「たとえて言えば、君はこのドーナツに空いた穴だな」
数少ない古い記憶。あれは一年か、あるいはもっと前か。僕を担当していた科学者は言った。男だか女だかももう忘れてしまったが、やけに呑気で陽気な口調と声音だったのは覚えている。
「僕が空っぽだって言いたいのか?」
試験戦闘後の調整中、処置用の硬いベットに横たわった僕はそいつの無駄話に付き合わされる。面倒なのでほとんどは適当な相槌で聞き流していたけれど、このときばかりは険を込めて言い返した。戦闘に関する知識と技能、日常生活に最低限必要な記憶と感覚。それら以外を不必要として捨ててしまう僕に対しての皮肉だと感じたのだ。
「怖い顔するなよ。私だっておんなじさ。……君はこのドーナツの穴だけを切り取ることが出来るかい?」
意図不明な質問に眉を顰める。
「不可能だ」
「そうだね。不可能だ。誰にも出来ない」
間食に持ってきたドーナツの穴を覗き込んで、科学者は得意げに言う。ああ、またぞろ意味のない無駄話の類か、と一気に興味が薄れた。
「“ドーナツの穴”があることは誰にでも知覚できるのに“ドーナツの穴”それ自体を切り取ることは誰にも出来ない。これって考えてみるとおかしな話だよね?」
「別におかしくない。当たり前だ」
「そうかな? まあ当たり前といえば当たり前のことだね。さて、じゃあここでもう一つ質問だ。『君は君の存在をどうやって証明する? 翻って“私が確かにある”という君の感覚をどうして信じられる?』」
むっつりと言い返す僕ににやにやと嫌な笑みを浮かべるそいつ。
「そんなの簡単だろう。手近なものを壊すか、あんたをぶん殴れば確かめられる」
わざと意地の悪い返し方をしても、科学者は嬉しそうに笑うだけ。
「いいね! とてもシンプルで分かりやすい、実に良い証明方法だ。では更にもう一つ条件を加えよう。もし、“君の周りに何も存在していなかったら。なおかつ自力で移動することが出来なかったら”どうする?」
「…………」
即答できなかった。そして、ようやく科学者の言わんとしていることを理解した。そいつは正解を見つけた生徒を褒める先生のように、にやりと笑った。
「気づいたようだね? “ドーナツの穴”はドーナツという外側があるからこそ存在していられる」
「僕もあんたもそうだと?」
「そうさ。己以外、ここは世界というべきかな? 世界という外側があるからこそ自己の存在が確立する。他者からの観測。事象への影響力。それらを用いてしか私たちは自分の存在を確かめることが出来ないんだよ。どうだい?」
ふふん、と得意げに胸を張る科学者。僕はひどく呆れた顔をしていたと思う。
「そんなことを言うために長ったらしい講釈を垂れたのか?」
「いやいや、大事なのはここからだよ」
そうだよ? 実に面白いだろう? という肩の力が抜ける答えを期待していた。しかし返ってきた言葉は僕の予想とは違うものだった。そいつはドーナツを真っ二つに割って、ぞっとするほど冷たい笑顔でこう言ったのだ。
「世界ってのは、君が考えているよりもずっとずぅっと脆いものなのさ」
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