第九章 01
あれから、三週間が経過した。
とある民家の屋根の上で、焔姫と男は星の輝く夜空を静かに見上げていた。
二人の顔からは憔悴の色が見え隠れしている。近衛兵たちを避けて民家を渡り歩く生活が、二人の神経をすり減らしているのだ。
「……静かな夜じゃな」
「ああ」
「あと数刻後には王宮に攻め込んでおるとは、とても思えん」
「……確かに、そうだな」
あのあとまもなく、二人は元近衛隊長の反抗勢力に加わる事を伝えた。
元近衛隊長は反抗勢力の皆が捕まらないようあらゆる手を使い、男もまた焔姫の安全に細心の注意を払い続けた。
この三週間は、焔姫の治癒のために設けられた期間といってよかった。焔姫の治癒と、民への弾圧、そして自分たちがいつまで逃げ切れるか、という現状を鑑みた上での妥協点が、この三週間という期間だったのである。
もちろん、たった三週間程度で焔姫の背中の傷が完治するはずもない。それでも、一応ではあるが傷はふさがったし、焔姫も普段の生活には支障がない程度には動けるようになっていた。だが、剣を振るったり走ったりしようものなら、傷口は簡単に開いてしまうだろう。
男にしてみれば、最低でもあと二週間は期間を開けてほしいと思っていた。ほとんど毎日のように各種薬草を混ぜた軟膏を焔姫の背中の傷に塗り、間近でその傷の具合を見ている男には、時期尚早だとしか思えない。
だが、それでも時期を延ばさなかったのは、ひとえに焔姫自身の意志があればこそだ。
「……これ以上は待っていられん。これ以上、民が殺されていくのを黙って見ているなど、余には耐えられぬ」
焔姫の悲痛な言葉に、男は反論など出来なかった。
民への弾圧は、日に日に残虐さを増している。連日、多くの者が賊に過ぎなかった新しい近衛兵たちに殺されていた。
彼らの行いは、お世辞にも職務に熱心とは言い難かった。好き勝手に蛮行の限りを尽くしていると表現して、おおむね間違いはない。
ささいな事で民に因縁をつけては反逆の罪に問い、王宮前広場まで引きずり回し、何の弁明の機会もないまま粛清などと称して死刑に処す。そんな事は日常茶飯事だった。「焔姫」という言葉が彼らの耳に入っただけで、死刑がまぬがれない有り様なのである。彼らにほんの少しでも抵抗した者は、一様に死刑に処された。
街は彼らの遊び場と化し、王宮前広場は処刑場と化した。
広場のすみには、処刑された者たちの遺骸が次々と打ち捨てられた。新たな近衛兵たちがその遺骸を片付けるはずもなく、ただただうず高く積み上げられた遺骸は、一週間とたたずにおぞましい山となっていた。その腐臭は広場だけにとどまらず、街のどこにいても臭いがただよってきている。
王宮前広場に近寄る者はいなくなった。元宰相と元貴族ですら、当初行っていた訓示を早々にやめ、王宮からは出てこなくなっている。彼らもまた、近衛兵たちの蛮行を黙認したまま、是正しようという様子は皆無だった。
王宮に引きこもった元宰相と元貴族は、もしかすると街の悲惨な現状さえ知らないのではないかと、男にはそう思えてならない。
処刑された民の数は、街全体の一割五分にも及ぶ。
その中には、元近衛隊長の下に集まった反抗勢力に属していた者たちも、少なからず含まれている。
だが、これほどまでに弾圧や近衛兵の横暴があっても、焔姫の生存は王宮側に露見しなかった。
焔姫と男は、弾圧の始まりにともない、民から王宮への密告は避けられないだろうと考えていた。いくら民が焔姫を慕ってくれていようとも、自らの命と引き換えには出来ないと思っていたからだ。
にもかかわらず、誰一人として焔姫の所在を漏らす者は現れなかった。むしろ、処刑される者が増えれば増えるほど、焔姫を中心として民の結束は強まっていったのだ。
