待ち望んでいた春が来た。
まろく柔らかくなった風は何処か甘く、陽射しは愛しく頬を撫でるようで、訳も無く胸が弾む。
「ご機嫌ですね、マスター」
隣を歩くカイトが、嬉しげに目を細める。それでまた歓びが湧き上がって、絡めた指にきゅっと小さく力を籠めた。
「わぁ。良い具合に咲いてるね。満開にはちょっと早いかな?」
路地を抜けて河川敷に出ると、淡く色付いた樹々が立ち並んでいた。
「ふわぁ……何だか凄い光景ですね。向こう岸も全部、ずっと先までピンク色です」
「今日はこのまま、川沿いに歩いていってみようか。初めての道、何か素敵な発見があるかも♪」
「発見、ですか?」
「可愛い雑貨屋さんとか、美味しいレストランとか、お昼寝中のにゃんこさんとか」
「そういうのがマスター的に『素敵』なんですね」
「可愛いは正義ですよ! 美味しいも正義だよねっ」
「成程……?」
カイトは解ったような解らないような顔で、頷くのと首を傾げるのとの中間みたいな仕草を見せる。それにくすくす笑いながら、桜並木の下をのんびりと歩いていった。
立ち並ぶ桜の花弁が、はらり、はらりと舞い散っていた。どうしようもなく気持ちが浮き立って堪らず、笑みを刷く唇は、いつしか小さなメロディを口ずさむ。
「あぁ、マスター、言ってた通りですね。ほんとに歌いたくなっちゃいます」
「ね。うきうきして、何だか解らないけど嬉しくなっちゃって」
「不思議です。それに、桜も……こんなに綺麗に咲いてて、まだ満開じゃなくて、なのにもう散っていっちゃうんですか?」
「咲く端から散っていくんだよねぇ。そこが醍醐味だけど」
言いながら、風に踊る花弁を一枚、そっと差し出した手に受ける。
「ほら、こうして祝福みたいに。優しい雨みたいに、歌みたいに、キスみたいに」
てのひらの花弁を緩く握り込んで微笑むと、突如ぐっと強く腕を引かれた。
「わ!? ……カイト?」
唐突な挙動に驚いて見上げた顔は、つい一瞬前までとはうって変わって不機嫌で。お馴染みのコートの胸に抱き寄せられて、まるで何かから庇うかのように頭まで抱き込まれてしまう。
「……駄目です」
「え? えっと、何が、駄目?」
「……マスターに、歌うのも、キスするのも。俺だけなんだから、駄目です」
「――っ、ははっ、あはははっ!!」
あまりと言えばあまりの言葉に、一呼吸の間を置いて溢れたのは爆笑だった。途端に回されたカイトの腕が、縋るように力を籠める。
「マスター……僕は本気ですよ……? 可笑しい事、ですか……?」
耳元を這う、普段より幾分低い声が揺れる。あぁ、不安にさせてる――思うと罪悪感が湧くけれど、込み上げる笑いはすぐには収まってくれなくて、私も彼を抱き返した。
「――はぁ……あぁ、ごめんねカイト。可笑しかったんじゃないよ、嬉しかったの」
「嬉、しい……?」
「そう、嬉しいの。春は、桜の下は、いつもうきうきして幸せで。だけど今年はそれだけじゃなくて、こんなに気持ちの良いお天気で、煙るように桜が咲いて、――そんな春の日を、大好きなひとと手を繋いで歩いて」
「マス、ター……」
「あぁ、ねぇ、ほんとにどうしようもなく幸せだわ。どうしよう?」
温かな胸に身を寄せたまま、顔を上げて視線を向ける。愛しい蒼はゆるゆると和らいで、偽り無い思いと伝わったのが解った。
「……どうしましょうか。キスしましょうか?」
僅かに苦笑の色が混じる微笑みを浮かべて、カイトが囁く。そうして返事も待たずに落とされる唇は優しく柔らかく、小鳥の囀りのようで、やはり春に舞う桜のようで。
「……うん。今日は、特別ね。春だから」
閉じた瞼にキスを受けつつ、遅ればせながらの答えを返した。いつもだったら、外でこういう事はしないけど。人影も無いし、春に浮かれて幸せだし、だからまぁいいだろう――ってことにしちゃおう。
「ねぇ、カイト。来年も、その先も、ずっと。またこうして歩こうね」
「はい、マスター。ずっと、ずっと」
祝福舞う桜霞の路を、君と往く。来年もその先もずっと、幸福な未来へ。
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ゆるりー
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