俺と彼女は付き合っていない。
成人式後、高校時代のクラスメイトとの同窓会で再会した彼女は、偶々目が合った俺に話しかけた。
彼女は俺に問うた。恋人はいるのか、仕事は楽しいのか。よくあるやり取りだ。
別に隠すこともないから、「一人で繰り返す無色の日常は退屈だ」と返した。
特に親しい仲でもなかったからか、彼女も深くは聞かなかった。
酒が入って早々に羽目を外す者もいたが、俺は成人を迎えて一月ほどのため、不慣れな酒はあまり飲まなかった。
僅かに酔ってこぼす愚痴の中に、聞かれてまずいものもなかった。
解散したのは九時半ごろで、二次会に行こうと盛り上がっている者もいた。
今も付き合いを続けている友人はあまりいない。巻き込まれないうちに帰ろうとした時、腕を引かれた。
振り向いた先にいたのは、先ほど俺に話しかけてきた、金髪の彼女。
何事かと首を傾げる俺の耳に届いたのは、周囲の喧騒に掻き消されそうな、甘い彼女の囁きだった。
「愛なんていらないから、私の心の隙間を埋めて」
くだらない、自分にはメリットがないと跳ね除けるのは簡単だった。
だけどその時の俺は、それもいいかと思うほどには、彼女に気を許していて。
翌日が祝日なのを言い訳にして、一晩を共に過ごした。
その日限りと思っていた俺の腕を掴まえて、彼女は言った。
「本当に時々でいいから、会えないかな」
「君が良ければ、週一でもいいくらいですよ」
共に食事をするわけでもなく、どこかへデートに出かけることもなく。
週末の内一晩を朝まで過ごして、互いに都合の良い存在であり続けた。
時々、仕事上がりの彼女と電車で会うことがある。どうやら通勤に使う路線が一緒らしい。
普段から普通の関係の会話をしていないから自然と無言になる。
だけどそれも気まずく、ひねり出した話題は世間話。
まだ、同窓会で再会した時のほうが自然な会話ができていた気がする。
電車を降りて彼女と別れた後、すぐにスマホの通知が鳴る。
メッセージアプリのトークルームで、『明日はどっちの家にする?』と彼女から送られていた。
顔を合わせないほうが会話が進むのもどうなのか。歪な関係を正すなんて選択肢は思いつかないまま、返事を打ち込んで送信ボタンを押した。
「昨日はびっくりしちゃった。あんなところで会うなんて思わなかったから」
「俺も驚きましたよ。もしかしたら、朝も同じ車両だったりするんじゃないですか」
互いの温度を重ね合う合間に交わされる会話に色気の欠片はない。元々、愛を囁き合う関係ではないから、それは俺たちには日常風景だった。
「ねえ、今度会ったら何を話す?」
「次電車で会った時の話題ですか。そんな面倒なことを考えるの、世界に俺たち二人しかいないんじゃないんですか」
「はは、違いないね。でもほら、気まずいじゃん。普段こんなことしかしてないんだから」
「まあ、言葉で伝えるのは下手くそですよね、お互い」
「そうそう。だから練習するの。今日みたいに、天気がいいですねは電車内で言うことじゃないからね」
「それは俺が悪かったですって」
話題なんて。思えば、彼女とは会話らしい会話はしてないんじゃないだろうか。
少なくとも、彼女自身のことは何も知らないくらいには。
「じゃあ、好きな食べ物はなんですか」
「チーズケーキかな、って自己紹介後の会話選びか」
「仕方ないでしょう。そういう君は?」
「えー?趣味はなんですか、とか」
「映画鑑賞ですね。俺のこと笑えませんよ」
「本当だ。ディスってごめん」
「わかればいいんです」
「笑っちゃうね。慣れないことはするものじゃないや」
「本当ですね。さっきのはまるで……」
まるで、お見合いみたいですね。
そう言いかけたところで、頭を振って馬鹿な考えを払う。
お見合いなんて。そんな綺麗な言葉が似合う関係を築いたわけじゃないだろう。
「まるで、何?」
「いや、合コンみたいですねって」
「そうだね。行ったことないけど」
「まあ俺も行ったことないんですけど」
普段しないことを意識すると、余計なことを考えてしまうのだろうか。
