……そう、執事は言った。パーティとは、彼女の誕生パーティだろうか。そんな席で毒殺したい相手……しかも、当主以外には使うことができないはずの劇薬を使う相手……。
もはや答えは一つしかなかった。
僕は二人に気づかれないようにそっとその場を離れ、その足で父の書斎へ向かった。怒りで歩調が荒々しくなる。高くノックの音を響かせ、挨拶もそこそこにドアを開くと、僕はわざと音を立ててドアを閉め、ワークデスク越しに父に詰め寄った。
「何をお考えなのですか、父上!」
いつものようにデスクについて書類を検めていた父は、不機嫌を隠そうともせずに顔をあげて眉をひそめて見せた。
「最近のお前は、とるべき礼儀も忘れたようだな。外国で学んできたのは父に逆らう不孝か?」
厭味など聞いている暇はない。僕は持ちうる限りの反抗心を総動員して、威圧的に僕を見上げる父を真っ向からにらみ返し、絞り出すように言った。
「先ほど、我が家の執事があの娘の家で働いているメイドに小瓶を渡しているところを見ました」
「ほう、それはそれは」
鼻で笑うと、父は言葉を継ぐ。
「いがみ合っている家の使用人同士で何かしていたのだとすれば、それは褒められた話ではないな」
「……その小瓶が、『あの薬』の入った小瓶だと言っても、父上はそんな軽々しい話題だとお考えになりますか」
父は静かに口を閉ざすと、しばらく黙考し、それから再び口を開いた。
「あの娘が後宮入りすれば、我が家の影響力は陛下から遠のくだろう。それを防ぐためにもこの措置は避けられん」
「しかし、何も殺すことはないはずです」
ならばどうする、そう問い返してきた父の声は冷たく乾いている。とても、人の、人に対する声とは思えなかった。
「陛下の心変わりなどありえん。あの娘が既に男を知っているならともかく、ここまで進んだ話をなかったことにはできん」
それともお前があの娘と密会していたことを公表するか? そう言われ、僕は言葉に詰まった。
「それをすればわしらもただでは済まん。奴ともろともに倒れるなど願い下げだ」
……なんという醜い足の引っ張り合いだ。僕は肉親ながら目の前の男を人でなしだと思った。うら若い娘の幸福よりも、命よりも、その娘の結婚がもたらすであろう家の栄達と転落の方が重要だとは。
いや、僕も人のことは言えない。彼女を捕まえて離したくない、助けを求めて会いに来た彼女をさらって傍にずっと置いておきたいなど、一時の欲望で彼女の幸福を台無しにするところだったのだから。
だがいま、彼女を突き放してまで僕が確保しようとした彼女の幸福が完全に傾こうとしている。このままにしてはおけない。そうすれば、彼女は永遠に歌を歌えなくなる。幸福の歌はおろか、絶望と悲嘆の歌さえも。
あの宝石のように輝く瞳がガラス玉のようになり、光を移さなくなる。あの柔らかな唇が渇いてひび割れ、もはや言葉の一つも紡がなくなる。純粋で何よりも清らかな心が、陛下のもとなどではなく、本当に二度と会うことを許されぬ場所へ、天へ召される。何よりあの可憐な姿が、己の吐いた血の海に沈む様など、想像しただけで世界の終りだと感じた。
「何をそこまで慌てている? もともと敵対する家のとるに足りない小娘ではないか。死んだところでお前の気に病む相手ではないだろう」
父の言葉が右から左へ抜けていく。やはり父は人を人として見ていない。もはや話をしても無駄だと感じた。
「……そうですね」
僕は適当に相槌を打って踵を返した。これ以上この部屋にいたら、僕も父と同じ様な冷血漢になってしまいそうな気がした。もうたくさんだ。こんな家、とっとと滅びてしまえばいい。そうすれば何もかもすっきりする。
「少し頭を冷やします。それでは失礼します」
言い捨てて、返事も待たずに部屋を出た。靴音も荒く自室へ戻ると、僕は強くドアを閉め、いつもは五歩の距離を三歩で歩いて机まで行きつく。そのまま思いきり拳を叩きつけた。痛みは不思議と感じなかった。それくらい怒り狂っていた。
あの、冷血漢め! 喉の奥でそう唸って、それから僕は頭を抱える。手探りで椅子を引いて、崩れるように座り込んだ。
とにかく何とかしなければ。彼女が「あの薬」を飲まされる前に。
今すぐあの小瓶を受け取ったメイドと直接会って、薬を買い戻すか? ――駄目だ。そのメイドと接触する方法がない。
パーティが始まる前に彼女の杯を他の物とすり替えるか? ――これも無理だろう。次期王妃の座る席が、何の警備もないなど考えられない。僕が行っては見とがめられる。
かといって、代理を行かせるなど論外だ。この屋敷の中でパーティに出席するのは僕と父の二人。他の人間は会場に入れない。
あとは仲介を任されてくれていたあのメイドに頼んで、彼女に危険を知らせることだが……。
そこまで考えて、僕は笑った。知らせる? 何と言って?
