両親と喧嘩でもしたんだろうか。実を言うと、僕にも憶えがある。ユキぐらいの年齢の頃、両親と大喧嘩をして家を飛び出した。やっぱりユキみたいに公園で、一人でブランコに座って「もう二度と家には帰らないんだ」なんて、悲痛な決意を固めていたっけ。……もっとも僕は根性が無かったので、空腹になったら帰ってしまったが。母さんに散々笑われたっけ。「二度と帰ってこないんじゃなかったの」って。
「ユキ、家ではきっと心配しているぞ。帰ろう」
 僕が重ねてそう言うと、ユキはしぶしぶといった様子で頷いた。軽い安堵を憶えつつ、僕はユキの手を引いて歩き出した。ユキは何も言おうとしなかったし――きっと、バツが悪いんだろうと僕は考えていた――僕も何か話す気になれなかったので、僕たちは終始無言だった。
 やがて、僕の家の前まで来た。ユキが住んでいるアパートは、ここからもう少し先だ。僕はあることを思い出し、ユキに言った。
「ユキ、ちょっと待っててくれ。渡すものがあるから」
 僕は玄関の鍵を開け、ユキを中に入れた。さすがに、外で待たせるのは抵抗がある。両親はもう寝ているので、足音をさせないように気をつけて階段をあがり、ユキへのプレゼントを持って戻ってきた。
「これ、東京土産だ。大したものじゃないけど」
 プレゼントの包みを渡すと、ユキは静かにそれを受け取った。
「ありがとう……開けていい?」
「ああ」
 頷くと、ユキは包みを丁寧に開け始めた。中に入っているのは、花飾りのついた髪留めだ。
「お兄ちゃん、ありがとう。大事にするね」
 はしゃいだ様子は見せてくれなかったが、ユキは嬉しそうだった。僕はユキの手から髪留めを取って、髪に挿してやった。
「ユキ、良くにあうぞ」
 ユキはぱっと笑顔になったが、すぐに笑顔は消えてしまった。上目遣いに、こっちを見る。
「……ユキ?」
「お兄ちゃん……ユキ、お兄ちゃんのところに泊まっちゃ、ダメ?」
 そんなに家に帰りたくないんだろうか。僕はさっと考えを巡らせた。いくらなんでも、こっそり泊めるのはまずい。となると、母さんを叩き起こして話をしないとならないが……。
 多分、泊めることに関する承諾は得られても、まず「ユキのお母さんに連絡して、こっちに泊めるって言いなさい」って言われるだろうな。
「ユキ、そうなると、まず、ユキのお母さんに連絡しないといけないぞ。勝手に泊めるのはいけないことだし」
 そう言うと、ユキはうつむいてしまった。
「……やっぱり、帰るね」
 ユキは玄関のドアを開けて、出て行ってしまった。あ、こら! ユキの自宅までは後少しとはいえ、一人で歩かせるわけにはいかない。僕は靴をつっかけ、玄関に鍵をかけて、あたふたと後を追った。
「一人は危ないって言っただろ!」
 ユキを追いかけて、手首をつかむ。……ん? 今気づいたけど、ユキは長袖を着ている。今は真夏なのに。なんだ、何かがおかしい……。
 まあいい。今大事なのは、ユキを一人で歩かせないことだ。僕はユキの手を握って、また歩き出した。ユキのアパートは近所だから、すぐにたどり着いた。
 入り口で別れても良かったけど、ユキの部屋の前まで送っていくことにする。考えてみると、ユキの家に来たのは初めてだ。ユキが二階だというので、上にあがる。「歌愛」という表札のかけられたドアの前で、僕は立ち止まった。
「ユキ、もう夜中に一人でうろうろするんじゃないぞ。それと、たまにはうちにも来い。母さん、ユキの顔見たがってから」
 ユキはこくんと頷いた。そして襟元から紐に通した自宅の鍵を取り出して、ドアの取っ手に差し込んだ。ブザーは押さないのか?
「お兄ちゃん、さよなら」
 ドアを開けて中に入る前に、ユキはそう言った。僕は「お休み、な」と言って、ユキが家に入るのを見守った。中から、鍵をかける音が聞こえてくる。……親は寝ているのかな? ただいまって声が聞こえてこないけど。こんな時間に子供が帰って来なかったら、普通は心配して寝れないと思うんだが……。親が寝てから、こっそり抜け出してきたのかな?
 僕はしばらく、ぼんやりとユキが消えて行った家のドアをみつめていた。なんだか、胸騒ぎがする。
 僕がそうやって廊下に立っていると、不意に、ものすごい怒鳴り声が響いた。
「今何時だと思っているんだ! このろくでなし!」
 続いて、物を投げるような音が聞こえてきた。僕はびっくりして、その場に立ち尽くす。何が起きているんだ?
 家の中からは相変わらず、怒鳴り声と、何か投げるような音が聞こえてくる。それに混じってユキの悲鳴が聞こえだした時、僕は我に返った。何だかよくわからないけど、家の中で大変なことが起きている。
 僕はユキの家のブザーを鳴らした。でも、誰も出てこない。罵声とユキの悲鳴は変わらず聞こえてくる。僕はユキの家のドアをどんどん叩き「ユキ! ユキ! おい、ここを開けてくれ!」と叫んだ。今が深夜だなんて、構ってられなかった。とにかく、ユキを助けたかった。
 ユキの家のドアは開いてくれず、僕は手が痛くなるぐらいまでドアを叩き、声を張り上げた。その時、隣の家のドアが音を立てて開いた。
「あんた、何やってんの?」
 中から出てきた中年の女性は、うっとうしそうに僕を睨んだ。騒音公害だとでも言いたそうだ。事実そうだろうけど、今はそれどころじゃない。
「この家の中から女の子の悲鳴が……」
「ああ……なんか知らないけど、しょっちゅうやってるのよね」
「しょっちゅうだって!?」
 僕はその女性に詰め寄った。女性はけだるそうに、先を続ける。
「今年の六月ぐらいからかな。歌愛さんとこ、なんか、新しい男が同居するようになって。それから、よく荒れるようになったのよね」
 僕は、怒りで目の前が真っ赤になるかと思った。僕が東京に出ている間に、ユキがそんなことになっていたなんて。
「なんか厄介そうだしかかわりあいにならない方が……」
「失礼します」
 僕は女性を遮って、彼女の家の中に入った。女性が慌てる。
「ちょっとあなた!」
 やかましい。今は一刻を争うんだ。さっきから、物音は聞こえているのに、ユキの声が聞こえないんだ。早くなんとかしないと。
「ベランダはどこです」
「あっちだけど……」
 僕の剣幕に押されたのか、女性は奥を指差した。僕はそっちへ向かって、ベランダに出る。ユキの家は隣だから、こういう集合住宅ならベランダ伝いにいけるはずだ。
 予想どおり、隣の家とはベランダで繋がっていて、隔壁で仕切られているだけだった。力いっぱい蹴ると、隔壁は何とか壊れた。
 ユキの家のベランダに出た僕は、窓に飛びついた。カーテンがかかっているので中は見えない。どうせ声をかけても返事はないだろうから、窓を思い切り蹴破って、鍵を外して中に飛び込む。不法侵入プラス器物損壊。いや、いいんだ。ユキの方が大事だ。
「誰だお前は!?」
 中には、中年の男性と女性がいた。ユキの母親と、一緒に住んでいる人らしい。無視して、僕はユキを探した。
「ユキ!」
 ユキは、床に倒れてぐったりしていた。駆け寄って抱き起こす。
「ユキ、ユキ、しっかりしろ!」
 ……ユキは動かない。まずいぞ。救急車を呼ばないと……。
「おい、人の家の窓割りやがって、てめえ何様のつもりだ!」
 男が僕を怒鳴った。こいつは、ユキより窓の心配なのか!? ユキを一度床におろすと、僕は力いっぱいその男を殴った。男が、拍子抜けするぐらいあっさり倒れる。
 ……誰かを本気で殴ったのは、これが初めてだった。男が鼻血を噴きながら情けない表情で、ずるずると後ずさっていく。完全に戦意喪失したらしい。
「ああああの……一体何を……」
 ユキの母親がうろたえた声をかけてくる。……僕はユキの母親を無視して電話を探すと、救急車を呼んだ。警察と、自宅にもかける。両親は寝ていたのでなかなか出てくれなかったが、しつこくコールすると起きてくれた。僕は「ユキの家にいる。ユキが大変なんだ。すぐ来てほしい」というと、「わかった」という答えが返って来た。
 そして僕が電話をかける間、ユキは身動き一つしなかった。


