弱音ハク探偵事務所(前半)
都市の中には様々な風景を目にすることが出来る。近代化された、造形豊かな建築物。天をも恐れぬ高さへと伸びた、機能を追及するがゆえに生まれた美しさをもつ高層ビル。そして、そこを生活の場とする、数多くの人間、成功者。清潔な、光に見出された種族。
だが、そんな街の中であっても、必ず影は存在する。太陽の光でさえも届かぬ場所が確実に存在しているように、ひっそりと、身を潜めながら。
「暇。」
繁華街の一角にある、建築からもう三十年は経過しているだろう、少し大きな地震が来ればたちどころに崩壊してしまうような雑居ビルの一室で、亜北ネルはそう言った。
「そうだねー。」
気のない返事をしながら答えたのは、ネルと骨董品というには汚れすぎている木製テーブルを挟んで向かい合っている弱音ハクである。その手にはパックのトマトジュース。どうやらハクは、ネルの問いかけよりも、ストローで濃厚なトマトの果汁を吸い上げるほうがより重要な事柄であるらしい。生半可な回答とは異なり、ず、ず、と一生懸命な吸引音を響かせるハクに向かって、ネルは呆れたようにこう言った。
「街はハロウィンなのに、これじゃああたしたちがお化けになっちゃうわ。」
「ん?」
漸くトマトジュースを空にしたハクは、ネルの言葉を聴いていなかったものか、そう訊ねた。
「だ、か、ら、このまま仕事がなきゃあたしたちが飢え死にするって言っているの!」
「そうだねー。」
「もっとしっかりしなさいよ。」
「うん。お仕事来るといいねー。」
「お前だよお前。」
そこでネルは追求を諦めたように、嘆くように掌を瞳の上に翳してみせた。そのまま大げさに首を左右に振りながら、言葉を続ける。
「最近、迷子の猫の捜索とか、小鳥の捜索とかばっかりじゃない。」
「子猫かわいいよー。」
「お金にならない、って言っているの!」
そのまま、どん、とネルは目の前のテーブルを叩き付けた。ただでさえ緩みかかっているテーブルの脚がぎしぎしと揺れる。その音に漸くハクは驚いた様子で、それでも身体は動かさず、何度か不思議そうに瞬きをして見せた。
「はぁ・・もう、あたし仕事探してくるわ。」
ハクの様子を見て、これ以上は無駄だと考えたのだろう。呆れたようにネルは軽く頭を振ると、かび臭く、そして安っぽい丸椅子から立ち上がった。
「いってらっしゃいー。」
相変わらずののんびりとした声で、ハクはネルの後姿を見送った。扉が閉まるとやがて、階段を下りてゆくネルの足音が響き渡る。当然ながら、都市部とは思えないほどに賃料が安いこのビルにはエレベーターという文明の利器は用意されていない。
「さて、と。」
そこで漸く、ハクはトマトジュースをテーブルに戻すと立ち上がり、事務所に唯一用意している、十年前に中古で購入したパソコンを立ち上げた。2000の文字が浮かび上がるパソコンを利用している人間はもう殆ど絶滅寸前だろうし、いい加減新型のパソコンが欲しいところではあったが、今のハクにはこれが精一杯であった。いや、中古でももう少しまともな機種が出回っているだろうが・・。
「今日も忙しいなぁ。」
パソコンを立ち上げて、ハクが自ら管理している掲示板を開くと、そこには既に二、三の書き込みがなされていた。知る人ぞ知る、都市伝説にも近い掲示板。ヴァンパイアという題名である掲示板に書き込む人間は大抵、相当に追い詰められた人か、或いは好奇心に刈られたネット中毒者か。二通は予想通り冷やかしの書き込み、だが一通は。
「今夜は、忙しくなるね。」
その内容を見つめながら、ハクは小さくそう呟いた。
『歌舞伎町ミラノボウル前、今夜二十二時。』
その掲示板に書かれた日付けをハクは愛用している小さな手帳に書き込み、短い返信メールをしたためると、何事もなかったかのようにパソコンをそのまま閉じた。
眠らない街、歌舞伎町。
その中心部とも言うべき、ミラノボウル前の広場に到達してハクは、半ばぼんやりとした様子で目の前にあるゲームセンターの様子を眺めていた。まだ若い、学生のようなカップルが手前に位置しているクレーンゲームに興じている。瞬間浮かび上がったプライズに緊迫したもの束の間、すぐにぽとりと落下して無意識の内に上がった落胆の声が、がやがやと煩い街の中に小さく響き渡った。その様子を横目で眺めていたハクは、仕事の際に愛用している黒色のロングコートの襟を片手で摘んで、首元を隠すように位置を整えた。ほんの少し、風が冷たく感じたのである。
「お姉さん、一人?」
唐突にハクにかけられた声に反応してハクが振り返ると、いかにも似合わないスーツに身を包んだ、金髪に染め上げた若い青年が立っていた。その顔はどこか疲労に満ちていて、瞳の輝きはやつれ果てた中年の男性のようにくたびれている。
「申し訳ないけれど。」
