遠い日の約束
不意に意識を取り戻して目を開くと、視界は黒く塗りつぶされていた。暗い闇はどこまでも広がっているような、しかし周りを囲まれているような強い圧迫感を与えていた。
ここは何処だ。いや、何だ?
頭に疑問を駆け巡らせたまま、横たえていた体を起こし立ち上がる。何気なく右腕を上げると、指先が平たく固い感覚を捕えた。何も無いと思っていた真っ暗闇の中で触れたそれを確認しようと左手でも触る。
「壁、か? ここは部屋なのか?」
湧き上がってきた恐怖心を抑えながら、右手を壁に当てたまま歩く。どうやら先程の予想は正解だったようで、しばらくすると角と思われる部分に右手が触れた。
それが四回、おそらく一周したと判断して壁から手を下す。歩いている間に見えたのは闇だけだった。
黒く塗りつぶされた部屋にひとりぼっち。それに気が付き無意識に助けを求める。
「誰か……、誰か!」
どんなに目を凝らしても何も見えず、どんなに耳を澄まして何も聞こえない。
僕はどうしてこんな所にいる? 何があった? そもそも、僕は一体何者だ?
思考を巡らせても答えが見つからない。何か大切な事を忘れている気がする。なのに、それを欠片も思い出す事が出来ない。
考えるのに行き詰まり何気なく顔を上に向ける。そこにあったのは黒い天井と、他とは比べ物にならない程深く、全てを飲み込むような闇の塊だった。
何かあると瞬時に感じ取り、天井を注意深く見てみる。闇の塊だと思っていたのは天井に大きく空いた穴であり、その中には今まで見て来た物とは明らかに違う、奇妙な物体が存在していた。
「ぜんまい?」
穴を埋めるような巨大なぜんまいが、動く気配を全く見せずにそこにあった。まるで、ここでは時間が止まっていると示しているかのように。
顔を俯かせて、滑稽だ、と自嘲する。自分が何者かも分からない状態なのに、あれがぜんまいだと言う事は分かるなんて。
暗い部屋に閉じ込められるなんてあの時と同じだ。だけど、前はここまで真っ暗じゃなかった。自分の手や人の顔を見る事が出来て、他の誰かと会話をする事も出来た。そこから出された時には外が変に眩しく感じて、大勢の人の声がやけに大きく聞こえたな。
「あの時って何だ? 僕は前にも同じ事が……?」
自分の意志とは無関係に浮かんだ思考に疑問をぶつける。どうしてそんな事を考えた、いや、思い出す事が出来たのか。理由を考えても、目の前に霧がかかっているようにはっきりと見る事が叶わない。大切な誰かとした約束がそこにある。それが分かるのにほんの少しの所で届かない。
どんなに繰り返してもその希望に辿りつけない事に苛立ち、悔しさに顔を歪めて壁に拳を叩きつける。当たった衝撃で出るはずの音は無く、右手に痛みが走っただけだった。
「何で思い出せないんだよ……」
訳が解らないまま涙声で呟く。ここにいるのは自分だけ、誰かに問いかける事も出来ない。
あのぜんまいなら何か知っているかも知れないと、藁にもすがる思いでもう一度見上げる。じっと見つめているうちに、苛立っていた心が不思議と凪いだ海のように穏やかになっていった。
「あ……!」
海。そう思った瞬間に全ての記憶が蘇って来る。
大切な思い出も嫌な記憶も一緒に自分の身に流れ込む。一斉に押し寄せた奔流に耐えきれず、頭を抱えて床に両膝を落とした。一瞬とも永遠とも感じた苦痛は唐突に終わり、両手を床に伸ばして倒れ込むのを防ぐ。
どうして忘れてしまっていた。自分が何者か、何をしていたのか。大切な人を置き去りしてしまった後悔と、別れ際にした約束を。そして、自分の人生の結末を。
「死後の世界にしたって、あんまりだ……」
呟くと同時に両目から涙があふれ出す。涙が床に落ちて行くのは分かるが、この暗闇ではそれを見る事すら出来ない。
ここはきっと、命を終えた者が来る場所。思い出の中にある、幸せだったあの頃にはもう戻れない。
出るままに任せていた涙が止まり、姿勢を変えようと壁に背中を預けて座り込み、全てを放り出すような気持ちで両足を投げ出す。
「とんだ嘘吐きだな、僕は」
きっとまた会えるなんて言っておいて、その可能性を見つけ出す事も出来ない。
ごめんね、と心の中にいる己の半身に謝る。何も無いこの空間では、思い出に浸る事しかやる事が見つからなかった。
どれ程の時が流れたのだろう。ぜんまいにここでは時間と言うものがあるのかと尋ねても答えは無く、ただこの闇に身を任せるしかない。
……ら……り……。
微かに自分の声以外の声、しかも大切な片割れの声が聞こえた気がして、思わず自虐的な笑いが口から漏れた。
