桜の木からは花弁がすっかり抜け落ち、色も緑に落ち着いた。まだ四月の下旬だと言うのに、そんな事はお構い無し気温は日ごとに上がっていき、清涼感は反比例するように消失していく。駅から続く真っ直ぐな坂を登る制服の軍隊も、額にじわりと汗を滲ませている。
その群れの中に、桜色の髪をなびかせ歩く流架の姿もあった。
流架はすっと左袖を捲り、手首に装着した腕時計が指し示す時刻を見る。八時十分。まだ、ゆっくり歩いても余裕でHRに間に合う時間だ。流架は肩に提げた鞄の位置を軽く直すと、少しだけ足を速めた。
その様子を、桜の木の天辺から一人の少女が双眼鏡で覗いていた。
「ほぅ…あの子が巡音流架君か」
その小さな唇が、すぅっと吊り上がる。真っ赤な髪の下の瞳は、興味以外の色を宿していない。
「ふふふ…作戦開始だ」
誰に言うでもなくぽつりと呟くと、少女は真下に位置する校門に視線を移した。
* * *
「おはよーございます!」
と、元気に挨拶をしてくる風紀委員に軽く会釈をして、流架は校門をくぐった。校門から校舎まで続く並木道に植樹された桜が、緑の葉をざわざわ揺らし流架を出迎える。見る度に心が温かくなる桃色のブーケは、あれよあれよと言う間に季節の風に飛ばされて消え去ってしまった。その事に少し寂しさを覚えながらも、流架は歩を進める。
「うわーん、痛いよぉ!」
唐突に響いたその声に、流架の足が止まる。ぐるりと首を巡らせると、探すまでも無く声の主を発見出来た。
流架の視線の先で、一人の小柄な少女が桜の木の根元に蹲っていた。彼女の物であろう中等部指定の鞄は木の根元に放り投げられ、その華奢な体には中等部の制服を纏っている。パーマのかかった真紅の髪を両耳の近くで縛るそのヘアースタイルは、さながらドリルに見えなくもない。
流架は彼女の傍に小走りで駆け寄ると、スッと膝を折った。
「どうしたの?」
「こけて足を挫いちゃったんだ」
目元の雫を拭い、少女は自分の足を指差す。見ると、彼女の左足首は少し赤くなっていた。
「…腫れてるわね。保健室に行きましょう。立てる?」
流架の質問に、少女はぷるぷると首を左右に振る。
「無理か…じゃあ私の背中に乗って? 保健室まで連れてってあげるから」
膝をついたままくるりと背を少女に向け、流架が言う。すると、泣きじゃくっていた少女の顔に、ぱあっと笑顔が広がった。
「そう言えば貴女、名前は?」
「重音テト。お姉ちゃんは?」
「巡音流架よ」
保健室へ続く真っ直ぐな廊下を、流架はテトを背負って歩いていた。背中のテトは、ちゃんと食べているのか心配になる程軽いので、流架の歩みはわりと速い。
「お姉ちゃんって良い人だよね。ぼくを助けてくれたし」
「人として当然でしょ」
流架は出来るだけ淡々と返事を返す。年下の子供とは言え、ストレートに誉められたのは少し照れくさかった。
「それにこんなに美人なんだから、男の一人や二人くらいいるんでしょ?」
「はい!?」
何故、そう話が発展するのか。
動揺に流架が足を止めても、テトは変わらぬ口調で続ける。
「おや、その反応…お姉ちゃん、意中の人でもいるの?」
「いいいっ…!」
いきなり何を言っているのかこの子は。
それ以前に、何故自分はこんなに動揺しているのか。
そして何故、脳裏にふわりとなびく紫色の髪が過ったのか。
混乱する流架を楽しむように、テトは更に言葉を投げかけた。
