ルカ姉さんに叩かれた次の日。朝食の席で顔をあわせたルカ姉さんは、昨日のことなんて無かったかのように、平然としていた。わたしは話しかけようかと思ったけれど、止めた。これからルカ姉さんは会社、わたしは学校だ。朝の忙しい時間に、蜂の巣を突付くような真似はしたくない。お母さんもいるし。
いつものようにほとんど何も話さずに朝食を終えると、わたしは学校へ向かった。教室に入って自分の席に着いて、やっぱりいつもと同じように本を広げる。読んでいるのは引き続き、『荒涼館』だ。
「おはよう、巡音さん」
声をかけられた。鏡音君だ。わたしは本を置いて、そちらを向いた。
「おはよう、鏡音君」
「早速貸してくれた『ピグマリオン』を読んでみたんだけど、かなりいい感じだと思うんだ」
鏡音君はそんな話を始めた。上演する際の不都合は無いみたいなのね。良かった。
「じゃあ、『ピグマリオン』にするの?」
「俺としてはこれを推すつもり。まあ、他のみんなが嫌がったら無理だけど、でも、多分大丈夫だと思う」
最終決定は演劇部の会議で決めるのね。駄目だった時の為に、他の候補作も探しておいた方がいいかな。
「あの……ところで巡音さん、『ピグマリオン』って、映画と結末が違うんだね」
「ええ」
鏡音君に言われたので、わたしは頷いた。映画『マイ・フェア・レイディ』では、イライザはヒギンズ教授の許に戻ってくる。でも、原作の『ピグマリオン』では、イライザは帰ってこない。確かイライザは最終的には、フレディと結婚することになるのよね。
「それ……どう思った?」
「どちらの結末がいいかということ?」
鏡音君が頷いたので、わたしは考えてみた。でも、よくわからない。確か、作者であるショーも、この作品の結末では悩んだとか、何かに書いてなかったかしら……。
「あの……鏡音君。鏡音君は、今日は時間、空いてるの?」
もしかしたら複雑な話になるかもしれないし、朝のせわしない時間で話が収まるとは思えない。この前みたいに、放課後に話をした方がいいと思う。
「大丈夫だよ」
「じゃあ……放課後に話してもいいかしら? 少し時間をかけて考えをまとめたいの」
休み時間とか、少しずつ考えていけば、放課後には多少は考えがまとまっているんじゃないかな……。
「いいよ」
鏡音君がそう言ってくれたので、わたしはほっとした。帰宅が遅れる理由……また、ミクちゃんにお願いするしかないかな。ごめんね、ミクちゃん。
放課後になった。わたしは自宅と運転手さんに帰宅が遅れる旨をメールしておいた。ミクちゃんはこの前と同じように、わたしの頼みを快諾してくれた。もっとも今回は、何をするのかは説明しておいた。
「リンちゃん、楽しんでね」
そう言って、ミクちゃんは帰っていった。わたしたち、劇の内容の話をするんだけど……。
「巡音さん、考えはまとまった?」
ミクちゃんが帰って行ったのと入れ違いに、鏡音君がわたしのところに来て、そう訊いてきた。えーと、今日一日考えては見たのだけれど……。
「ごめんなさい。考えてみたけれど、よくわからないの……」
どちらの結末がこの話にふさわしいのかなんて。わたしみたいな女子高生が、ノーベル賞作家の発想を理解しようとすることが間違いなのかも。
「イライザは貧しい花売り娘で、お母さんはもう死んじゃっていて、お父さんは機嫌が悪いとイライザを叩くような人で、夢や希望とは縁のない人生を送っていたのよね。……だから、イライザは幸せになりたいんだとは思うんだけれど」
わたしは目を閉じて、イライザの気持ちを考えてみた。ロンドンの下町生まれで貧乏暮らし。小さい頃から頼れる人はいなくて、何もかも自分でやろうとしてきた。必死で花を売っても稼げるお金は少しだけで、一生、このまま……。
なんだか……シンデレラみたい。この前ミクちゃんがシンデレラの話をしたせいかな。灰にまみれたシンデレラ。泥にまみれたイライザ。シンデレラは綺麗なドレスを着て、舞踏会で踊った。イライザも綺麗なドレスを着て、大使館のパーティーで踊ったのよね。その前に、ヒギンズ教授から話し方を仕込まれるわけだけど……。
