拾った命

 路地裏で倒れているリンを見つけて、眼鏡の男性は即座に路地へ駆け込む。
「いた! 君、しっかりするんだ」
 屈みこんでリンの体を仰向けにし、体に負担をかけないように注意して上体を起こす。肩を軽く触るように叩いて呼びかけても応答は無い。
 念の為に脈と呼吸を確認する。幸いどちらも問題は無かった。どうやら気を失っているだけらしい。生きている事に安心したが、手放しで喜べる状況ではない。
「……無事じゃ、ないな」
 目を伏せ、顔を固くして呟く。
 どれだけ殴る蹴るの暴行を受けたのか、目の前で気絶している少女の腕や足は痣だらけで、頬は腫れて口の端には血がこびりついている。
 外から一目見るだけでも手酷い有様だ。服で隠れている所も含めると、怪我をしていない箇所を探す方が難しいかもしれない。
「ここまでやらなくても良いだろう」
 あの男に対する不快感が湧き上がり、眼鏡の男性は顔に怒りを滲ませる。向こうに言い分があるだろうし、盗みを容認する気など無いが、生きる為にパンを盗んだ子どもへの制裁としてはやり過ぎだ。
 残念ながら応急手当に必要な物を持っていない上、周りを見ても使えそうなものは見当たらない。口端に付いている血をハンカチで拭い取るのが精々だ。
「大丈夫。助けるから」
 眼鏡の男性は上着を脱いでリンの肩にかけ、落ちないようにボタンを一カ所だけ留める。極力揺らさないように注意してリンを背負い、負担が少ない事に驚いた。
 思っていた以上に軽い。と言うより軽すぎる。袖口から伸びる腕は痩せ細り、少し力を入れて握れば折れてしまいそうだ。
 とにかく宿まで運ばなくちゃいけない。そう判断を下して、眼鏡の男性は路地を後にした。

 自身が滞在している宿に到着し、眼鏡の男性は中へ入る。玄関の広間を通り抜けて部屋へと急いでいると、宿の女将とすれ違った。
「おかえりなさい、って、お客さん! その子は……」
「すみません。僕の部屋に連れて行きます」
 背中の子に好奇の目を向けさせたくなくて、女将の脇を足早に通り過ぎる。幸い誰とも会わずに自分の部屋に着き、眼鏡の男性はリンを落とさないように気を配ってドアを開ける。
「もうちょっとだから」
 話しかけても返事は無い。ドアを開けたまま部屋に足を踏み入れ、眼鏡の男性はベッドの前で足を止めた。
 リンをベッドに下ろし、かけていた上着を取り払う。片足しか履いていなかった靴も脱がして、気を失ったままの彼女をベッドに寝かせる。
 とりあえずやるべき事の一つが終わり、眼鏡の男性は安堵の息を吐く。上着を持って部屋を出ると、開け放ったままのドアを静かに閉めた。
「お客さん。ちょっと良いですか?」
 廊下の向こうからやって来た女将にやや厳しい口調で話しかけられ、眼鏡の男性はそちらに意識を向ける。女将が言おうとしている事は大体察しがついていた。
 女将は眼鏡の男性の傍まで移動して囁く。
「……あの子、貧民街の子どもじゃないですか?」
 くしゃくしゃに縺れた髪と継ぎ接ぎだらけの服。履いている靴はぼろぼろで、顔や手足が薄汚れた女の子。身なりや雰囲気から考えると、あの子は貧民街の住人か浮浪児だ。難色を示されても無理はない。予想は出来ていたが、実際に迷惑そうな態度をされると悲しくなる。
 尤も、もし自分が宿を経営している立場で同じ事をされたら、この女将と大して変わらない反応をしていただろう。彼女を悪く言える分際では無い。ついでに言うなら、ここで油を売っている暇も無い。
 眼鏡の男性は腕に引っ掛けていた上着から財布を取り出す。ちなみに、この男性は自分の宿代を数時間前に支払っていた。
「僕が医者を呼んで来る間に、あの子の世話をお願いしたいのですが」
一人分の宿代に少々上乗せした金額を渡すと、女将は困惑しつつもそれを受け取った。厳しくしていた顔を緩めて、しょうがないねと微笑む。
「まあ、そう頼まれちゃあね……。女の子の着替えを貴方がする訳にもいかないでしょうし」
 損にはならないし、まだ十歳程度の子どもを見捨てるのも気が引けるのか、女将は苦笑ながらも引き受けてくれた。
「すみません、ありがとうございます!」
 眼鏡の男性は深々と頭を下げる。一番近い医者を女将から教えて貰い、上着を羽織って慌ただしく去って行く。背中が廊下の先に消えるまで見送り、女将は感慨して呟く。
「……あんな人もいるのねぇ」
 見ず知らずの、しかも貧民街の子どもの為に宿代を払い、医者まで呼んで助けようとする清廉な人。
 王宮のお貴族様も見習って欲しいものだわ。そんな愚痴は、女将がドアを開ける音にかき消された。

