それは、もう期待をするのはやめようとリンが思い始めた頃だった。
――あの日から幾日経ったかなど、五日を過ぎた時に数えるのを止めてしまった。
あ、と思ったのは本当にただの偶然だ。
「お客よ、リン」
その暫く後には見世から呼ばれ、はっきりとは分からなかった彼の姿が自分の気のせいではなかったことをリンは願った。
来ない日を数えることさえ、もう止めてしまったというのに。結局のところ、心の内では期待を拭うなど出来なかったのだと。
彼ではなかった可能性を考えてから、気付いてしまった。
「あ…ではこちらへ」
帽子を目深に被る男は、先程見た時には確かに神威と同じ目の色をしていたのだが、今は見えないでいる。
よく見れば彼の印象的な長髪もなく、短髪なのか髪の色さえ帽子に隠れて定かではない。
外を歩く男と、なんとはなく目が合っただけなのだ。
その男が自分を指名したからといって、それが神威であるなんて限る訳もない。
膨らみかけた期待を自ら制して、背の高い男に頭を下げてから案内をする。
男は部屋までの間を始終俯いて無言で歩き、その空気にリンは声も掛けられないまま宛がわれたそこまで先導した。
部屋へと入るのにも無言の男に、リンは意識を向ける。
この手の男は部屋まで辿り着けば無言のまま事に及ぶだろう、こちらの意思もなしに詰められるであろう行為に心中で息を吐く。
――既にリンの中では、この男へ自身の対処にと思考は移っていた。
「リン」
だからだ、と言い訳をするには動揺し過ぎたかも知れないとは自分でも思ったが、リンは戸を閉めると同時に背後から掛けられた声に、勢い込んで振り向いた。
まさかと思う気持ちより、やはりと思う気持ちの方が上回る。
「かむい、さん」
驚きに出した声は少し震えたけれど、それさえ気に留める余裕もない。
リンはまたもや突然起こった自分の衝動を宥めようと、目元を隠しながら男から顔を逸らす。
そんなリンを見て、男が少し笑いながらも帽子を取るのが、空気の震えるので分かった。
「もう忘れられていたらどうしようかと思ったが…覚えてくれていたのだな」
あまり穏やかな声で話すものだから、リンは余計に涙を流してしまいそうになりながらも一つ頷いた。
当たり前だ。
今日まで忘れよう、諦めようとしていたのはリンの方である筈なのに、彼を目の前にしてしまっては否定さえ出来ない。
利己心など関係なく、確かにリンは彼にもう一度会いたいと思っていたのだから。
「もう、お越しになることはないだろうと…思っていましたが」
けれど変わらずに思うのは、神威の清ら。
このヒトがリンのような人間と関わり合うことなど、あの一夜より先にあってはならない。
本心を必至で隠しながらも冷たい声を出すが、神威はそんなリンに今度は自嘲をするように笑った。
「それはリンの勝手だ…以前に言った筈だろう、今日此処へ来たのも私の勝手」
リンのことなど構わないかのように意志は曲げないクセに、それが結局どうしてもリンの為になるのだから手に負えない。
きっと何を言っても今から帰ったりはしないのだろうし――もし本当にそうなってしまえば、廓の中でのリンの評判も底辺まで落ちてしまうのだろうが。
諦めにも似た息を吐くと、そろそろこちらを向いてはくれないのかと言われる。
流石にいつまでも顔を背けているのも失礼かと、リンはそれに従って顔を上げてから絶句した。
「神威さん、髪が」
男が神威であるならば、目深に被った帽子を取れば長い紫の髪が――そう予期していたリンに反して、確かに藤の色をしたそれはそう長くは落ちていなかった。
前回見た時には腰ほどの高さまであったそれは、今は肩につく程度しかない。
衝撃で目を見開くリンに気付いたように、神威は自分の髪を見ながら苦笑をした。
「いや、流石に軍人に長髪は、と上官に窘められてしまってな…」
その年で尉官になれる程の権威を持つ男が何を言うかとリンは思ったが、それに伴ってはたと気付いた。リンは神威を見ても、即座に彼と判断が出来なかった。