それはもちろん焔姫にとっていい事だった。だが、それと同時に悪い事でもあった。
民から焔姫に対する凄まじいまでの信頼のおかげて、焔姫はここまで生き延びている。だが、その信頼はそのまま大きなプレッシャーとして焔姫に返ってきているのだ。
自らの心を守る強固な殻が健在だった頃の焔姫であれば、自らがプレッシャーに押しつぶされそうになっている事などおくびにも出さず、激烈な人物を演じきれていたのかもしれない。しかし、その殻がくだけてしまった今、そのプレッシャーは重い負担となって焔姫にのしかかっていた。
そばに男がいなければ、焔姫は元宰相たちに相対するという決意もゆらいでいたかもしれない。
「余は、ここにいて良かったのじゃろうか……。余がいなければ、民がここまで弾圧され、殺される事もなかったのかも知れぬ……」
抱えていた不安を吐露する焔姫。遠い星々を見上げる彼女の瞳には、恐怖が浮かんでいた。
「では、もう止めてしまうか? この国の事など忘れ、知らなかった振りをして、他の国へと逃れて……。そして、私がしていたようなその日暮らしを?」
当初はやはりためらいを見せていた男の口調も、この期間のうちにごく自然なものとなっていた。
「そんなつもりは……」
そう言いかけ、しかし焔姫はそのまま口をつぐんでしまう。
「国王が崩御された今、この国の本来の王は貴女だ。しかし、メイコが王としての勤めを放棄したいと言うのなら……私には、否定など出来ないよ。今までも、私たちには分かりはしない多くの重圧があっただろう。つらく苦しい毎日だったかもしれない。その苦労を知らない私には、この国を救うために是が非でも尽力してくれなどとは、口が裂けても言えない」
「……」
「……だから、メイコが耐えられないのなら、逃げ出してしまった方がいい」
「カイト……」
男がそんな事を言い出すとは思いもよらなかったのか、焔姫は驚いて男の顔をのぞき込む。
「……何もかもすべてを投げ出してしまえば、楽になるのじゃろうか」
男の意見に覚悟がゆらいだのか、焔姫はそうつぶやく。
「……どうだろうな。そうは言ったものの……メイコは責任感が強すぎる。いざ逃げ出してしまえば、おそらく、貴女は逃げ出してしまった自分を一生恨み続けるだろう。自らを恨み、自らの所業をくやみ続ける人生が幸せだとも……思えない」
夜空をあおいだままの男の言葉に、焔姫は苦笑した。
肩を寄せ、焔姫は首をかたむけて男の肩に頭をあずける。
「なれは、余の事をよく分かっておるの」
「ずっとそばで……見てきたからな」
焔姫が顔を赤くしてうつむく。が、その様子に男はまったく気づかなかった。
「……だけど、今までみたいに無理をし続ける必要はない、と思うよ」
「……?」
男の真意がつかめず、焔姫は男の横顔を見上げる。
「今逃げ出せば、メイコは自分を責めるだろう。だけど、この国を救ってからなら楽をしたっていいと思わないか? サリフ殿とハリド公を討ち、以前の国を取り戻した後でなら、今まで頑張り続けてきた“焔姫”を責める者などいないだろう。そう……メイコが、自分自身を責める事だって」
「カイト、なれは……」
……そこまで余の事を考えてくれておったのか。
そう続けるつもりだった言葉は、のどの奥で声にならないまま消えてしまう。
男は焔姫の表情や視線に気づかないまま、夜空を見上げている。
「今すべてを投げ出してしまったら、何もかもが取り戻せないままだ。王族は途絶え、この国の繁栄も終わるだろう。このままでは街そのものが存続出来るかも怪しい。そんな事になれば、貴女は一生自らを責め続け、許す事など出来ないだろう。けれど、国を救ったあと、平穏を取り戻したあとまで“焔姫”である必要は……ないんじゃないか?」
