リンは、まだ鍋を磨いていました。他の人たちは仕事を終わらせたらしく、残っているのはリン一人です。やがて、鍋が綺麗になりました。リンは鍋を戻すと、床に座り込み、顔を覆いました。肩が細かく震えています。どうやら、泣いているようでした。
 レンは、辛い気持ちで、リンを眺めていました。今のレンは、リンに何もしてあげることができません。できることなら、リンを助けてあげたい。そうでなくとも、せめて慰めの言葉をかけてあげたい。レンがもともとの人間なら、リンを助けることは簡単でした。でも、今のレンには、何もできないのです。
 しばらくすると、リンは立ち上がって、涙を拭いました。それから、調理台の上に置いてあったパンを手に取ります。リンはそれを半分に割ると、勝手口から、庭に出ました。レンは、リンの後を追っていって、はっとなりました。リンが向かっているのは、魚のレンが暮らしている池に違いありません。だいたいいつもこれくらいの時間に、パンをくれるのですから。今、自分の身体がどうなっているのかわかりませんが、反応がなかったら、リンはきっと、ショックを受けるでしょう。リンはこんな毎日を送っているのに、自分にかかさず、パンをあげに来てくれていたのです。
 どうしよう、そう思った時、ルカの声が聞こえました。
「意識を戻すわよ」
 景色がゆがみ、気がつくと、レンは池の中に戻っていました。身体――魚ですが――もちゃんとあります。そして、リンの呼ぶ声が聞こえました。レンは水面に浮かび上がって、リンからパンをもらいました。
「それはあなたの魚?」
 不意に、ルカの声がしました。見ると、いつの間に来たのか、ルカがリンの後ろに立っています。リンはというと、びっくりした表情で振り向きました。
「あ……さっきの」
「ええ。……変わった魚ね」
 リンは無言でパンを投げています。そんなリンを見て、ルカは静かに微笑みました。
「心配しなくても、あなたがこの魚に餌をあげていることは誰にも言わないわ」
「うん……そうして」
 リンは下を向いて、レンの方を見ています。
「で、この魚はどうしたの?」
「前に、市場でお母さんに買ってもらったの。とても綺麗だったから」
 リンの瞳に、涙が浮かびました。
「……わたしのこと、聞いたんでしょ。さっきの人から」
「ええ、まあ」
「だったら、わたしに構わないで」
 リンは淡々とそう言って、レンにパンくずを投げ続けています。
「私は、ここで働いてるわけじゃないわ。私に何か言ったところで、誰かに伝わる心配なんてしなくていいわよ。あなたの話を聞いたら、ここから消えるから」
 ルカの言葉を聞いたリンは、しばらく無言で、レンにパンを投げていました。ですが、やがて、口を開きました。
「お母さんがくれたものでわたしに残ってるの、もうこの子だけなの。他のものはみんな、焼かれてしまった。わたしがここに来た日に、奥様は庭で火を焚いて、わたしがもってきたものを全部投げ込んだの。この子だけ、みつかる前に池に放せたから、大丈夫だった。みつかっていたら、きっとこの子も、殺されてしまってたわ」
 リンはうつむいて、涙をぬぐっています。レンはイライラしながら、話を聞いていました。リンがそんな苦労をしている間、自分は池で安穏としていたのです。
「でもその魚、無理に餌をやらなくてもいいんじゃない? ここの池には他にも魚がいるし、あなたが餌をやらなくても、生きていけるでしょう」
「この子、わたしの手からじゃないと餌を食べないの。まだわたしがお母さんといっしょにいたころ、わたしが寝込んじゃったことがあった。それでお母さんがわたしの代わりに餌をあげようとしたんだけど、全然食べてくれなかったって」
 レンは思い出しました。確かに、リンが来なかったことがありました。リンのお母さんが代わりにパンをくれたのですが、レンは食べる気になれず、ただパンくずを眺めていたのです。
「信じがたい話ね。魚は人になついたりなんてしないわ」
「この子は違うの。特別なのよ。わたしが呼ぶとすぐ出てくるんだもの」
 リンはきっぱりとそう言いました。そしてパンくずを投げたので、レンはパンを飲み込むと、水面を叩いて飛び上がってみせました。それを見てリンは「ほら、ね」といいました。
「みたいね」
「でしょう。さ、パンはこれで終わり。また明日ね、お魚さん」
 リンはレンに手を振ると、戻って行ってしまいました。レンは水面を叩いて注意を引いてみましたが、リンに「元気で良かった」と言われてしまっただけでした。もどかしくて、レンは水中をぐるぐると泳ぎまわりました。
「落ち着きなさい。そんなことをしても、何にもならないわ」
 いつの間にか、ルカがまた水中にいました。
「あんた! みんな知ってたのか!」
「だいたいはね。これでも魔女だから」