「知らないの? お姉ちゃんってわりと有名なんだよ? 女子生徒の間では、『ナイス』に近づく不埒な女って専らの噂さ」
「『ナイス』…?」
聞きなれないワードに、流架が首を傾げる。
「高等部二年の始音海斗と神威楽歩の事だよ。あの二人はこの学校でも選りすぐりのイケメンだからね。女子生徒のアイドルになるのにそう時間はかからなかった。いつしか、誰かがそんな呼び名で呼ぶようになったんだ」
「はぁ…」
流架の口からは、溜息しか出てこなかった。それにしても、色んな名前をつけられて楽歩も大変だと思う。
「で、お姉ちゃんはどっちが好きなの?」
「まだその話するの!?」
歩き出そうとした流架の足がテトの台詞で空回り、たたらを踏む。完全に話は逸れたと思ったのに。
「ぼくの読みじゃ、海斗先輩には芽衣子先輩がいるからお姉ちゃんは…」
「STOP!!」
無駄に良い発音で、流架はテトに制止を促した。このままテトに喋らすのは危険だと、流架の中の何かが言っている。
「何で私があんな茄子頭の事好きにならなきゃいけないんですか! 確かに戦う時は格好良かったけど、いつもは馬鹿でヘタレだし…」
「ぼく、固有名詞はまだ言ってないけど?」
ハッと流架は片手で口元を押さえた。その顔が、ゆっくりと紅潮していく。
「えっと…だから別に私は…」
取り繕った所で遅い。恐らく、いや完全に、テトは気づいている。
もういっそこのまま消えてしまいたい、と流架は心の底から思った。
「うん、良かったよ。彼の近くに君みたいな子が居てくれて」
「え?」
いきなり、テトがそんな事を言い出した。言葉の意味が理解出来ず、流架は首を捻る。だが、そんな流架を意に介せず、テトは流架の耳元で囁くように言葉を紡いだ。
「これからも、彼の傍に居てやってくれ。君の存在は、彼の中でゆっくりと、だが確実に大きくなっていくから」
意味が分からない。
流架が胸中でむくむくと膨れ上がる疑問をぶつけようとした時、流架の肩越しに前方を見たテトが、嫌そうに眉根を寄せた。
「げっ…噂をすれば…」
流架もつられて前を見る。長い長い廊下の向こうから、紫色と青色がゆっくりと歩いてきているのが確認出来た。
「おお、流架殿!」
「おはよー流架ちゃん」
登校してきたばかりなのだろう。鞄を提げた楽歩と海斗は、流架の存在に気づくと同時に手を振ってきた。
「流架殿は随分出勤が早いの…ん?」
二人の距離が五メートルまで縮まった時、楽歩はふらふら振っていた手を中途半端な位置に留め、流架の背中から覗く赤い髪を半眼で見やった。
「……流架殿、お主は何故それを背負っている?」
「え?」
「人の事を『それ』呼ばわりとは…失礼だな」
ひょいっと流架の肩から顔を出したテトは、唇を尖らせる。その時、楽歩の後ろにいた海斗が「あっ」と声を漏らした。
「校長先生!」
「え?」
「海斗君、何でバラすんだよ。テトさんは『謎の美少女キャラ』の位置づけを狙ってたのに…」
ぷぅっと頬を膨らませると、テトはとん、と流架の肩を蹴り、宙に舞い上がった。中等部の制服を空中でふわりとなびかせ、まるで新体操を思わせるような美しいフォームで廊下のコンクリートの上にすたっと降り立った。赤くなった足でトントンと靴を揃え、手櫛で軽く自分の赤い髪を整える。
「ええ!? 校長!? と言うか足…」
「君は実に馬鹿だな。ぼくは生徒なんです、なんて一言も言ってないぞ?
