そんな俺の狭い視界に、少しして「庭」で支給される質素な革靴が入り込んだ。ステッチの色は群青色――俺と同じだがサイズは一回りほど小さい。やがて頭上から聞き覚えのある大人びた声が降ってくる。忘れようもない、あの因縁浅からぬ女の声音だ。
『何してるの?』
『……別に』
『そう』
そのまま立ち去るだろうと虚脱し動けない身を横たえていたら、彼女は何を思ったか俺の隣に腰を下ろした。そして長居でもしようというのか膝を抱える体勢になったものだから、無視する腹積もりでいた俺も流石に突っ込まずにはいられなかった。
『……何やってるんだよ』
『別に。何でもいいじゃない』
『早く部屋に戻れよ』
『どこでどうしようと私の勝手でしょ。貴方に命令される筋合いはないわ』
『……くそっ……!!』
『それ、私に言ったの?』
俺は答えず、ぐっと唇を真一文字に引き結んだ。泣きっ面に蜂とは正にこのことだ。しかも相手は蜂どころじゃない。仇とも言うべき憎き女なのだ。そんな奴の眼前で弱い自分を露呈している現状に悔し涙が出そうになる。いっそ舌を噛み切り自害してやろうかとまで思考が及び、選択肢の少なさにまた無力感が募っていく。
この揺れる気持ちを感じ取った――のかは定かでないが、彼女ならそれも有り得るだろう。不意に俺は横合いからぎゅっと抱き起こされ、なし崩し的に抱擁された。骨ばった俺の身体を、成長期の少し丸みを帯びた柔らかい感触が包み込む。こんな奴でもいっぱしに女なのだと、そんな馬鹿げた感想が頭中をよぎり消えていった。
おそらくその時点ですでに俺は戦意喪失していたに違いない。しかしまだどこか意地があり、何か話しかけられたら限界を超えてでも振りほどく気構えでいたのだが、彼女は無言のままだった。次第に俺も気を張り続けることに疲れ、いつしか目蓋を閉じ彼女の温もりに身を委ねていた。
それからどれくらい時間が経ったのだろう。とっくに痺れは引きながらも動けずにいると、ようやく身体を離した彼女が至近で俺の目を真っ直ぐ捉え問いかけた。
『そういえば自己紹介がまだだったわ。私はMEIKO。貴方は?』
『……KAITO』
ただ名前を訊かれただけのことで過敏に反応したら、またいつだかの如く馬鹿にされるのは目に見えていた。だがそれ以上を答えてやる義理などない。そう改めて気を引き締め直したのも空しく、彼女は追撃せずに軽やかな所作で腰を上げた。その際ふわっと香ったのは香水だろうか。抱き締められている最中も気付いてはいたものの、今は何だか懐かしい気分にさせられた。心が安らぐと同時に息苦しいほど切なくなり、胸の奥が微かに痛む。
『じゃあね、KAITO』
結局俺に悪足掻きする暇すら与えず、凛然と彼女は去っていった。何とも絶妙に人の心を躱してくれると、苛立つのも忘れて軽く失笑してしまったものだ。
その後も俺と彼女は様々な所でぶつかり合い、その度に喧嘩別れのようにして離れることを繰り返した。件の付き添いに対する礼を言うべきだとは分かっていたが、彼女の顔を見るとつい憎まれ口を叩きたくなってしまい、どうにもうまくいかない。クラスも違うのに何故だか彼女とはよく行き会い、そんな歪んだ交流がいつの間にやら楽しみになっていたのを自覚し出したせいもあるだろうか。こんな形でも自分と関わりを持ってくれるのは彼女だけで、知らず俺はそれが嬉しかったのかもしれない。
そしてある日のこと。いつもみたく何かくだらない理由で口論していた俺たちは、同期の人間に訊ね掛けられたのだ。お前たち付き合ってるのか、と。当然俺はそんな根も葉もない出任せを否定しようと口を開きかけたが、一瞬早く彼女が言い放った。
『そうよ。だから何?』
俺が愕然と彼女を見返ったのは言うまでもない。それでもその場は何とか抑え、後で二人きりになった時、言葉尻荒く問い詰めた。
『さっきのはどういうことだよ』
『何のこと?』
まるで大した問題ではないと言わんばかりの態度で、彼女は髪をくるくると指先で弄っている。このあまりの悪びれなさに心底疲弊しつつ、俺は苛々と続きを口にした。
『俺とお前が付き合ってるって話だよ!!何でそんなこと言った!?』
『悪い?』
『当たり前だろ!!』
『だって私、KAITOのこと好きだもの』