短くハクはそう答えて、青年の言葉を遮った。おそらくホストクラブの呼び込みだろうが、待ち合わせを前にしてその時間は勿論、何よりも資金が不足している。いや、行ったところで楽しめる保障は今ひとつ存在していないのだが。
その青年は諦めた様子でハクの元から立ち去ると、こりもせずに別の女性に声をかけ始めた。歌舞伎町では普段どおりの光景である。男性なら、各方面からキャバクラへの誘いの声がかけられることだろう。時刻も時刻、もう酔いつぶれた人間がふらふらと歌舞伎町では唯一とも言えるこの広場にやってきては、そのまま地べたに座り込んでいる。通いなれた者ならば最早見慣れた、普段どおりの風景。この場所だけは、平日、休日関係がない。毎日こうして、俗世の苦痛を酒に流そうと苦心する人々が訪れる場所。この場所で酒を飲み、性欲に溺れる限りは、成功者も、堕落者も関係がない。ただ、彼らが落とす金の量が違うだけで。
「あの、ごめんなさい、私待ち合わせが。」
小さく響いた声にハクが顔を上げたのはそれから十分程度が経過したころであった。ふと腕時計に視線を向かわせると、時刻は丁度十時を指している。待ち合わせの時間がずれることは良くあることだった。勿論、依頼だけ投げて結局依頼人が現れないこともある。それならそれで、馴染みの店で一杯引っ掛けてから、自宅と兼用になっている事務所に戻るだけなのだが。
「いや、三十分だけでいいから、ね?」
「でも・・その・・時間が・・。」
声の様子から見ると、先程ハクに声をかけてきたホストが声をかけているらしい。この場所で、あの程度の誘い文句を断れない女性が単独でこの街を訪れることは珍しい。ハクがそう考えながら視線を声の方向へと向けると、成程、この場所には場違いな、まだ少女にも見える可愛いらしい女性が必死で弁解の言葉を上げていた。腰まで届くほどのツインテールに、まだ幼さが残る表情。田舎から出てきたばかりなのか、その表情は一面の戸惑いに満ちていた。逆に言えば、ホストにとっては格好の獲物でもあるわけだけど。
「ごめんなさい。その子、私と待ち合わせがあるの。」
見てられない、と思ったハクはそのままつかつかと会話のやり取りをしているホストと少女の間に割り込んでそう言った。その言葉にホストはあちゃ、という様子で苦い表情を浮かべると、じゃ、また、と当たり障りのない言葉を吐いてその場を立ち去っていく。
「あの、ありがとうございます。」
ホストが立ち去ったことを見届けると、その少女はおどおどとした様子でそう言った。どうやら自分よりも五つは年下のように見える。
「ああいうのはきっぱり断らなきゃだめよ。それじゃあね。」
そう言ってハクが少女と別れようとした時である。
「あの、もしかして、ヴァンパイアさん・・ですか?」
その言葉にハクはぱちくりと瞳を瞬かせた。
「あの、その・・銀髪に、黒い衣装と、メールで。」
その言葉にああ、と納得した様子でハクは頷く。
「貴女が今日の依頼人ね。」
「はい、あの、初音ミク、と言います。」
「私は弱音ハク。ところで、歌舞伎町は初めて?」
ハクの問いに、ミクが小さく頷いた。ここまで若い依頼人と対面するのはハクの長い仕事の中でも珍しい。普段なら、金と欲にまみれた女性か、あるいは権力闘争に明け暮れる男性の依頼が主だったものだから。だからと言って、その全ての依頼をハクが受け入れるわけではないけれど。
「それで、どんな依頼かしら?」
「兄を、探して欲しいの。」
ミクはそういうと、大事そうに抱えた、可愛いらしいハンドバックから一枚の写真を取り出した。そのままハクは写真を受け取り、まじまじとその姿を眺める。
「カイトという人なの。ずっと前に、家から飛び出して、東京に。」
「ご実家はどこかしら?」
「札幌です。」
「それは長旅ね。」
今時、兄を気遣ってこんな遠くまで旅に出る少女がいることに軽い感動を覚えながら、ハクはそう答えた。そのまま、言葉を続ける。
「お兄さんはいつ行方不明になったの?」
「いつも、メールだけはくれていたの。歌舞伎町で働いていると聞いて、毎日頑張っているって聞いていたの。でも、一ヶ月前から連絡が取れなくなって、それで心配で・・。」
ミクが懸命に語る言葉にハクは丁寧な相槌を打った。そのまま、不安を隠しきれないという様子でミクは言葉を続ける。
「何か事件に巻き込まれたのかも知れないと思って、警察にも届けたけれど、全然進展がなくて。そんな時、ハクさんの噂をネットで調べて、親には黙ってここまで・・。」
「状況は分かったわ、ミク。」
そこでハクは柔らかな笑顔を見せた。そのまま、言葉を続ける。
「貴女の依頼、確かに受け取ったわ。」
後半に続く。
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