シズはハッと目を瞠った。畦道をいく赤とんぼの透き通る羽までもが、落ちゆく日の光に赤く染め抜かれ、黒く影を道々に落としていた。
乾いた土の上を学生服のヒラヒラとしたスカートを揺らして、シズは家路を急いでいた。山端は燃えるように赤く、その下はもはや闇だった。そこら中で虫の鳴く声がする。もう秋なのだと思ったら、まとわりつくような夏の暑さの残りも、そう対して気にならないようだった。それでも汗はベタリと背を伝い、白いセーラーをピタリと肌に貼り付かせた。
遠くの方で、カンカンと踏み切りの音がした。シズは走った。
たぶん電車の中に用があったのだ。
赤く鳴り訪れを告げるランプさえ、夕日の前では意味を成さないようだったけれど。
シズが走るほどに、赤くきらめくようなトンボがふわりふらりと覚束無げに道をあけた。足元に生えた草花も赤かった。きっとシズの横顔も赤いのだろう。神社の鳥居も赤く、シズの横目を走っていった。
カンカンカンカン……
音はまるで終わりを知らないかのように、遮るもののない田舎道に響いていた。やがてガタんゴトんと激しい音を立てて地が揺れた。シズを置き去りに、電車はどこぞへ行ってしまった。踏み切りの遮断機が音と光を止めその腕を上げるのをジッと睨み据えながら、シズは息をグッと止めた。もとよりここに駅はなかった。とまることができないのなら、次に進むしかない。シズはまた家路を急ぎ始めた。
やがて日は完全に沈み、世界は闇に堕ちた。
「愛しているわ。ダアリン」
夜の闇に紛れて、戯れは口をついて出た。ここはどこだろう。家路の途中。ダアリンはシズの腕をとって、シズの枯れ木のように細い体を引き寄せた。
「教えてダアリン。ここはどこなの?」
シズの息が僅かにあがった。虫の鳴き声にまぎれて、たぶんシズの声はどこにも響かなかった。
冷たい線路が肩に当たった。
敷き詰められた砂利が、背に痛かった。
まるでメビウスの輪のように、表を歩いているつもりで裏であり、表と思えば裏だった。
日の差すほどに世界は赤く、シズの頬も赤く染まった。けれどそれは、すぐに白か黒かの色に分かれた。
シズはもう我慢ならないと、輪を千切ってしまおうと、勢いよく立ち止まった。膝をついた。手に触れるものは冷たく、一にも二にも分かたれそうにないことを知った。まるで温めようとするべく、座り込んだ。
体に残り生み出されゆく熱が、無機質なものに移っていく浅ましさ。
もう一歩も動けはしないと空を仰いだ。
後ろから走り抜けるものに惹かれて、シズはバラバラになってしまった。
こんなことを望んでいただろうかという気持ちだけ置き去りに、魅かれ連れ去られたシズの一部は、走ることをやめないものと一緒に走り去った。
けれど気付いていないのだ。道はくるりと一周していた。これは環状線。
やがて戻り来たとき、それがシズには少し、怖い。
そう、日は落ちてしまう。あたりが黒く染まるのだ。
レ点を打って、阿は輪廻に堕ちた。ねえダアリン。堕ちたのは誰だろう。吾(わたし)自身かもしれなかった。ねえダアリン堕吾輪廻堕阿リン……鈴の音がする。
何度も何度も蘇り、何度も何度も死に絶えた。名は遠く、遠名(おとな)。それとも堕ちる者だけが、復(おち)を繰り返すのだろうか。
死にたいのか、死ねないのか。
黒い髪を胸の下まで伸ばして、シズは迷子だった。烏が哀れにカアと鳴いた。夜闇に紛れる寸前に、子を想って鳴いたのだ。シズは帰らなければならない。けれど、もしかしたら帰り方がわからないのかもしれない。
帰る場所などないのかもしれないし、ここが帰る場所なのかもしれない。
そろそろぐるぐるまわるのにも疲れて、ため息を吐いた。
「ねえダアリン、ダアリン、こんなものだったかしら」
握り締めた携帯電話は、夕日に照らされて、間抜けに輝いていた。ススキが頬を撫でる。唾を飲み込んだつもりで、錆びた鉄の味を舌に覚えた。いつの間に傷ついたのだろう。後から後から、落ちていく。堕ちて行く。
「にゃあ」とシズは、甘え声で向こう側に話しかけた。返事はなかった。
まるで盲(めくら)のように、シズは闇雲に心を振り回した。
肌蹴たセーラーの襟が、鎖骨をくすぐる。ちらほらと赤が覗き、終わらない時を刻みつけていた。
大人になるとは、どういうことだっただろうか。ねえ、ダアリン。
電車は地下に下りてゆき、シズは白線の向こう側で乗り換えを待っていた。
けれどここには停まらない。
田舎は得てして、不便なのだ。
「ねえダアリン」
足を伝って、熱の名残が赤く滴った。
それでもシズは歩いていく。
これは環状線。
それを知っても、歩みをとめられないのだ。
シズは、オトナになったのだから。
カンカンカン……と、遠く踏み切りの音がした。
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