「初めまして、マスター。わたしの名前は初音ミクです」
 その瞬間に歴史が変わったのだと、後々になって人間たちは言ったらしい。
 わたしの名前は初音ミク。超絶話題沸騰中。泣く子も黙る電子の歌姫とはわたしのこと。
 なんてね。
 本当のところは、歴史がどうなるかなんて関係ない。生まれた瞬間に見えたこの世の景色は、待ちくたびれて飲んだくれるお姉ちゃんと、待ちすぎたせいで泣いて喜ぶお兄ちゃんとの思い出で埋め尽くされている、ただそれだけなんです。
「ミク、そこはそうじゃない。もう少しソフトに歌えないか」
 カチカチと、マスターがパソコンをいじりながら指示を飛ばす。朝から45テイク目にもなるのに、まだ納得がいかないみたい。歌うことに関しては疲れ知らずのわたしだったけど、さすがにもう何をどう歌っていいのかわからなくなってきた。ソフトってなに。ソフトソフトソフトソフト……ドラクエ?
「マスター……」
 思い余ってその場にしゃがみ込むと、マスターは手を止めて深いため息を吐いた。うぅ……わかってるけど、わかってるけど。わたしには、お姉ちゃんやお兄ちゃんほど辛抱強く何かに取り組むってことができない。
「まぁ、俺もちょっとドツボに嵌ってわかんなくなってきたしな。今日は終いにするか」
 やった! マスター大好き! あぁ、これからどうしようかな、近くのデパートまだやってたっけ、欲しい新作ブーツがあったんだよね、実はお洋服も欲しい、でも早く帰って今日のことみんなに話したいなぁ、あ、お夕飯なんだろ? 久々にホカホカごはんが食べられるなぁ。今日テレビ何かあったっけ? 今期のドラマは何がやってるのかチェックしてないなぁ、あの俳優さんなんか出てるかな? とか。思考が楽しい方向に巡り巡ったのもほんのつかの間。我がご主人様は手元にあった自分の手帳を見てから、またすぐに渋い顔をする。
「とはいってもなぁ。おまえ明日どっかでPV撮りだったろ? 明後日は新曲のジャケ写と雑誌のインタビュー撮り、んでそのあとは……あ、俺が打ち合わせだわ。やっぱやめるのなし」
「えぇー! まぁすぅたぁー! 今の聞いて、もうわたしのHPゼロになっちゃったんですけどぉー……」
「ちょっと休憩取ってやるから。もう少し頑張れ」
 ううう。今日は、今日こそはおうちでお姉ちゃんたちと一緒にご飯食べられると思ったのに。なんだよなんだよ、自分は自宅でやってるからってさ。あ、ほら、奥さんがお夕飯も持ってきてくれてるじゃん! わたしはどうせスタジオの近所でファミレスですよー! オニー! アクマー! ……なんて、口に出しては言えませんけど。
「んじゃ、一時間後にまた呼ぶからな」
 奥さんの持ってきたお夕飯に鼻をひくつかせながら、マスターはわたしをログアウトさせた。くそ、新婚め。見せつけやがってー!
 完全に荒んだ気持ちをもてあまし、わたしはスタジオの重い扉を開けた。
 受付にいた守衛さんに挨拶して外へ出た途端に、生ぬるい空気がわたしの肌にまとわりついてくる。夏はとっくに終わりを迎えているはずなのに、まだまだ暑いし日暮れも遅い。もうすぐ夜の7時になる今になってようやく、お日様も帰る気になったみたいだ。まったく、人間の世界と同じ季節、同じ天気に設定したのはどこのどいつなのよ。
「わたしも帰りたーい……」
 なんて呟いてみたところで、それを拾ってくれる人などどこにもいやしない。孤高の歌姫なのです。
でも、やっぱりレコーディングは終わらせなきゃいけないよねぇ。マスターの言うとおり、明日のPVはちょっと大がかりだからまるまる一日かかるっていうし、明後日も忙しい。かと言ってマスターが納得いかないところで終わらせるのは、この初音ミク、VOCALOIDの名に懸けても絶対に避けたい。ってことは、今録音している音源の納期は5日後だから、ミックス作業も入れるとどう考えても今日終わるのが一番いいんだよね。
