白の結婚は、予定通り破局を迎えた。
十一歳で嫁いだ妹のミクは、僅か四年で離縁し家に帰ることになる。
妹を出迎える準備を終え、自室に戻ったカイト・ボルジアはピアノの前に坐したまま沈黙していた。
冷徹とも評される蒼の瞳を眇めた先には、緑の瞳の幼い少女が微笑んでいる。ミクが嫁ぐ前に残していった、一枚の肖像画。それだけが、手元に残された妹のよすがだ。
『ミクはずっとお兄様のそばにいたいのに。どうして、お嫁に行かないといけないの?』
目を真っ赤にはらして嫁ぐ妹を見送ったのは、十六歳の時。繊細で多感な少年は、冷静沈着で頭脳明晰と評判の貴公子に成長した。氷の彫像めいた美貌は、端正な反面一部には冷血とも噂されている。
「……四年ぶり、か」
ボルジア家の為に嫁ぎ、家の都合で離縁させられた妹は、どう感じているのだろう。
カイトより一歳下の妹のルカは、若くして未亡人になった後神職についた。妹の夫を殺したのは、ボルジア家の毒だと世間には噂されている。もう、カイトとは年に数回手紙のやり取りをするだけの間柄だ。
ミクの場合はままごとめいた、形だけの結婚だ。白の結婚と呼ばれる、離婚が認められる仮初の夫婦。ルカ程に相手との結びつきはないことを期待したい。
『カイトお兄様』
あどけなく笑うミク。母親の違う兄を、ただただ慕ってくれた、小さな妹。
本当はずっと守ってやりたかったなんて、今更言い訳に過ぎないと自覚している。白の結婚から戻ったミクは、おそらく数年のうちにまたこの家を出るだろう。貴族の姫、それも権力の中枢に近いこの家の娘は、外交の有力なカードだ。父の意図が分からないほど、カイトは幼くも愚かでもなかった。
『カイトお兄様のお嫁さんに、してくれますか?』
『いいよ、僕がずっとミクを守ってあげる』
ボルジア家の闇も毒も知らなかった頃に交わした幼い約束は、もう到底果たせるものではない。遠くてもう、擦り切れそうな約束。ミクとて、覚えてはいないだろう。
カイトは一つ溜息をつき、鍵盤に指を滑らせた。
歌の好きな幼い妹の為に弾いていたピアノは、カイトの数少ない趣味になった。
家とも政治とも関係しない、音の海にたゆたう感覚。思い出されるのは、澄んだ声と無邪気な笑顔。懐かしい、心を温めてくれる小さな記憶。
「……お兄様」
繊細な甘い声に、ピアノを弾く手が止まった。
入り口に立っていたのは、カイトの知らない――しかし、どこか懐かしい少女だった。
艶やかな長い髪、翡翠の双眸とミルク色の肌。愛らしさと透明な美しさが混在する顔立ちは、数年後には匂い立つような美貌が約束されている。妖精めいた華奢な肢体に、白いドレスがよく似合っていた。
「お久しぶりです、カイトお兄様」
貴婦人の礼をした少女に、カイトは目をしばたいた。少女の正体に見当はついている。だが、それよりも信じがたいという思いが上回った。カイトの袖を握って泣いていた幼い妹と、目の前の薔薇の蕾みたいな少女が、同じ人物だなんて。
「……あの」
沈黙するカイトに向けられた不安げな眼差しに、ようやく我にかえる。カイトを上目遣いに見上げる大きな翡翠は、確かに記憶にある幼い妹と一致した。
「……お帰り、ミク」
「はい。ただいま帰りました」
ふわりと表情をほどいたミクに、息を呑んだのは一瞬。カイトは言葉の代わりに、静かな微笑を投げかけた。
――それが、悲劇の始まりだと、気付く者はまだ誰もいなかった。
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