日は既にもう、かなり落ちていた。りんは小走りに、人の行きかう道中を廓に向けて進んでいた。薄暗い夜の始まりに、道行く人の中にもまばらに提灯の明かりをつける人もいて、そこだけ浮かび上がるように明るく見える。足元の暗いのに注意を払いながらも、小柄なりんは、人々の間をすり抜けるようにして、込み合う道でも割合に素早く進む事が出来た。
この調子ならば、廓の入口の赤提灯の明かりが灯る前に帰りつけると、少し気を緩めた時だった。ふと、その目の端に何か彩りの華やかなものが踊って、思わずそれに目が吸い寄せられてしまった。振り返ってみれば、それはただの出店で、明るく提灯のつるされた店先に色鮮やかな小鳥が、籠に入れられて並べられていた。
それに意識を取られていたせいだろう。あ、と思った時にはりんの足は小石かなにかに躓いて、体が跳ね跳んでいた。草履が脱げて、地面に散らばる。その上を、容赦なく人の足が踏みつけて通って行った。
「ああ」
りんが上げる声を聞く者はいなかった。慌てて身を起こすけれど、擦り剥いた膝小僧や肘が痛くて顔をしかめた。それでも這うようにして手を伸ばして拾った草履は人の重みで半分に割れて、到底使い物になりそうもなかった。
りんは途方にくれてその場に座り込んだ。
視線の先、ただ出店の小鳥たちだけが鮮やかに視線を捕らえるだけだった。
日が暮れてもりんが戻ってこないので、みくとはくは気を揉んでいた。はじめは、それでも部屋で待っていたのだったが、はくがとうとう「下に行って見てまいりますね」と言ったのをきっかけに「私も行く」と、みくも席を立ち、結局二人で廓の入口の辺りでりんの姿が見えないものかと立っていた。
「みく姐さん、私、こんなことを申したくはないんですけれど、もしかしておりんちゃんは……」
はくは不安そうな色を顔に浮かべて、そんなことを言いかけたけど、みくは軽く首を横に振って、その言葉を止めた。言いたい事は、判っていた。
りんはみくのところに来る前は脱走の常習者であったし。考えてみれば、外出を許されたのは今回が初めてだったのだし。
それでも、みくはそれを信じたくなかった。もしかしたら、とでも思いたくなかった。
だから、もう暗くなり店々の店先に赤い提灯の灯り始めた花街の小道をただ一心に見つめていた。
「これは、初音太夫。こんなところでお目にかかれるとは」
突然聞こえた、そんな低く深みのある声に、みくは振り返って相手を見止め、一瞬反射的に眉を顰(ひそ)めた。だがそれは、すぐにいつもの作り物の顔に取って代わる。
「お恥ずかしゅうございます。殿にこんな格好でお目にかかりますなん……」
言葉が途中で止まったのは、その殿の背中に担がれている人物の姿をようやく認めたから。みくは、そしてはくも、一瞬ぽかんと口開けてしまった。
「おりんちゃん」
はくが我に返って声を上げると、殿は少し苦笑したようだった。
「お探し物は、このお嬢だったか」
「どうして……」
みくの顔に混乱を読み取って、殿は面白そうな口調で答える。。
「町人の格好をして町中をうろつくのもたまには楽しいものでね。たまたま、転んで草履を壊してしまったお嬢を見つけたので、担いで送り届けたという次第」
「そう、ですか。それは、殿には大変なご迷惑を」
「とんでもない。着飾っても、取り澄ましてもいない初音太夫なんて貴重なものを見れるとは。良い事はしておくものだな」
「よろしければお店の方に。……すぐに準備してまいりますので」
みくが誘うと、殿は首を横に振った。
「いや、それはまた後ほど。今はこんな格好なので、ひとまず失礼する。連れの者に何も言わず出てきているので、私もお嬢のように心配されているやも」
そう言って、殿は膝を折り曲げて腰を低くする。決まり悪そうな顔で、りんはもぞもぞとその背中から下りて来て、みくとはくの前に立つとごめんなさい、と呟くような声で言った。
殿は意外にも、みくと共に過ごす時には見せる事のなかったような寛容な、もしかしたら優しげとも評すこともできるかも知れない笑みを浮かべてりんの頭に軽く手を置くと、軽く二つ程柔らかく叩いて、立ち去った。
★・★・★
煌びやかな夜の遊戯場。みくの生きる舞台たるその座敷で、いつものように殿の傍に座りながら、みくは当惑した顔で目の前に差し出されたものを眺めた。
「これは?」
いつも贈り物といったら簪か着物か、その他の高価な装飾品やらと相場が決まっていたのに、これは一体どういったことだろう。
目の前には竹の籠に入れられた鮮やかな、一羽の小鳥。
「お嬢が見惚れて転んだ元凶だ」
「おりんちゃんが」
「初音太夫も、もしかしたらこういったものを好むのかとな。もしも不要ならばお嬢に呉(く)れてやればいい」
「……それでは、二人で大切に致します」
みくは恐る恐るその細い指を伸ばして鳥かごに触れる。振動に反応してか、小鳥は驚いたように止まり木から飛び上がって狭い籠の中、数回羽ばたくと、また元のように止まり木に止まった。
「有り難う御座います」
「たまにはこういった、変わったものも良かろう」
「ええ……」
同意しながらも、みくは殿の意図が読めずに困惑していた。小鳥をみくに、ひいてはりんに与えたところで何になるのだろう? それとも、昼間の一軒でりんをお気に召したのだろうか? いやいや、そうであったらりんを呼び寄せ、この場に引き出す事もこの人の権力を持ってしたら可能だ。であるのにこの人の様子から、そんな思惑は一切感じられない。りんへの執着も感じられない。だとしたら、戯れに今日助けた娘にみくを介して小鳥を与えてやろうという酔狂(すいきょう)の一つであろうか? でも、何故そんな酔狂を?
判らない。
いつもそうだ、この人の心はまるで判らない。
今も、そして昔も、読めなかった。
「どうした?」
無意識に、みくがじっとその顔を見詰めてしまったのを不審に思ったのか、殿が見返して問いかけてくるので、みくは慌てて視線を戻して、笑みを作った。
「いいえ」
酌をする為にと酒に手を伸ばしながら、みくは過去の自分を、そして、かつて違う形で会った事のある殿の姿を思い浮かべていた。
殿はきっと、自分があの時の娘だとは思いもよらないだろうが……。
あの頃のみくは、やせ細っていて、みすぼらしい、幼い子供だった。
⇒第七話へ続く。
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