「ん……」
 体と頭に柔らかい感触を覚えて、リンはゆっくりと瞼を上げる。
 あれ……? 生きてる……。
 散々殴られ蹴られた挙句に路地で倒れた時には、流石にもう駄目だと思った。自分は誰にも知られないままゴミのように死んで、二度とレンに会えないのだと。
 ここ、どこ……。
 住処にしている小屋では絶対無い。綺麗な木目調の天井が見える。目だけを横に動かすと、優しい色合いの壁が映った。体に暖かい布団がかけられていて、頭の下には柔らかい枕が敷かれていた。
 ベッドに寝かされているとようやく気付き、リンは体を起こす。同時に全身のあちこちが鋭く痛んだ。
「いっ……!」
 唐突に走った痛みに息が止まる。うっすらと涙が出た。声にならない悲鳴を上げる内に強い痛みは治まり、リンは細く長い息を吐く。
「……どこ、ここ」
 部屋を見渡しても誰もいない。簡素な机と椅子だけが置かれているだけだ。どうしたものかとリンは視線を下にして、自分が清潔な寝巻きを着ている事に驚いた。腕には包帯が巻かれていて、縺れていた髪は梳かされて整えられている。顔を触ってみると、頬には湿布が張られていた。
「何で?」
 当たり前だが、着替えや手当てをした覚えなんて無い。誰かに服を着替えさせられたとしか思えない。じゃあ、誰が。そう考えてある人物が浮かび、リンは顔が赤くなるのを自覚する。
 ノックの音が響く。リンが何も言わずに部屋の入り口を睨みつけていると、眼鏡の男性が入って来た。
「ああ、良かった。目が覚めたんだね」
 起きていたリンを見て頬笑みを浮かべる。リンは眼鏡の男性に敵意の眼差しを向け、右手を後ろに回して布の塊を掴んだ。
「大丈、――ぶ!?」
「寄るな痴漢! 変態眼鏡!」
 枕が眼鏡の男性の顔に直撃して語尾がおかしくなり、リンは枕を投げつけたままの姿勢で叫び声を上げる。枕と眼鏡が一緒に落ちた。
「っつう……」
 急に動いたせいでまた体が疼き、リンは二の腕を押さえて背中を丸める。男性は床に落ちた眼鏡と枕を拾おうと屈みこむ。
「いきなり動いたら駄目だよ。しばらくは安静にしていないと」
 男性は枕を小脇に抱えて眼鏡をかけ直し、何事も無かったかのように話しかける。
「うっさい……。私の勝手でしょ」
 俯いて顔を合わせないまま、リンは刺刺しく返す。
 恩人に何をしている。悪いのは明らかに自分だ。早く謝った方が良い。心の隅からそんな声が聞こえたが、素直に従う気になれなかった。
「あらまあ……。キヨテルさん、この子誤解をしているわよ」
 盆を持った女将が部屋に入り、眼鏡の男性へ気の毒そうに声をかけた。食べ物の匂いを嗅ぎつけたリンが顔を上げる。
 女将が食事を載せた盆を机の上に置き、リンへ顔を向けて説明する。
「服を変えたのも、体を拭いたのも私だよ。この人はお嬢ちゃんをここまで運んで、医者まで呼んでくれたのよ」
「ああ、そう……」
 リンは上の空で答える。女将の言葉は耳に入っていたが、視線は机に、正確には盆に載せられた食事に釘付けになっていた。
 キヨテルと呼ばれた男性はベッドに歩み寄り、リンが投げた枕を元の位置に戻す。女将に盆を持っているように頼んで、机をベッドの隣まで移動させた。
キヨテルは微笑みを浮かべて、リンへ優しく語りかける。
「ご飯は置いておくから、好きな時に食べると良い」
 体中に怪我をしているが命に別状は無い事。今は体を治す事を第一に考える事。目を合わせようとしないリンにそれだけを伝え、キヨテルは女将と共に部屋を出て行った。
 一人きりになった部屋で、リンは机に載せられた盆をぼんやりと見つめる。薄っぺらな哀れみなんか受けたくないと考えて目を逸らすと、この所ちゃんとした物を食べていなかった胃から抗議の声が上がった。
 視線を戻す。肉と野菜が挟まれた細長いパンと、湯気を立てるお茶が目に入った。リンはのろのろと手を伸ばしてパンを掴む。目の前に持って来ると、匂いに釣られて腹の虫がまた声を立てた。
 端を一口齧る。ごく普通の物のはずなのに、今まで食べたどんな物よりも美味しかった。
「うっ……」
 リンは涙を流して久しぶりのまともな食事を味わう。泣きながら貪るようにパンを食べ終えて、盆に置かれていたお茶を一気に飲み干してやっと人心地がついた。
 空になったカップを盆に置いて片付け、目を拭いてから再び部屋を見渡す。どこかの家か宿だとは思うが、どちらなのか分かる訳もない。
「……聞いておけば良かったかな」
 小声で言ってから、いや、とリンは考え直す。
 さっきは混乱してそんな事を聞く余裕なんて無かったし、不安と空腹で気が立っていた状態で、あの二人の言う事を信じられたとは思えない。何を言われても反発して、事態をややこしくしてしまったかもしれない。
 それなりに落ち着いた今でも、眼鏡の人……キヨテルと呼ばれていたか。その人をまだ少し疑っているのだ。一度信用させてどこかに売り飛ばすとか、助けた見返りに奴隷としてこき使われるとか、何か裏があるのではと思ってしまう。
 悪い方を考えてから、リンは包帯が巻かれた手と腕を見つめる。
 けど、本当にそんな事を考える人に、あんな優しい頬笑みをする事が出来るだろうか?
 キヨテルが何者なのかは分からないが、不思議な雰囲気を持っている。静かで落ち着いた物腰は慈悲深い牧師や神父のようで、他人に、特に大人へ心を開くのを恐れていたのに、手を取ろうとする気になったのもそのせいだ。
 だけどそれだけじゃない。他にも何か理由があるような気がして、リンは思考を巡らせる。貧民街での三年間に思い当たる節はない。なら王宮にいた頃かと記憶を探ると、答えはすぐに見つかった。
「あ。そうだ、母上だ」
 若い頃に教会で働いていた母。その母と似た空気をキヨテルから感じた。だから警戒心が緩んで、差し伸べられた手にどこか安心感を覚えたのだ。
 考えている内に段々眠くなって来た。温かくて柔らかいベッドが酷く心地良い。部屋に置かれた柱時計を見てみると、まだ暗くなるまで余裕がある。
「……寝よ」
 多分、キヨテルは信用しても大丈夫だと思う。何より眠い。色々あり過ぎて疲れた。
 とりあえず今は寝る。そう判断して、リンはベッドに体を預けて眠りに落ちた。