きっと他の人間にとってもそうなのだろう、印象的な長髪を隠し帽子に詰めれば彼を神威として認識するのは難しくなるだろう――ただ、もし彼の髪が元の長さならばそれは物理的に叶わないだろうが。
もしや、と思った。
神威は身分を隠してリンに会いに来る為に、髪を切ったのではないかと。
「神威さん」
「リンには関わりのないことだ」
声を掛けると、彼はそれには触れるなというようにリンの言葉を冷たくはね除けた。
それはリンの考えに真実味を持たせる根拠に寄したが、しかし彼にとって自分がそこまで価値のある人間かと思うのは、どうにも自信がない。
勿論それ以上の言及など出来る筈もなく、リンは「そうですか」と小さく返事をするしかなかった。
「あ、いや…すまない。ただ、リンには本当に関係のないことで」
すると神威はリン自身も驚くほどに寂しげに聞こえたその言葉に対して、他意はなかったと謝るのだ。
嫌になるくらいの、お人好しではないだろうか。
「構いません。私こそ、しつこくすみませんでした」
そんな風に言われてしまっては、拗ねたような自分の態度さえも恥ずかしい。
大体、客の容姿に関してなどそれこそ詮索すべきではないことだ、相手が彼だからといって失礼に決まっている。
理由がどうあれ、彼がリンを訪ねて来てくれたことに変わりはないのだし――それが彼自身にとって良いことかはともかく。
リンが謝ると、神威は悪いなと言って苦笑をした。
「詳しく言うのは憚られるが…そうだな、私もそろそろ自分の身の振りについて考えなければならないのかも知れない」
ぽつりと呟かれた言葉は、リンが期待した理由には基づきそうもない。
しかしそれよりも、彼の言ったその言葉の意味についての方がリンにとっては衝撃だった。
「身の、振り…」
そんな言葉を聞いたのも随分と昔のことのような気がする。
もう三年ほど前だろうか。
まるで狐のような細長い目をした男が、口角を引き攣らせるように持ち上げながら、これは忠告ですよと嘲笑うかのように言った。
『――さん、以降の身の振り方について、今一度考えた方が良さそうですよ』
『このままではどうなるか、お分かりでしょう?』
その頃のリンは言葉の意味自体も、ましてそれが何を表すことになるかなど知りもせず、あの男の笑い方だけはなんとなく好かないと思いながら見て見ぬフリをするしか出来なかった。
それは、リンが売られるより半年ほど前のこと。
おやつに何か貰おうと一人で廊下を歩き、たまたま通りかかった部屋の中から聞こえたのは脅迫。
今なら分かるのだ。
あの時には、既にリンたちの未来は決まっていたのだと。
「リン…?」
神威の声にリンはハッと顔を上げる。
本当にどうしたものか、今までずっと錠前を掛けて閉じ込めてきたものが、ここまで昔の話を思い出すなんて。
「どうした、何か嫌なことでも思い出したのか?」
痛みのような記憶を考えから追い出そうと左右に頭を振ると、神威がそんなリンを覗きこむようにしながら聞いてきた。
全くその通りに嫌な思い出で、リンは図星を指されて戸惑いながらももう一度首を振る。
――嘘を吐くことには慣れている。
それがこの男だからといって変わる訳でもないし、罪悪感を覚えたとしても、こちらこそこんな昔の話をしても神威には関わりのないことだ。
「それより神威さん…挨拶はいいです、今日は一体どんな御用で此処へ?」
リンとしての素顔の上に、遊女の仮面を被り直す。
勿論やはり彼に対して“仕事”をする気もさせる気もないのだけれど、これ以上言われてはほろりと話してしまいそうだと自分を隠す。
自身に近い話へと話題を変えれば、神威も他の男と同じようにもうそれ以上リンへと言及する筈もないのだ。
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