 レンはルカにつめよろうとしましたが、するりとかわされてしまいました。
「いいかげん、学習したら?」
「あんなひどいこと、どうして放っておくんだよ!」
「誰かの頼みでない限り、他の人間には関わらないことにしているの。色々と面倒なのよ、魔女って」
「じゃあ僕が頼む! リンを助けてくれ!」
「あのね、王子様。どうして私があなたの頼みをきいてあげないといけないの?」
 あきれはてたと言わんばかりの口調で、ルカは言いました。
「会ったばかりの私に何をしたのか、あなたはもう忘れてしまったのかしら?」
 ルカの言うとおりでした。会ったばかりのルカを転ばせて、水浸しにしたのはレンでした。そんな相手の頼みを、きく義理などないでしょう。
 ですが、レンはあきらめる気になれませんでした。今のレンには、ルカしか頼める人がいないのです。
「前にしたイタズラのことは謝るから! だから、リンを助けてくれ」
 レンは必死でルカに頼み込みました。ここでルカに断られてしまったら、リンはどうなるのかわからないのです。
 レンがそうして頼み込み続けていると、ルカはため息をつき、考え込む表情になりました。
「……まあ確かに、あの子を放っておくのもちょっと、なのよね。あの子、自分の食べる分を削って、あなたに分けてあげているし」
 レンは驚きました。てっきり、厨房の残り物だと思っていたのです。
「あれ、残り物じゃなかったのか?」
「残り物が出たとしても、好きに食べさせてなんてもらえないわよ。さっきの料理長が目を光らせているんだから。それに、寝るところもまともにもらってないみたいだし。この調子だと、後一年もしないうちに、あの子は弱って死んでしまうでしょうね」
「……僕に餌なんか、くれなくったっていいのに」
 確かに以前、リンの母からパンをもらった時は食べなかったのですが、別に食べられないというわけではないのです。川にいたころは、普通の魚が食べるようなものを食べていたのですから。
「さっき、寝るところもまともにもらってないって言ったけど、リン、どこで寝ているんだ?」
「毛布一枚もらって、調理場の床で。この先寒い季節もやってくるでしょうし、そうなったらさぞかし冷え込むでしょうね。あそこの奥様は、あの子を使い潰すつもりなのよ。だから、待遇が良くなるなんてありえないでしょうし……そうね、助けてあげてもいいわよ」
「本当か!?」
「ただ、私が直接あの子を助けてあげることはできないわ。さっきも言ったけど、魔法というのには色々と制約があってね。人の心を変えることはできないのよ。だから、ここの奥様を心変わりさせることはできない」
「リンをここから連れ出すことは?」
「どこへ行くの? あの子はもう、どこにも行くところがないのよ。それにあなたもいっしょでなければ、ここを動かないでしょうね。あの子にとって、あなたは母親の形見みたいなものだから」
 レンは物扱いされて少し微妙な気分になりましたが、ルカの言うことに異を唱えて、「じゃあ、助けるのはやめるわ」と言われては困るので、黙っていました。
「それに私は忙しい身だから、ずっとここにいるわけにもいかないのよ。だから王子様、あなたにはしばらく、私の魔法を貸してあげる。それであの子を助けなさい」
 ルカがそう言うやいなや、辺りの様子が一変しました。今、レンとルカがいるのは、きれいな乾いた小部屋の中です。床には絨毯が敷かれ、木でできたテーブルと椅子、それに、暖かそうな小さなベッドがありました。ただ、レンは相変わらず魚のままで、テーブルの上に置かれた、大きな水盤の中に入っていました。
「ここは?」
「私の魔法で作った部屋よ。あの子にあなたの声が届くようにしてあげるから、あの子が来たら、水に手を入れるように言いなさい。そうしたら、ここに入れるわ。ただ、ここを利用できるのは夜だけよ」
 どうやら、リンをかくまうことはさせてもらえないようでした。
「ほしいものはなんでも出してあげられるわ。ただし、あの子のためのものだけよ。それと……そうね、昼は意識を外に飛ばせるようにしてあげる。ただ、範囲はこの屋敷の敷地の中だけよ。それと、あなたの素性を喋るのは禁止。あなたはあくまで、ただの魚。破ったら、その時は私は手を引くわ。いいわね?」

ライセンス

  • 非営利目的に限ります
  • この作品を改変しないで下さい

昔話リトールド【金色の魚】その四

 設定上どうしても必要とわかってても、いじめられるシーンを書くのはしんどいです。

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投稿日:2013/02/12 00:00:57

文字数:3,781文字

カテゴリ:小説

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