 救急車と警察が来る頃には、僕の父さんと母さんも来てくれた。僕はとにかくユキが心配だったけど、警察に事情を説明しないといけない。ユキには、母さんが付き添ってくれることになった。
 ユキと一緒に暮らしていた男――母親の恋人らしい――は、「あいつがいきなり窓を割って侵入してきて、俺を殴ったんだ!」と言っていたが、隣の人が「この家から女の子の悲鳴が聞こえて、それでこっちの人が踏み込んだ」と説明してくれた。多少の良心は持ち合わせていてくれたらしい。
 とにかく全員――僕、ユキの母、その恋人、隣の人、僕の父さんまで――が、警察に連れて行かれる。そして調書を取られた結果、僕は「帰っていい」と言われた。ユキの母とその恋人は、しばらく拘留されるようだ。
 僕は父さんと一緒に、ユキが搬送された病院へと向かうことにした。病院へと向かう間、僕も父さんも何も言わなかった。何か話すのが怖かった。僕たちは無言で、病院へと急いだ。
 病院の夜間受付では、母さんがあらかじめ事情を話しておいてくれていたらしく、名前を言うとあっさり入れてもらえた。
「ユキは?」
 待合室には、母さんがいた。母さんに、ユキの容態を尋ねる。無事なのか、それだけが気がかりだ。
「キヨテル、あんたの方こそ大丈夫だったの?」
「ユキを助けるためにやむをえなかったってことは、わかってもらえた。それでユキは?」
「今、集中治療室なの。お医者さんが予断を許さないって……」
 母さんの顔は真っ青だった。一体、あいつは何をしたんだ。そしてユキの母親は、なんであんな奴を見過ごしていたんだ。
「……救急車の中で見たんだけど、ユキちゃん、痣だらけだったの。きっと痣を見せたくなくて、うちに来るのをやめたんだわ」
 母さんの声は震えていた。僕は、悔しくてならなかった。なんで……。なんでこんなことに……。
「泊めてやればよかった」
「キヨテル?」
「ユキ、言ったんだ。『お兄ちゃんのところに泊まりたい』って。ユキの母さんに連絡せずに泊めるわけにはいかないって言ったら、飛び出して行ってしまって……何も訊かずに、泊めてやればよかったんだ」
 家に戻ればどんな目に遭うのか、わかっていたんだ。僕が泊めてさえあげていれば……そうしていれば、ユキが病院に運び込まれるようなことにはならなかったはずなんだ。
 僕たちは、待合室で身を寄せ合って、ユキの無事を祈った。でも……。
 明け方頃だった。担当のお医者さんが悲痛な表情で「亡くなりました」と告げた。内臓が破裂していて、内出血もひどくて、どうしようもなかったって……。泣き崩れる母さんを、父さんは必死で慰めていた。僕は何も言えず、ただ、宙を睨んでいた。


