庭の池は、川と比べるとずっと狭かったのですが、レンが暮らすのに充分なぐらいの広さはありました。他に魚はいませんでしたが、いたところで、話し相手にならないのですから、どうせ同じです。
レンがやってきた次の日、リンが池にやってきました。呼ぶ声が聞こえたので、レンが水面に浮かび上がると、リンは喜びました。
「ちゃんと元気になったのね。良かった」
リンは持ってきたパンを細かくすると、水面にまいてくれました。魚に変化して以来、レンの味覚も魚と同じものになっていたので、喜んでリンからパンをもらいました。それに、パンの方が、普段食べている藻などよりも、ずっと美味しかったのです。
リンがそうして、レンに餌をあげていると、リンの母親がやってきました。母親は、池の中を泳ぎまわっているのを見て、驚きました。
「本当に元気になったのね」
「だから言ったでしょう?」
リンが投げたパンくずを、レンは空中に飛び上がって受け止めました。その様子を見て、リンは手をたたいて喜び、母親は、ただただ驚いていました。
ここで暮らすようになってから、レンの日常は、川にいた時よりも、ずっと楽しいものになりました。リンは毎日、レンのところにパンを持ってきてくれましたし、そのパンを水面にまきながら、あれこれとレンに話しかけてくれました。もちろんレンに返事はできませんが、リンの話を聞いているだけで、充分楽しかったのです。
この池のほとりはリンのお気に入りの場所らしく、気候のいい時期、リンはよく、ここで過ごしていました。近くに生えている木の根元に座って、歌を歌ったり、絵を描いたりするのです。そんな時、レンはそっと水面に浮かび上がって、リンの姿を眺めるのでした。
そうやって、レンはリンの家の庭で、いくつもの季節を過ごしました。冬になると、さすがにリンが庭で過ごすことはなくなりましたが、それでも、パンだけは毎日持ってきてくれました。
やがて、レンがここに来て、三度目の冬が過ぎた時のことです。春が来たというのに、リンは浮かない表情をしていることが多くなりました。毎日レンのところにやってきて、パンをくれたり話しかけたりはしてくれるのですが、以前ほど笑ってくれなくなったのです。余暇を過ごすことも、減りました。
そんなある日のことです。その日、リンの家は、朝から妙にごった返していました。リンも、いつまで経ってもやってきません。レンは水面に浮かび上がっては、家の方を眺めました。リンに何かあったのではないか、と心配になりながら。
空が暗くなるころになって、ようやく、リンがやってきました。ですが、様子が変です。手に持っているのはパンではなく、大きな壷でした。リンが来たので、レンはリンのすぐ近くまで泳いでいきました。
「お魚さん! お願い、わたしの言うことを聞いて、今すぐこの壷に入ってちょうだい!」
リンはそう言って、水の中に壷を入れました。レンは、壷を眺めました。確かにレンが入れるぐらいの大きさはありますが、当然、狭くて暗いでしょう。正直、自分から進んで、こんなところに入りたいとは思えません。
「ねえ、お願いだから、ここに入って」
リンは必死な表情で、レンに頼みました。レンはやっぱり気は進みませんでしたが、リンの言うことです。結局、壷の中に入ることにしました。リンは中に入った水ごと壷を引き上げると、壷に蓋をしてしまったので、レンは、完全な暗闇の中に取り残されてしまいました。その状態で、ガタガタと揺れだします。どうやら、リンはレンをどこかに運んで行こうとしているようでした。
いったいどこに行くのだろう。不安でなりませんでしたが、レンは辛抱することにしました。やがて、揺れの種類が変わりました。それからまたしばらくして……不意に蓋が外されたかと思うと、逆さにされました。当然、中の水ごと、レンは壷から出ることになります。
「お魚さん、ごめんね。狭かったでしょう」
リンの声がしました。レンは、周りを見回しました。周りの景色が変わっています。水の流れがないところを見ると、ここも池のようでした。でも、今まで暮らしていたところとは、水の匂いがなんとなく違います。いったい、どこなのでしょうか。
「あ……ごはん、あげないとね」
リンはパンを取り出して、細かくしてまいてくれました。レンがそれを食べると、リンはほっとした様子を見せました。
「これからは、この池で暮らしてね。夜になったら、ごはん持ってくるから」
レンは、何が起きたのかよくわかりませんでした。でも確認しようにも、辺りは暗くて、リンの姿がやっと確認できるぐらいなのです。リンも餌をくれた後は、すぐにどこかに行ってしまいました。いつもなら、何か話をしてくれるのに。
レンはしばらくの間、リンが去っていった方角を眺めていましたが、やがて、諦めて、水の底に戻りました。
朝がやってきました。レンは早速、池の中を泳ぎまわりました。今まで住んでいたのより、かなり広い池です。池の周囲は、綺麗な白い石で囲われていました。前の池は、ただの土だったのですが。そして、ここにはレン以外の魚も住んでいました。それも綺麗な色をした、明らかに観賞用とわかる魚たちでした。もっとも、話しかけても、やっぱり何も答えてくれませんでしたが。
池の中を調べ終わると、レンは水面に浮かび上がりました。緑の芝生が広がり、その向こうに、かなり大きなお屋敷が見えました。……今までリンが住んでいた、こじんまりした家とは大分おもむきが違います。ここはどこで、自分はどうしてこんなところに連れて来られたのだろう。レンはそう、思わずにはいられませんでした。
もしかして、自分はここに売られてしまったのでしょうか。今の自分は珍しい金色の魚ですから、欲しがる人だっているかもしれません。
でも、どうしてもレンには、リンが自分を手放すとは思えませんでした。雪が積もるような寒い日でも、かかさず自分に餌をくれに来たのです。そんなリンが、自分を売るとは、レンには思えませんでした。
レンは水中を泳ぎながら、リンのことを考えて過ごしました。そうこうするうちに、お日様は大分高くなりましたが、リンはやってきません。いつもならお昼までにやってきて、パンをくれながら話をしてくれるのに。あるいはもっと早く来て、池の近くで、何かして過ごすのに。リンが来てくれないと、時間が過ぎるのが、とても長く感じられます。レンは暗い気分で、池の底を漂っていました。リンに会いたい、と思いながら。
リンが来てくれたのは、日が沈んでしまってからでした。リンはパンをくれましたが、口数は少なく、あまり話してくれませんでした。それを少々淋しく思いながら、レンはパンを食べました。
「……お魚さん」
レンがパンを食べ終わる頃、リンは不意に言いました。
「お魚さんは、ずっと元気でいてね。どこにも行かないでね」
レンは、リンがどうしてこんなことを言い出したのか、さっぱりわかりませんでした。でも、リンの言葉に、応えてあげたいと思ったレンは、うなずく代わりに尻尾を大きく振って、一度もぐって見せました。すると、リンは静かに微笑んでくれました。
「わたしの言うことがわかるんだ。そうよね……いっしょに来て、くれたもの」
リンはそれだけ言うと、戻って行ってしまいました。レンは、リンはいったいどうしてしまったんだろうと思いながら、それを見送りました。
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