第五章 02
それから三日間、男は幽閉されて過ごした。
男には何がどうなったのかは分からないが、幽閉されたのはなぜか牢ではなく宮廷楽師となって以来使い続けていた自室だった。
しかも、弦楽器の他に高価な羊皮紙まで用意されているのだから、男の幽閉に関しては焔姫だけでなく、国王の意向があったのではないかとも思えてくる。
扉の外側にはかんぬきがかけられ、部屋の外には近衛兵が立っていた。
当初、かんぬきがかけられていれば部屋から出る事は出来ないので、なぜわざわざ近衛兵が立っているのかと男はいぶかしんだ。
しかしそれも、しばらくして焔姫がやってきた事で男は納得した。
焔姫は近衛兵と押し問答をし、半ば無理矢理に男の部屋へと入ってこようとしたのだ。近衛兵はもちろん国王や宰相から厳命されているらしく、焔姫を部屋に入れないようにしていた。しかし、焔姫自身の態度が苛烈な上、軍のトップでもあるために力関係では近衛兵も強く言えないようで、任務と上司の間で板挟みになっていた。
それは、男は仕方なく作曲を中断し、扉へと歩み寄らなければならなかったほどだ。
「……姫。お願いですから、彼らを困らせないで下さい」
扉に向かってそう声をかけると、憤慨した声音が返ってきた。
「何を言っておる。余はただ食事を持ってきただけじゃ」
「……。食事であれば、先ほどいただきました」
少しの沈黙ののち、焔姫はあきれた声を上げた。沈黙はどうやらため息だったらしい。
「……なれの先ほどとは朝の事かえ? もう夕暮れじゃ。なれの“先ほど”はずいぶん幅があるようじゃな」
「……何ですって?」
男がびっくりして部屋の開口を見る。と、空はもう薄闇に包まれつつあった。
「……まったく、もうよいわ。これは後でこやつに入れさせる。それでよいな?」
焔姫はそんなあきれた声をもらして去っていった。
それであきらめたのかと思えばそんな事はまったくなかったらしく、少なくとも前半の二日間、焔姫は何かと理由をつけて男の元を訪れていた。
その度、困りきった近衛兵があわれになり、男は苦言をていする。
「……姫、何度お話すれば分かっていただけるのですか?」
「何をじゃ?」
「……本当に、お分かりになりませんか?」
「……」
その沈黙は、何よりの答えだった。
「……。来て下さる事は、ありがたいと思っております」
「なら――」
「――しかし、一国の姫が罪人の元へ足しげく通ってこられるようでは、国の将来が危ぶまれます」
我ながらずいぶんひどい事を言ったと男は思った。その言葉を聞いて、焔姫が男を切り捨てるために部屋へと入ってくるのではないかと覚悟するほどに。
「……」
しかし、焔姫はそんな事はせず扉の向こう側で黙り込んでしまう。
「……愚か者め。余がどれだけ――」
その先を、焔姫は続けなかった。
「……」
「……」
扉の向こうの焔姫の様子は男には分かりようもない。
しばらくして、かつかつと遠ざかっていく足音が聞こえた。何かの葛藤のすえ、焔姫は扉の前から去っていったのだ。
自分は何か失敗をしてしまったのだろうか、と思ったものの、他にどうすればいいか分からなかった。
そしてそれから、三日目の夜までの丸一日間、焔姫は男の居室へとやってくる事はなかった。
その焔姫との事はあったものの、この三日間は男の想像以上に充実した時間となった。
しかしそれは同時に、想像以上の苦痛をも男にもたらしていた。
環境や待遇が悪かったわけでは、もちろん無い。
むしろ、死罪を宣告された囚人だと考えれば、男には異常なまでに整った環境を用意されていると言えた。
朝夕の二回、近衛兵が食事を室内へと運び入れてきたが、それも囚人のそれと言うよりは客人に対するものだとしか思えなかった。
この居室に罪人として幽閉される際、王宮の人々や侍従たちは宰相たちの言う通りの「姫をたぶらかした唾棄すべき者」だと男の事を見ていたが、食事を運んでくる近衛兵たちは、どちらかといえば男の事を不憫だと思っているようだった。
近衛兵にしろ王宮の者にしろ、彼らのほとんどは男の宮廷楽師としての仕事ぶりや焔姫に付き従うさまをよく見ている。
焔姫と親密だとまで言われていた男だ。そんな風に思われる事もなくはないのかもしれないが、王宮の者と近衛兵たちとでなぜこれほどまでに態度が違うのだろうと疑問に思ってしまうほどだ。
男にひとつ思い当たるとすれば、それは彼らと焔姫の間柄だ。
極論、王宮の者たちは焔姫の苛烈さしか知らない。加えてわがままなどもあり、焔姫のためを思うという意識は欠如していると言っても過言ではなかった。それと比べると、近衛兵を始めとした軍の者たちは将軍として焔姫に命をあずけ、焔姫はそれを無駄にはしないという信頼でつながっている。だからこそ戦での騎馬に立つという行為にも、彼らは異議を唱えたりする。軍の者たちは信頼と同時に焔姫の事を心配もしているのだ。
それが本当に影響しているかどうかの確信はないが、その辺りが関係はしているのだろうと男は思った。
男の曲の制作自体は難航した。
結局男は、この三日間をほとんど寝ずに過ごす事となった。暗くなれば明かり油に火を灯し、そのささやかな明かりを頼りに作業を続けた。ほんの少しまどろむくらいが、男にとっての休息のすべてだった。
男は三日間、弦楽器をかき鳴らし、歌詞に頭を悩ませ続けた。食事もろくに喉を通らなかったが、この三日間で倒れるわけにはいかないと、半ば無理矢理に胃に流し込んでは吐きそうになるのをこらえる、という事を繰り返した。
男は、曲を作るにあたってここまで次々とイメージが湧いて来る事など今までなく、何から手を付けるべきなのかと途方に暮れてしまうとは思いもよらなかった。
浮かんでくる膨大な言葉たちの中から、焔姫を表現するのに最もふさわしい言葉は何だろうか?