イライザの人生には、綺麗なものなんて何もなかった。売っているお花ぐらいだけど、あれは簡単に泥にまみれてしまう。綺麗なものが欲しかったんだ。綺麗に……なりたかったんだ。
「イライザは綺麗になって、幸せになりたかったのよ。そういうものが何一つ無い人生だったから。泥にまみれたりしない幸せがほしかったの」
「どんな格好していても、綺麗な人はもともと綺麗なものじゃない?」
鏡音君はそう訊いてきた。男の人にはわからないのかな。綺麗なものを身に着けると、気分はずっと華やぐものなの。
「女の子にとっては違うのよ。ドレスを着るのとぼろを着るのでは、全然。それに、その場所にふさわしい服装って、あるじゃない? 華やかなパーティー会場に、ぼろを着て入るわけにはいかないわ。一度くらい綺麗なドレスを着て、飾り立てられたパーティー会場で、多くの人たちの視線を集めてみたい……イライザがそう夢見てしまったとしても、それは無理のないことだと思うの」
イライザだけじゃないわよね……。だって華やかな舞踏会のシーンがある物語って、たくさんあるもの。やっぱり一度は夢見るものなんだと思う。
「巡音さんもドレス着てみたいとか思うわけ? あ、でも、巡音さんだったら、ドレス着てパーティーに出たことぐらいあるよね?」
鏡音君はそう訊いてきた。わたしは高校生だから、会場を借り切ってやるような大掛かりなパーティーにはまだ出たことがない。でも、家でやるホームパーティー――といっても、会社に関係する人がたくさん来るのだけど――になら、出たことがある。
「自宅で催されるものになら……わたし、まだ高校生だから、外の会場のには出たことがなくって」
でも本当のことを言うと、わたしは、パーティーに出るのは苦手だ。お父さんとお母さんの後ろで、ずっと笑顔を作って挨拶をしなくてはならないのだもの。何か粗相でもしようものなら、後で長いお説教が待ってるし。
「パーティー、嫌いなの?」
「……あんまり好きじゃないの。おとぎ話に出てくるような、楽しいパーティーじゃないから。お客さんもお父さんの会社関係の人ばかりだし」
パーティーの間じゅうずっと、ミスをしないように、お父さんを怒らせないように、そればかり考えているから、終わった後はいつもぐったり疲れてしまう。
「イライザの気持ちに関してはわかったけど……結末に関しては?」
あ、そうだった。もともとはどちらの結末がふさわしいのかという話よね。
「この作品を『シンデレラストーリー』として考えると、イライザが結ばれるべき相手はヒギンズ教授じゃないんじゃないかしら」
ヒギンズ教授はイライザをお姫様にしてくれる人だ。男性だから……『チェネレントラ』のアリドーロが一番近いのかな? 設定ではあの人、おじいさんよね。わたしが見た舞台では、ずいぶん若い人が役をやっていたけど。
「つまり……フレディと結ばれるべきだと?」
「ええ」
フレディはパーティーで出会ったわけではないけれど、綺麗になったイライザを見て一目惚れするのだから、多分、王子様に近いのだろう。
「なんで?」
「え?」
鏡音君が強い調子でそう訊いてきたので、わたしは驚いてしまった。……どうしたんだろう? こんな声滅多に出さないのに。わたし、何か怒らせるようなこと言った?
少し混乱してしまったけれど、わたしは必死で考えをまとめようとした。
「だって、ヒギンズ教授はドレスを着せてくれる人でしょう? シンデレラにドレスをくれたのは、お母さん代わりの妖精か、死んだお母さんの魂だわ。……だから、教授は彼女の保護者だと思うの。年齢だって離れてるし……」
お父さんの代わり……なのかも。イライザのお父さんは、イライザのことをどうとも思っていないし。
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目白皐月
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