馬鹿馬鹿しい、気のせいに決まっている。何も見えない、聞こえない場所にずっといたせいで、とうとう幻聴まで引き起こす程に狂ってしまった。いっそ何も感じなくなればどれ程楽になれるだろうか。
あの子は僕がいなくなった後どうしたのだろう。僕の為に泣いてくれたのだろうか、悲しんだのだろうか。そうだとしたら、すまない事をしてしまった。笑顔でいて欲しいから傍で支えようと決めたのに、悲しませてしまうなんて本末転倒だ。
一緒にいられた時間は離れていた時間よりも遥かに短かったけれど、忘れる事なんて出来ない大切な思い出。あの子は今どうしているだろう。悲しみも絶望も乗り越えて、幸せになっていれば良いが。
そこまで考えて目を閉じる。この暗闇では眠っているのか起きているのかも判断できないが、深い闇しか見えないのに目を開いているよりはマシだった。
……りら……る……。
さっきとは違う声が聞こえた気がして、ふと我に帰る。冷静に思考出来ると言う事は、まだ自分は正気を失っていない。
「子守、唄……?」
訝しげに目を開き、記憶を掘り起こして呟く。小さな頃からあの子守唄は歌うのも聞くのも大好きだった。
声は止んでしまい聞こえなくなり、無音が部屋を包み込む。やはり気のせいだったのかと諦め、もう一度目を閉じようとした時だった。
……るりら……るりら……。
幻聴なんかじゃない、確かに聞こえた。今聞こえたのは間違いなく自身の片割れの声だ。驚き確信すると同時に立ち上がる。その間にも子守唄は優しく耳を撫でて、途切れる事なく繋がっていく。ひとりぼっちで寂しくて堪らなかった心を癒してくれている。
向こうからの言葉は届いても、こちらからの言葉を届ける事は出来ないだろう。それは分かっている。それでも、感謝の気持ちを伝えたかった。
「聞こえる……、聞こえるよ!」
会いたい。そう願う事が許されない事であったとしても、摂理に逆らう行為だとしても。
もう一度、君に会いたい。
願いが通じたのだろうか、ぜんまいの隙間から小さな一つの光がゆっくりと落ちてきた。両手を伸ばし、闇の中で強く輝く光を受け止める。暗く冷たいこの部屋にいた中で忘れていた温かさが、手を通して伝わってくる。
受け止めるのを待っていたかのように、光は手の上で徐々に変化していった。光が治まり手に残ったのは、硝子の小瓶。中には筒状に丸められた紙が入っている。
逸る気持ちのまま蓋を開けて紙を取り出すと、小瓶と蓋は役目を終えたと言いたげに光の粒子となって消えていく。粒子が手から離れて行くのを最後まで見送り、メッセージを届けてくれた小瓶に礼を告げ、懐かしさを込めて丸められた紙に語りかける。
「覚えてくれていたんだね……」
船の上でした他愛の無い話。あの海に伝わる言い伝えを。
ゆっくりと紙を開く。描かれていた字は自分が書いた物とそっくりで、それが妙に可笑しかった。
僕と君が海に託した想い。文面は少しだけ違ったけれど、願いは同じだった。
姉弟の傍にいられますように
姉弟と一緒にいられますように
そうだ、と紙を手にしたまま顔を上げて前を見る。
そもそも、また会えると約束をしたはずだ。なのに、僕はこの部屋からは永遠に出られないと決め付けて、約束は果たせないと勝手に諦めていた。
だけど君は違った。届くかどうかも分からないのに願いを海に流し、僕がひとりぼっちでも寂しくないように子守唄を歌い続けてくれていた。
がこん、と大きな音が一つ頭上から鳴った。天井を見上げてみると、ぜんまいがゆっくりと廻り出していた。それに合わせて部屋が徐々に白く染まり、今までの暗闇が嘘のように明るくなっていく。
子守唄を歌っていたのとは違う、全く知らない声が耳に届く。
『これからあなたは生まれ変わるのよ』
語りかけてくる女性の声。
『今日が君の新しい誕生日だ』
話しかけてくる男性の声。
聞いた事が無いはずなのに、酷く懐かしくて温かいその声は、優しく送り出すように揃えて続けた。
『行きなさい、レン』
レンは一度振り向いてから白く染まる視界の中を歩き、そして走り出す。徐々に意識が遠のいて行くのを自覚したが、きっと自分を彼女の元に導いてくれると信じて足を止める事は無かった。
長い時間がかかってしまったけれど
もうすぐ君に会いに行くよ。
心で呼びかけるのを最後に、レンの意識は白い光に包まれて消えて行った。
現在に続く物語 双子の姉弟 前編
『今』に続く物語
最終章と言うか、後日談と言うか、そんな感じのお話。
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