膨大な旋律のインスピレーションから、焔姫のために使うべき旋律は何だろう?
それらの取捨選択だけでも大変な作業だが、しかしそれだけでは単語の羅列と雑多な騒音にしかならない。それを一つの作品へとまとめ、昇華させなければならない。
それこそ無数にある選択肢の中から最良のものを見つけだし、それを選び取って形にしていく作業は、男にとってこれまでで最も大変で、最も苦痛に満ちていたが、それでも最も楽しく、充実していてやりがいのある作業だった。
ようやく曲としての形が見えかけてきたのは、三日目に入ってからの事だ。
ここに至って、男は羊皮紙と羽ペンを手に取る。
頭の中でぼんやりとした形を保つメロディと歌詞を、羊皮紙の上で明確なものへと変換していく。
その上で、まだ納得のいかない部分を改めて考え直す事もあった。
「紅蓮を翻し……干上がる大地に君臨する……いや、違うな。君臨……大地を統べる、か」
男がぶつぶつとつぶやきながらそう修正をかけていたのは、三日目の日が沈んでからしばらくたった頃で、時間ももう残り少なくなっていた。
ただ単に皆が知る焔姫を表現するだけでは足りないと思った。一見そう見えるが、よく考えてみればそれは焔姫の内面の思いや葛藤を表しているのだと気づく事の出来るものにしなければ、これまでずっと焔姫に付き従ってきた意味すらなくなってしまう気がしてならなかった。
「喰らう命を数えては震え……軋む手を、縛る戒めの先にただ願わん」
皆の知らない焔姫も含めて、余すところなくこの曲の中に込めなければならない。
そうでなければ、男だからこそ作れる曲ではなくなってしまう。そんな薄っぺらで簡素な曲などで焔姫が納得するわけがない。それに男自身にいたっては納得出来ないどころか、死んでも死にきれない。
「紅蓮を掲ぐ者よ、愛しきこの――」
男のつぶやきが、唐突に打ち鳴らされる鐘の音にかき消された。
はっとして開口の外を見る。
外は暗い。もう深夜と言っていい時間だった。
鐘は響きからして物見塔からではない。王宮にある時を告げるためのものだ。だが、当然ながら本来ならこんな深夜に鳴らされるべきものではない。事実、その鐘の音は均等に打ち鳴らしているわけではなく、皆に緊急事態を知らせようと必死に打ち鳴らしているように聞こえる。
何か、王宮であってはならない事態が起きたという事か。
男は視線を巡らせ、扉を見る。
扉の外には近衛兵が立っているはずだが、彼も何も分かりはしないだろう。何が起きたにせよ、扉の外からかんぬきがかけられている以上、男にはどうする事も出来ない。
男はあきらめたように小さく首をふり、視線を羊皮紙へと戻した。
だが、鐘は一向に鳴り止まない。
男は何とか目の前の作業に戻ろうとしたが、一度切れてしまった集中力は戻ってこようとしなかった。
羊皮紙に文字を記そうとするが、なかなか次の言葉が出てこない。
自分がここにいる間に、王宮ではいったい何が起きたのか。焔姫の事だ、彼女は大丈夫だとは思うが、しかし万が一でも――。
鳴り続ける鐘の音に、男はそんな考えを抱かずにはいられなかった。曲を作らなければと思っても、思考がまとまってくれない。
そんな葛藤をしていると、不意に鐘が鳴り止む。
なぜ鳴り止んだのか。
そこに思い当たってしまった男の手もまた止まってしまう。
同時に扉の外から怒号が聞こえてくる。そして廊下を駆ける音とともに、剣戟の音までもが響く。男の目の前の扉の向こうで、戦いが繰り広げられているのだ。
この王宮が戦場と化しているというありえない事態に、男は戦慄を覚える。
幽閉される三日前まで平穏だったこの国に、一体何が起きたというのか。
悲鳴が上がり、扉のすぐ外が静かになる。
「……」
男は辺りを見回したが、身を守るに足る道具などありはしなかった。せいぜい男の弦楽器くらいだろう。だが、自らの命と同等と言っていい弦楽器を武器として使う事など考えられなかった。あとは、机を盾にするくらいか。どちらにせよ、現実的な手段とはとても思えない。
そんな事を考えているうちに、ごとりと音がして扉のかんぬきが外される。
扉が開いてまず目に飛び込んできたのは、血に濡れた三日月刀だった。
それを手にした賊たち――近衛兵ではなかった――が二人、その後ろからは歩き方のおかしなやせぎすの賊が入ってきた。
男を見て、手前の一人が口を開く。
「焔姫の居場所を答えろ――」
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