 太陽がほとんど沈み、空に星と月が輝き始めた頃。
 ドアがノックされる音で目を覚まし、リンは慎重に体を起こした。入っても良いかと言う声が聞こえて、大丈夫ですと返す。ベッドから離れようとした時、廊下側からドアが開いた。
 キヨテルが姿を現し、立ち上がろうとしていたリンを見て片手を軽く上げる。
「そのままで良いよ」
 椅子を持って移動する。ベッドに座ったリンの正面まで歩み寄り、椅子を置いて腰掛けた。
キヨテルは穏やかな口調でリンに名乗る。
「自己紹介がまだだったね。僕はキヨテル。ただの商人だ」
 商人? とリンは真っ先に疑問が湧いた。雰囲気からして聖職者かと思ったと正直に聞くと、キヨテルは目を丸くして笑い出す。
「はは。僕はそんな立派な人間じゃないよ。子どもの頃、聖歌隊にいた事はあるけどね」
 貴族でもなければ名字も無い一般人だとキヨテルは冗談めかして告げる。
 名字があるのはそれなりに身分がある証でもある。王族や貴族はもちろん、地方の領主なども名字を持っていて、平民は名前だけなのが普通だ。
「はあ。そうですか」
 嘘をついているようには見えない。キヨテルが話している事は本当だろうと判断して、リンはひとまず納得する。
 眼鏡を指で一度押し上げ、キヨテルは尋ねた。
「それで、君の名前は?」
「リン・……」
 ルシヴァニア。と続けかけて、リンは言葉を止めた。黄の国王女リン・ルシヴァニアは何年も前に死んだ事にされている。名乗った所で嘘をつくなと言われるだけだ。
 使わないに等しかったが、貧民街に来てから使っていた偽名を名乗る。
「……リンベル、です」
 言ってから、自分のセンスの無さに溜息を吐きたくなった。父が考えてくれたリンと言う名前に、同じ意味のベルと言う単語を付け足したにすぎない。
 リンが軽い自己嫌悪に陥っているとは知る由も無く、キヨテルはそうかと頷く。
「リンベルね。ここは王都の宿屋。さっき食事を持って来てくれたのは、この宿の女将さんだよ」
  簡単に説明をしてから、キヨテルはこれまでの経緯を話し始めた。