後、怪我と化粧品くらい見分けつけような」
「校長先生、何で中等部の制服なんか…」
「似合うだろう?」
テトはスカートの裾を摘み、くるりと回って見せる。
「それで、わざわざ変装までして流架殿に何を吹き込んだのだ?」
険しい顔をした楽歩が、わざとテトと海斗の会話を遮った。氷を思わせる冷たい視線が、テトを射る。
見たこと無い、楽歩の表情。その表情(カオ)が自分に向けられているものでは無いとは言え、流架は軽く戦慄を覚えた。
「相変わらず君は、ぼくに警戒心びんびんだなぁ。テトさん悲しいよ」
「隠し事をする者は信用出来んのでな」
楽歩は、ちらっと腰の木刀を盗み見た。
「心配しなさんな。恋する乙女の悩みを聞いてあげただけさ。君の事を喋った訳じゃないし」
「……」
依然、目に温度は宿さぬまま、楽歩は無言でテトを威嚇する。
「楽歩君。君がぼくを警戒するのは構わないけど、これだけは忘れないでね。『その名の通り生きて欲しい』これが、僕もそうだが君の母上の願いでもあるんだから」
「!」
その時、楽歩の瞳に初めて警戒以外の色が映った。
“母上”
その言葉がテトの口から飛び出した瞬間、楽歩が動揺を隠す事無く顔に貼り付けたのが、流架にもはっきり分かった。
「君も随分苦労したんだし、そろそろ『楽しく歩』んでも良いんだよ。もう、君の隣にはたくさん友達が居るしね」
すっと上げた右手を左右に振りながら、テトは踵を返した。
その小さな背中が廊下の向こうに消えるまで、楽歩は一度も顔を上げなかった。
「……皮肉なものだな」
その乾いた唇から、ぽつりと言葉がこぼれる。
聞きたい事は山ほどあった。
あの校長先生の事や、楽歩のお母さんがどうしたのかも聞きたい。だが、楽歩の沈痛な面持ちを見てしまった流架は、結局最後まで口を開く事が出来なかった。
* * *
「ただいま」
「校長! 今まで何処で油を売っていたんですかっ!」
着替えを終え、軍服を思わせるノースリーブのブラウスに短めのプリーツスカートを着用して校長室に戻ったテトを出迎えたのは、額に青筋を立てた村田教頭の罵声だった。
「そんな怒るなよ田村君。短気は損気だぞ」
「村田です! 校長にお客様がいらしてたんですよ!」
「ぼくに?」
ふっと自分の机に目をやる。その隣に立つ人物を視界に入れた瞬間、テトの双眸が大きく開かれた。
そこに居たのは、テトと同じ色の髪を持つ背の高い青年だった。彼は長いその髪を一つに縛り上げ、汚れ一つ無い黒いスーツをまるで店頭に置いてあるマネキンのようにしっかり着ている。
「……村田君」
「田村です! …じゃない村田です」
「確かフランスパンが切れてたんだ。買ってきてくれない?」
「はぁ? 校長、貴女って人は…」
「お願い」
静かな、だが有無を言わせぬ強制力を持った声が、教頭の耳に届いた。テトがこんな声を出す理由を察する事が出来ない程、付き合いが短い訳ではない。
「……分かりました。沢山買って帰るので、三十分はかかると思います」
「ありがとう」
客人に軽く頭を下げてから、教頭はテトの脇をすり抜け、ドアノブに手をかけた。
パタン、と背後で扉がしまる音が鳴ったのを確認して、テトは改めて青年と向き合う。
「……さて、君が来たのは玖未哉君の指示か?」
「はい。玖未哉様は貴女に折り入って話があるそうなので、近いうちにこちらに足を運ぶ予定です。本日はその旨をお伝えに参上しました」
「……おねーちゃんに敬語は止めてくんないかな、テッド。気持ち悪い」
「失礼しました」
テッドと呼ばれた青年は、テトに指摘された事を改善せず、ぺこりと頭を垂れた。まるでロボットのような態度と表情は、実の姉であるテトでさえ気味が悪くなる事がある。テトは内心で頭を抱えながら、はぁ、と息を吐いた。
「で、折り入って話って…あの子らの事?」
「話の内容につきましては把握しておりません」
間に一秒も入れず、即座に返答が返ってきた。精密機械のようなその様に、最早テトには呆れる以外の術は残されていない。
「……さいですか」
「それと、帰還の際に貴女から子供の様子を伺ってくるようにと命じられました」
「はぁ…心配なら自分で見に来なよ…まったく」
それが出来ない事は、テトも分かっている。が、それを理解する事がテトには出来なかった。
自分を天涯孤独と思い込む彼らにとって、「家族」と言う存在は自分の手では掴めない遠い世界にあるものだと思っているのだから。
「元気。友達に囲まれて楽しそうにしてた」
「了解しました。そう、玖未哉様にお伝えします」
感情が微塵も籠っていない声音でそう返すと、足音も無く扉に歩み寄り、ドアノブに手を伸ばした。
「失礼します」
さっき教頭が出て行った時より静かな音を立てて、扉は閉められた。
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