ふつうに笑って、隣を歩いて、また明日ねと手を振って。
そんな光は、望んではいけない。
別の日。その日は金曜日、残業中にスマホの通知を示すバイブレーションが鳴る。
この時間にメッセージを寄越すのは彼女だ。休憩の時に見ようか、と思ったのも束の間。未だ振動を続けるスマホを手に取って俺は廊下へ出る。
誰にも聞かれないよう、社外へ歩きながらその通話に出た。
「種崎?」
『急にごめん。仕事中だった?』
「いえ、別に構いませんよ。どうしました?」
文字列だけの連絡が主だった彼女とのやり取りで、通話はこれが初めてだ。
よっぽどの理由があるのだろう。
『会いたくなったの』
初めて聞く機械越しの彼女の声は、震えていた。
『お願い、氷山』
急用ができたので帰ります、と帰りの挨拶もそこそこに会社を出て、電車に揺られながらいつもの待ち合わせ場所へ急ぐ。
飲屋街を抜けて、駅から一番近い公園。そのベンチの傍らで、彼女は腰掛けずに立ち尽くしていた。
「ひやま?」
十一月半ばに差し掛かり、日が沈むと一気に気温が下がる。いったいいつからここで待っていたんだろう。
「ここは冷えます。すぐに帰りましょう」
「帰っちゃダメなの」
ここから近いのは彼女の家だ。いつもならこのまま事前に決めた場所に行くのだが、今日は彼女がそれを止めた。
「今すぐ、私を連れ去って」
俺の胸元に縋り付くその目元が、赤かった。
初めて過ごした夜と同じホテルで、部屋のドアを閉めるや否や、彼女が俺にしがみついて離れない。
「今すぐ抱いて」
「それは聞けません」
「どうして」
「自分がどんなに震えているか、わかっていますか」
でも、と渋る彼女の頭を撫でる。
「ほら、まずは温まってきてください」
テレビ画面から注文したオムライスとホットコーヒーが出揃う頃に彼女は浴室から出てきた。
「なに、その組み合わせ」
「温かい飲み物、コーヒーしかなかったんです」
「ココアがあれば最強だったんじゃない」
「コンビニに行かないとないです」
少し落ち着いたらしい様子を見て、ちょっと安心した。
ご飯を食べながら、彼女は一つずつ俺に話した。
元彼がいたこと。諦めさせるために俺を誘ったこと。それでも、元彼の執着心が想像以上に強く、ストーカーとなっていったこと。
「ここ一ヶ月は特に酷かったんだ。無言電話が多くなって、変な手紙でポストが埋まって。それで今日、初めてスマホに留守電が入ってたの。『今夜行くから』って……それで家に帰るのが怖くなって、氷山を呼び出した」
定期的に俺に会いたがったこと。愛なんていらないからと言ったこと。
彼女の話を聞いて、ようやく腑に落ちた。
要は、新しい恋人がいるように見せかけたかったのだ。
「自業自得だって恨んでもいい。巻き込んで、利用した報いを受けるべきだってわかってる。……ほんとは氷山を頼っちゃダメなのに、氷山しか信用できないの」
また溢れ出した彼女の涙を、一つ一つ拭っていく。
「あのね、俺は別に、君が傷つくべきだなんて思ってないですよ」
「でも、」
「俺をとことん利用するべきですよ。でも、それは君を傷つけるためじゃなくて、君自身を救うために」
俺を見上げる瑠璃色の瞳。正面から彼女を見たのは、これが初めてかもしれないと思った。
「明日、もし一日時間が空いているのなら、君がしたいことをしませんか」
「したいこと?」
「普通の恋人がするようなことでも、羽目を外してどこかへ出かけるのでもいい。俺に違う誰かの面影を重ねても、俺は咎めません。どうですか」
「そんなの、あまりにも私に都合が良すぎる」
「勿論。君のしたいように、俺を使えばいい」
泣き疲れた彼女を起こさぬよう、ソファーで寝ようと離れようとしたら、ひやま、と微睡みの中で彼女が呟いた。
「大丈夫、すぐに戻りますよ」
うん、と返す彼女は、果たしてこの会話を覚えていられるのだろうか。
シャワーを浴び、服を着替えてベッドに戻る。
その日は初めて、彼女の頭を撫でながら眠った。
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