 王都でパンを抱えて必死に逃げるリンを偶然見かけ、何か胸騒ぎがしたキヨテルは仕事の話を終えた直後に様子を見ようと後を追った。嫌な予感は的中し、一方的に暴行を受けているリンがそこにいて、見るに見かねて男を追い払ったらしい。
 その後に去ったリンが気になって探してみれば、路地で力尽きて倒れているのを発見し、宿に運んだと言う訳だ。

「大体はこんな所かな。さっきの事を覚えているか分からないからもう一度教えるけど、君の着替えとかは女将さんがやってくれたんだ」
 僕じゃないから安心してねとキヨテルは笑いながら言う。大人しく話を聞いていたリンは布団を握り、躊躇いがちに口を開く。
「あの、キヨテルさん」
「ん?」
 助けてくれた恩人と目を合わせる。
「ごめんなさい。それから、ありがとうございます……」
 謝罪と感謝とで頭を下げる。キヨテルがいなかったらあのまま死んでいたはずだ。生きてと願ったレンにまた会える事も無く、冷たい道端にひとりぼっちで息絶えていた。
「気にする事はないよ。僕が勝手にした事だからね」
 何でもない事だったように言い切ったキヨテルに、リンは再び心から礼を言った。

ライセンス

  • 非営利目的に限ります
  • この作品を改変しないで下さい

蒲公英が紡ぐ物語 第7話

 疲れた時や体調が悪い時は寝ちゃうのが一番。

 眼鏡の男性改めキヨテル。やっぱり名前や職業が出ていない間は不便ですね。何々の男性や人とかで通すしかない。

閲覧数:283

投稿日:2012/03/31 22:12:53

文字数:5,867文字

カテゴリ:小説

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