「まだ……そんな先の事は考えられぬ。サリフとハリド……あの愚か者どもを倒せるのかも、まだ分かりはせん。返り討ちに合い、死ぬのかもしれぬのだぞ」
少しすねたような口調で、焔姫はつぶやく。
まるで、この時間がいつまでも続けばいいのに、と言っているようだった。
「仮に失敗しても、この街を救う為に命を賭けた者の名を、民は絶対に忘れないよ。王族の義務と言うべきものがあるのなら、それは民のために努力をするという事、ではないかな。後世の歴史に残るのは、確かに民のために何をなしたか、かもしれない。けれど、何をなそうとしたか、という事の方が、民の記憶には残っているんじゃないかな。そんな風に……思うよ」
焔姫はくくく、と声をこらえながら笑う。
「……?」
焔姫がなぜ笑いだしたのか分からず、男は不思議そうな顔で焔姫を見た。
そんな疑問顔の男を見ぬまま、焔姫はつぶやく。
「余をおだてるのがうまい男じゃの。なれにそう言われては、投げ出せるはずがないではないか」
「え? ……いや、そんなつもりでは……」
うろたえる男に、焔姫は笑みを強くする。
「よい。余が投げ出す気など無いと、なれは分かっておるのだろう」
「それは……そうだが」
焔姫は男の背中をぽんと叩く。
「その通りじゃ。余は投げ出さぬ。民を見捨てはせぬ。じゃが……」
「……何だ?」
焔姫は顔を伏せる。その表情を男から隠すように。
「そんな考え方がある、と思えるだけで気が楽になる。それは、余には思いもつかぬ……発想だったゆえ、な」
「……そうか」
「カイト。ありがとう」
そう言い、焔姫は再び男の肩に頭をあずける。
「……」
「……火の粉を散らせ紅蓮を翻し――」
男は、まるで焔姫に子守唄を歌い聞かせるかのように、その“焔姫”を口ずさんでいた。
男は広間で歌った時とは違い、抑揚を抑え、ささやき声で歌う。はじめは静かに聞いているだけだった焔姫も、やがて男に合わせて口ずさみ始める。
『喰らう命を数えては軋む手を 縛る戒めの先にただ願わん――』
二人の声はやがて和音となり、静かな夜に響いた。
二人以外に聞くものはいない。
そもそも、二人以外に届く声量ではなかった。
男は焔姫のために、焔姫は男のために。お互いがお互いをいたわるように歌う。
『紅蓮を掲ぐ者よ 愛しきその声で我が名を謳うなら
その意志に番えよう
焔を抱く者よ お前のその心が移ろう事なくば
永久に番えよう』
やがて歌が終わり、男が鼻歌で旋律をつむぐ。
その様子に、焔姫は弦楽器が男の手にないという事実にようやく気づいた。
ずっと寝台に寝ていた時は、そこに気づく余裕などなかった。支障なく動けるようになってからも、自らの事で精一杯で、今のいままでその事にまったく気づいていなかったのである。
「……すまぬな」
「え?」
焔姫は思い出していた。背中を斬り裂かれた直後、もうろうとした意識の中で男が焔姫を助けるために何をしたのかを。何を……捨てたのかを。
「……何の事だ?」
男にしてみれば、それは焔姫からの突然の謝罪だった。
男が尋ねると、焔姫は沈痛な表情でうつむく。
「あの楽器……なれの父上の、形見だったのであろう?」
男は突然の謝罪の意味にようやく思い当たったのか、少しだけ悲しそうな顔で「ああ」とつぶやいた。
「……仕方ないさ。物はいつか壊れる」
「そういう問題ではない。それに……今まで、余はそれに気がついてもおらなんだ」
そう言って、焔姫は再度「すまぬ」とつぶやく。
男は首を振った。
「……気にしないでくれ。自分で選んだ事だ」
「しかし――」
「いいんだ」
そうさえぎり、男は焔姫の頭に手を置くと優しくなでる。
「……確かに、それまで私はあれを自らの半身だとさえ思っていた。だけど、そうではなかったんだ」