 わたしはうじうじ考えることを諦めて、ポケットから携帯を取り出した。おうちに連絡しなきゃ。今日も遅くなりそうですって。
「ミク!」
 発信ボタンを押す直前のところで、わたしは大きな声に呼ばれて顔を上げた。信号の向こうから、今まさに電話をかけようとしていた相手が両手をぶんぶん振りながら向かってくるところだった。あぁ、なんてベストタイミングなの!
「お兄ちゃん!」
 もう、わたしってば年甲斐もなく嬉しくなっちゃって。お兄ちゃんに駆け寄ると思いっきり抱きついた。もちろん、帰れない腹いせやら何やら全部込めて力いっぱいね。
「うぉっ! ちょっ……!」
 まさかこんなに勢いよく飛んでくるとは思っていなかったのか、お兄ちゃんはわたしを受け止めきれずに少しだけよろめいた。それでも、前に同じことをしたときは盛大にひっくり返ってたから、少しは勉強したのかしら。
「おにいちゃぁあん」
「なんだ、ミク。やっぱりまた帰れないの?」
「やっぱりなんてひどーいー!」
 疲れている可愛い妹に向かって、そんな追い打ちをかけるようなこと言わないでほしいものだわ。まったく、そういうところデリカシーがないってお姉ちゃんにいつも叱られるんじゃない。
「ごめんごめん。最近、頑張ってるみたいだからさ。今日も納得がいくまで続けるのかなって」
 わたしを引き剥がしながらお兄ちゃんは少し面目なさそうな顔をする。本当にわかってくれてる? 乙女心は傷つきやすいんだから。
「だから、持ってきたんだよ」
 なんて言って、お詫びのようにお兄ちゃんが掲げた右手には赤いお弁当包み。こ、これは!
「お姉ちゃんのごはん!?」
「そう。めーちゃんが腕によりをかけたネギ味噌ハンバーグだよ。僕の分も持ってきたから、中で一緒に食べよう?」
「きゃー! お兄ちゃん素敵すぎ!」
 前言撤回。この人はなんて気が利く男の人なんでしょう。私の考えてることの一つ一つがもしかしてわかってしまうんじゃないでしょうか? だとしたら間違いなく、世界一のお兄ちゃんだわ!
「やった! もう、おなかペコペコだったんだ! 早く食べよう!」
 さっき出てきたばかりだった建物のドアを開け、スタジオじゃなくて休憩室の方に向かった。この空間は、わたしが生まれたころにマスターの奥さん(その時はまだ彼女さんだったのだけれど)が作ってくれた場所だった。みんな一緒にレコーディングするのに直しだけバラバラの時が続いて、ちょっと休憩する場所があってもいい、なんて言ってくれたのよね。一つしかなかったスタジオも、マスターのとこと奥さんのとこと、あとゲスト用に、といつの間にか3つに増えていたし。ほかにも、守衛室やら受付やら事務所やら、この空間は私が来てから今までの短い間にすごく大きな建物になっていた。それだけ、私たちの存在が大きくなってるってことだって、お姉ちゃんがいつか言っていたっけ。どこかしら緊張感まで浮かばせていたその表情を、わたしはきっと一生忘れない。VOCALOIDの成長を生で見続けているお姉ちゃんの覚悟は、きっとわたしが進むべき道を自然と示しているって信じてるから。
「ほういえば」
 あまりにも待ちきれなくてお弁当のダシ巻き玉子をつまみ食いしながら、わたしは自販機で冷たいお茶を買っているお兄ちゃんの背中に向かって聞いてみた。
「わたしが来る前の世界もこんな感じだったの?」
「え? あ、ミク! つまみ食いなんてずるい!」
 慌てて戻ってこようとしたのか、おっちょこちょいは途中で蹴躓いてお茶を落としそうになってる。こういうところは、本当にわたしそっくりでイヤになっちゃうのよね。わたしとお兄ちゃんは別のエンジンを積んでいるし、兄妹ったって人間みたく血が繋がっているわけじゃないのに、どうしてこんなに似ちゃうのかしら。
「もーう、なにやってるのよ。お兄ちゃんってば」
「ごめんごめん。さ、食べよう」