 ユキの母と交際相手の男は逮捕され、裁判を受けることになった。裁判の席であいつは「懐かないし、言うこともきかない。だから殴った」と言った。そんな理屈があるか、ふざけるな。ユキの体重は、あいつの半分以下。全力で殴ったらどうなるかなんて、少しでも考えればわかるはずなのに。つまらない言い訳しやがって。大体、殴られて懐く子供がどこにいるんだ。
 母親の方も「とにかく、あの人が怖くて……ユキがもう少し言うことを聞いてくれていたら」「淋しかったんです。別れた夫は養育費を払ってくれないし、私も辛くて……」とか、そんなことばかりを繰り返していた。おどおどと辺りを伺いながら話すその姿に、僕はやり場のない怒りを感じずにはいられなかった。
 僕は証言台で、あの日にあったことを全部包み隠さずに喋った。同じアパートの複数の人からも「女の子の泣き喚く声が聞こえた」「悲鳴が聞こえた」という証言があり、二人とも有罪になった。
 でも、僕の気持ちは少しも晴れなかった。思うのは、なんであの日、ユキを泊めてやらなかったのかということ。おかしいことなんていっぱいあったじゃないか。夏なのに、ユキは長袖の服を着ていた。身体についた痣を隠そうとしていたからだって、どうして僕は気づかなかったんだ? 気づいてやれなかったんだ?
 あの日ユキを家にあげて、父さんや母さんを交えてしっかり話し合いをしていたら、ユキの運命は変わっていたかもしれない。虐待の可能性に気がついて、もっと適切な処置を取れていたかもしれなかったんだ。
「母さん、ユキ、本当はなんて言ってたの?」
 ユキが亡くなってから数日後、僕はふっと母さんに尋ねた。
「どの話?」
「前にユキが『お兄ちゃんのお嫁さんになりたい』って言っていたって、言ったよね。どうしてそういう話の流れになったの?」
 母さんはそこだけ話したけど、本当は前後があったんじゃないだろうか。
「えーと確か……ユキちゃん、最初はこう言ったのよね。『ここの家でくらしたい』って。それで母さんがちょっとふざけて『キヨテルと将来結婚したら、ここで一緒に暮らせるわよ』って言ったの。そしたら『じゃあ、お兄ちゃんのお嫁さんになる』って……」
 母さんははっとした表情で黙ってしまった。気がついたんだ。僕もだけど。
 ユキはそれだけ、淋しかったんだ。家に帰ったら、誰かが「ただいま」って言ってくれる、そんな生活がしたかったんだ。どうして僕も母さんも、そのことに気がつかなかったんだろう。
「家まで様子を見に行ってあげるぐらい、簡単なことのはずだったのに……」
 何故それが、できなかったのか。僕も母さんも、そんなことばかりを考え続けていた。考えずにはいられなかった。