「どういう……事じゃ?」
「もっと大事なものがあったんだよ」
「大事な、もの?」
「メイコ。貴女の事だ」
「……っ!」
男の言葉に、焔姫ははっと顔を上げた。男は思わず頭に乗せていた手を離してしまうが、焔姫の呆然とした顔を見てやわらかくほほ笑んでみせる。
「自らの半身など比べ物にならないくらいに大事な……貴女の命を救う事が出来た。だから、いいんだ」
「カイト……」
焔姫の瞳から、透明なしずくがこぼれ落ちる。男は焔姫のほほに手をそえ、それを指先でぬぐった。
「あの時まで、貴女はどんな危機を前にしてもゆうゆうと乗り越え、つつがなきものだと思っていた。けれど、そんな事はないんだ。貴女は私と同じで、怪我をすれば同じように血を流し、病にかかれば同じように苦しむ、普通の人間だったんだ。壊れた楽器はまた作ればいい。けれど、貴女の命は失われたらもう戻りはしない。そんな当たり前の事を、私はこれまで考えてこなかった。謝らなければならないのは……むしろ、私の方だろう」
「カイト……」
「メイコ、すまない」
男の謝罪に、焔姫は泣きながら首を振る。
「……よいのじゃ。カイト……」
焔姫は男の胸もとに顔をうずめる。
「……なれが隣におって、本当によかった」
涙声で、何とかそれだけ声をしぼり出す。男は焔姫の背中をさすり、嗚咽をもらす焔姫をなだめようとした。
「あれは……」
そうしてしばらく、焔姫が落ち着いてきた頃。男は焔姫の背中の向こうに、不穏な影を見つけた。
「……?」
顔を上げ、袖で目もとをぬぐいながら焔姫も背後を見る。
二人は民家の屋根の上にいる。そこから少し離れたところに、路地を進む数人の姿を認めた。
「……近衛じゃな」
一瞥して、焔姫は告げる。
どうやら彼らは、王宮から男たちのいる民家の方へと進んでいるようだった。
二人はいつもの巡回だと思い、顔を見合わせてうなずきあうと息を潜めて監視する。
だが、近衛兵たちは巡回にしては周囲の確認をあまりしていないし、進む速度も早い。巡回というよりは、どこか目的地を目指している歩き方だ。
「……妙じゃな」
「……っ!」
近衛兵の目的に気づいた男は、弾かれたように階下へとつながる開口に駆けよる。
「奇襲です! 近衛が来ます!」
階下にいたのは元近衛隊長のほか、六人ほどの反抗勢力の主要メンバーたちだった。
最も早く反応したのは、元近衛隊長だった。
男をちらりと見上げてうなずくと、すぐに立ち上がって民家を飛び出していく。
他の者たちは困惑したように男を見上げる。元近衛隊長に続くべきか、それとも皆バラバラに逃げるべきか、その判断がつかなかったのだろう。
――その一瞬のためらいが、命取りになってしまった。
「早く! アンワル殿に続いて逃げ――」
「動くな!」
近衛兵が入ってきて、有無を言わさずそう叫ぶ。
男はあわてて開口から離れた。
「ここにいる者全員、反逆の罪で逮捕する!」
焔姫 39 ※2次創作
第三十九話
本文後半にある歌詞は、仕事してP様の「焔姫」より引用しました。以前と同じく、改行等は「CHRONICA ROUGE」の歌詞カードに準拠しております。この場を借りて感謝申し上げます。
この三十九話を読み返すと、なんだかカイトの話は要領を得ないというか……なにが言いたいかよくわからない感じがしますね。プロットの時とは若干変わってしまったカイトのスタンスで、しなければいけない会話を無理に詰め込んだせいなのですが……ううむ。未だ改善事項が多いようです……。
そしてカイトの口調に一番慣れていないのが自分だっていう(苦笑)
いつまで経っても敬語で書いてしまうんです。
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