あれだけ手ひどく突き放しておいて、今更「僕の父が君を毒殺しようと狙っている」? 誰がこんな男の言うことを信じるものか。
今更、僕はあの日とった行動を軽率だと思い知った。もう少しやり方があったはずだ。いや、今となってはむしろ、危険を承知で彼女を連れ去り、どこかへ消えてしまうことが一番良かったような気さえする。権力抗争も家同士のいさかいも、何一つない静かな地へ。そんなものがあればの話だが。
顔をあげて机の隅に置かれた時計を見る。こんなことになるのなら、あのとき涙ながらに、慕っていると、頼りにできるのは僕だけなのだと訴えた彼女の言うとおり、攫って二人で一緒に逃げてしまえばよかった。それが僕自身の望みでもあったはずだ。逃げきる自信がないのは、二人して生きていく自信がないのは僕の方だった。僕は彼女の想いから逃げたのだ。あの娘は、これまでの時を共に生きてきた両親を捨ててまで、僕と生きたいと言ってくれたのに。
無駄だとわかっていても、時計を見つめて祈らずにはいられなかった。
時よ、戻れ。
愚かにも愛する人から逃げだしたあの時に戻してくれ。
そうすれば、僕はあの時の僕を殴り殺し、彼女の手を取ってどこまでも逃げるだろう。どれだけの困難と苦しみが待ち構えていようと、その細い手を決して放しはしないのに。
だが、無情にも僕の願いに応えて時計の針が逆戻りすることなどありえなかった。無駄なことを、と自嘲して、僕は再び頭を抱えた。
どうすればいい? どうすれば、彼女をこの脅威から守ることができる?
父と、その悪意に染まった呪いのような毒薬の脅威から一人の娘を守るのに、僕の腕はあまりにも細く、あまりにも頼りなかった。社会的な地位も何もない、僕は家に守られて生きてきたのだとこういうとき思い知る。「何のために大学まで出してやった」と偉そうに僕に命令する父の言い分はいちいちもっともだった。僕は父の思い通りにこの家を継ぐために、この家で大切に守られて育ったのだ。家を離れ外国の大学へ進んだあともそれは同じだった。彼女を箱入り娘と嘲笑うことができない。僕だって立派な「籠の鳥」だ。
だが、それでも守らなくてはならない。籠の鳥としてではない、一人の男として、この今まで生きてきた中で、唯一、僕の命より大切な存在を失わないために。
遠く離れていこうとする籠の中で、彼女が毒を飲まされる前に、籠の中に閉じ込められたまま、千切れるまで伸ばした僕の指が、ほんの少しでも彼女の手にした毒入り杯に引っ掛かれば、僕の勝ちだ。
引出しにしまったままの手紙を取り出し、表面を静かになぞった。
大切なひと。愛しいひと。
君を絶対に死なせはしない。それが、君を傷つけた僕のできる、唯一の贖罪になるのなら。
――たとえ、何が起ころうとも。
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