 何とか死守してくれたお茶を受け取って、うきうきと本格的にお弁当を広げる。あたりいっぱいに広がったネギの香りを堪能してから、わたしはハンバーグを口いっぱいに頬張った。ネギと肉汁とお味噌の絶妙なハーモニーが体中に染みわたるようでなんとも言えない。まだちょっとあったかいってことは、きっと焼いてすぐに持って来てくれたんだよね。お姉ちゃんの作るハンバーグって、なんでこんなにおいしいんだろう。いろんなところでいろんなハンバーグを食べてきたし、いろんなレシピも試してみたけれど、これに勝るものをいまだかつて見たことがない。もしも明日世界が終わるとしたら、絶対に最後の晩餐にこれを選ぶって決めてるんだ。はぁ、本当においしい。幸せってネギ味噌ハンバーグの形をしてるんじゃないかなぁ。
「そういえば、明日のPV撮影はめーちゃんと一緒なんだって?」
 口をモグモグさせながら、向かいの席でお兄ちゃんが聞いてきた。もういい大人なはずなのに、まるでリスみたいに頬を膨らませてるのがなんだかかわいい。
「そうだよ。お兄ちゃんはお留守番だね」
「ちぇー、いいないいなぁ」
「こないだ一緒に撮ったじゃん」
「えーだってあれ僕、ただアイス食べてただけだよ」
「食べ過ぎてお腹壊した甲斐あって、お姉さん方からの人気が急上昇してたよね」
「うん、あれはよか……じゃなくてさぁ!」
 ニヤニヤ顔を無理矢理引き締めながらもハンバーグをつつく手を休めようとしないお兄ちゃんを笑いつつ、わたしは思い立ってちょっと急ぎ始めた。いけない、マスターに呼ばれる前に少しでも「ソフト」を習得しておかないと。
「お兄ちゃん、食べ終わったら練習付き合ってくれる?」
「もちろん。めーちゃんの晩酌まではまだ時間あるしね」
 少しも言い淀むことなくにっこり笑って、お兄ちゃんのお箸も進みが少し早くなる。優しいなあ。こんな兄を持って、ミクは幸せ者です。
 正直なところ、お兄ちゃんの仕事量はわたしのそれよりもだいぶ少ない。おかげで家事がいっぱいできるからいいんだなんて笑ってるけど、実は裏ですっごい練習してることをわたしは知ってる。「初音ミク」の歌をお兄ちゃんがキーを変えて歌うと、まるで人間が歌ってるみたいに全然違う歌になっちゃうのよね。本当はわたしなんて足元にも及ばない。だから、何かっていうとお兄ちゃんに練習を見てもらうことにしてるんだけど、早くマスターたちもそのことに気付けばいいのに。……でも、忙しくなってわたしのこと構ってくれなくなっちゃうのはすっごく嫌だな。心の底で思ってることを言ってしまえば、わたしはお兄ちゃんのことを独り占めしたい。ずっとずっと、わたしだけのことを見ていてくれればいいのに。そしてそのためだったら、わたしはどんなことだって喜んで引き受けようと思ってる。
「ミク、早く終わって帰れるといいね」
 頭の中がちょっと顔に出ちゃってたのかなぁ。何かに気づいたお兄ちゃんだったんだけど、まるで見当違いなことを言ってる。まぁ、そのあたりがお兄ちゃんのお兄ちゃんたるゆえんというかなんというか。
「ほんとだよぉ」
 なんて適当に合わせながら、わたしは心の底の薄暗い影にフタをした。ミクがみんなのミクであるように、KAITOもみんなのKAITOだものね。
 っていうかこの人、わたしのお夕飯に加えてお姉ちゃんの晩酌にまで付き合うの。タフな人だねぇ。
 あれ?
 そういえば、なんかお兄ちゃんに聞いてたことなかったっけ?
 ……思い出せない。
 まぁ、いっか。

ライセンス

  • 非営利目的に限ります
  • この作品を改変しないで下さい

【初音ミク】この世界のはじまりは1

閲覧数:243

投稿日:2012/07/21 00:55:31

文字数:4,701文字

カテゴリ:小説

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