 考えても考えても、答えは見つからない。あるのは、焼けつくような後悔だけ。何故助けてやれなかったのか。でも、どれだけ悔やんでも、ユキはもう、戻って来ないんだ。
 だからせめて、ユキみたいな子を一人でも減らすために、何かをしたい。

ライセンス

  • 非営利目的に限ります
  • この作品を改変しないで下さい

ロミオとシンデレラ 外伝その二十八【やまない泣き声】後編

 外伝のそのまた外伝という感じで、本編とは直接関係がなく、しかも重い話なので、掲載は結構悩みましたが、載せることにしました。

 この話ではキヨテルがかなり派手なことをやっていますが、実際にこれでお咎めなしなのかどうかは、私にもちょっとわからないです。法的にみれば大丈夫なはずなのですが……うーんどうなのか。こういう人(ユキの母と同棲していた男)に限って、嘘つくのだけ得意だったりするからなあ。

閲覧数:1,738

投稿日:2012/06/19 19:23:24

文字数:5,718文字

カテゴリ:小説

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  • 水乃

    水乃

    ご意見・ご感想

    こんにちは、水乃です。

    この話は、今後の話につながったりはするんですか?ってことはないのかな……
    しかし、ユキが可哀相です……なんていうか、母親だって身を挺して助けようとするわけでもないし。
    どうしてこんなことをする人がいるんでしょうね。

    2012/06/21 13:02:31

    • 目白皐月

      目白皐月

       こんにちは、水乃さん。メッセージありがとうございます。

       この話は注意書きにも書きましたとおり、派生の派生ですので、これだけの独立した作品になります。ただ、もしリンの両親が離婚した際、ショウコさんの方が娘を引き取っていたら、これと同じようなことにはなっていたでしょうね。

       どうしてこんなことをする人がいるのか、というのは、極めて難しい問題だと思います。これを書くために何冊か虐待に関する本を読んだのですが、完全に理解できるとは言い難いです。

      2012/06/21 19:09:13

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