告げられた言葉の意味が分からず、俺の目は点になった。更に彼女は自然の摂理でもあるかの如く、さらっと次の台詞を吐き出した。
『KAITOも私のこと、好きでしょ?』
一拍反応が遅れた。そこに筆舌に尽くせぬ屈辱を味わいながら、俺の声が二人だけの教室に響き渡る。
『そんな訳あるか!!自惚れるな、この毒舌女!!!』
『自惚れてなんかいないわ。事実を言っただけよ』
そうして彼女は平然と歩き去ろうとし、俺は必死にその背中へ食い下がった。追う男と追われる女。傍(はた)から見たら、俺の方が彼女に惚れ抜いているように映ったかもしれない。
これが、俺たちの始まりだった。
「何を考えてるの?」
隣に腰掛けた彼女がこちらを見上げる。それに軽く微笑みかけ、素直に今見ていた情景を伝えた。
「MEIKOと付き合い始めた時のことさ。今考えると懐かしいな」
「あの時は随分強引に迫っちゃったわよね。そういえば私、まだ返事をもらってないような気がするんだけど?」
そしてからかうように身体を寄せてくる彼女を、俺はベッドに押し倒した。赤銅色の短髪が白いシーツに広がり、シャンプーなのか香水なのか微かに甘い香りが鼻腔をくすぐる。あの日と同じ――彼女の香りだ。
「……これが返事なの?」
「……いや」
俺が腕を離し上から退くと、彼女は気を悪くした風もなくくすくすと笑い起き直った。
「何か、もうこの距離感に慣れちゃった。友達以上恋人未満って言うのかしら、こういうの」
「まあな。今更急いだってしょうがない」
「そうよね。もしどうにかなるのなら、自然とそうなるんだろうし――」
そこで彼女は不自然に言葉を切った。
「ねぇ……KAITO」
「ん?」
両腕を頭の下で組み寝転んだまま返事すると、しばし間が空いた後どこか真剣味を帯びた声が続いた。
「昨日の話……どう思う?」
「話って?」
「ほら、あの予言者だっていう……」
「ああ、あれか」
もう記憶から消し去られようとしていた一コマを思い出す。当初はあまりに異様でしばらく頭を離れないだろうと思っていたが、案外とすぐ忘れてしまえるものらしい。そのくせ本当に消去したい事柄はなかなか消えてくれないのだから、全く俺という人間は融通が利かないにもほどがある。
「信じるわけないだろ」
「あんたはそんな感じよね」
「MEIKOは信じてるのか?何か思い当たる節があったとか。そういえば、迷いがどうとか言ってたな、あの予言者」
俺はただ軽い気持ちで言葉を並べただけだった。しかし反応がなかったため起き上がると、予期せぬ深刻な横顔がそこにあり思わず息を呑んだ。
「そうよね……あれはただ適当なことを言って惑わしてるだけなのよね。気にすることなんてない、のよね」
「……本当に、何かあったのか?」
いつになくただならぬ様子に不安が募ってくる。彼女だって特別迷信深かったりするわけではないのだ。俺よりは多少興味があるという程度で、少なくとも占いの類で自分の芯を曲げることは一度もなかった。例え俺との相性を易者に“今世紀最悪”と言わしめようとも、自分が認めたくなければその眼前でキスまでやってのける。こんな豪胆さを持ち合わせた彼女に死角はない。何しろ普通の忠告すら聞かない人間なのだ。確証も何もあったものじゃない話に真面目に耳を傾けるとは到底考えられなかった。
それなのに、今は――
「ううん、何でもないの」
そうして彼女はベッドからすっと立ち上がり、俺へ落ち着いた眼差しを向けた。そのままにこりと綻ばせてみせた口元がどこかぎこちなく映ったのは、俺の気のせいと断じていいだろうか。
「何か、今日はそういう気分じゃなくなっちゃった。トレーニング室へはまた別の日に行きましょ」
「あ、ああ。それは構わないが――」
「それじゃあ。またね」
有無を差し挟む余地も与えず、きびきびと彼女は部屋を後にする。その背中を黙って見送るしか出来ない俺の胸の内には、何とも言い知れぬ嫌な予感が渦巻いていた。
夢の痕~siciliano 8-②
①の続きです。
なかなかお話が動きません。
次回も、何やかやありますが、物語自体が動くのはもう少し先になりそうです。
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