「お嬢、聞こえますか、お嬢」
黒いミニバンの中から、携帯を片手に話す30代の男が一人。
鷹取会幹部の一人、佐藤だ。
「聞こえるわ、佐藤。どうしたの?」
「奴が家から出てきましたぜ。どこかに向かうようだ」
「夕飯の買い出しとかそんなんじゃない?大したことないと思うわ。彼はバッグか何か持ってる?」
「いや、それが何も。手ぶらでさあ」
「てーぶーらー?もう神威君ったら。エコバッグくらい持ちなさいよ、ねぇ?」
「は、はぁ。しかしまだ買い物に行くと決まったわけではないですぜ」
「そう……じゃ、どこに行くのか尾行してもらえる?連絡次第でそっちに行くわ」
「わかりやした。おい、レン」
「はい」
車の中には佐藤のほかに、もう一人いた。佐藤の部下であるレンだ。
レンは任務を佐藤から伝えられると、速やかに車から降りて任務を開始するのだった。
― ― ― ― ―
事が進むのにさほど時間はかからなかった。メールを送ってから五分程すると、すぐに彼女からのメールが返ってきたのだ。
「どうしても今すぐに会って話したい事があるんだ。無礼を承知でお願いするけど、今会えないか」という内容に対して、彼女は「うん」とだけ返してきた。
その言葉だけじゃ短すぎて、何を思っているのかは分からない。
怒っているのかあるいは無感情なのか。どちらにせよ会えば分かる。
彼女の気が変わらないうちに一秒でも早く会って話したい。彼女にだけは真実を知ってもらいたい。
話した所で何が変わるのか、実際の所自分にも分らない。何も変わらないかもしれない。
それでも何かしら変わればいいと思った。
彼女にだけは全てを打ち明けて、自分がやってしまった過ちを彼女の前で土下座しよう。
たとえ何も変わらないとしても、この全身全霊で全てを詫びよう。
彼女の返事を受け、神威はすぐに家を飛び出した。
待ち合わせ場所は街のとある小さな公園だった。夕方の公園に物悲しく日暮らしが鳴いている。
静かな公園の中心、滑り台の横あたりにベンチがあってそこに彼女はぽつりと座っていた。
ボーっとした顔つきで空を見上げている。一体、何を考えているのだろう。
これほど静かな表情をした彼女は今まで見た事が無かった。
自分の知っているリリィは、いつも笑顔で明るかった。なのに今は……。
俺のせいだ。何もかも俺のせいで、こんな事になってしまったんだ。
そう思うと胸が締め付けられた。
「あ」
ふと彼女が空から目をそらした時、目があってしまった。
その場に立っているのも気まずくて、おずおずとベンチの所まで歩いていく。
「悪い……呼び出しちまって。ごめん」
「いいよ、別に」
彼女は怒っているのだろうか。無表情で単調な声なので、察しにくい。
「失礼なのは分かってる。でも、どうしても言いたい事があるんだ。大切なことだから実際に会って話したかったんだ」
「……」
「お、怒ってるか?」
「……」
彼女は返事をせず、うつむいて首を横に振るだけだった。
「ゴメン」
「いいよ、大丈夫だから……」
「リリィ、もしかして泣いてるのか?」
その表情は前髪に隠されてしまっていて窺う事が出来ない。
けれど声は確かに少し涙で濡れていた。
「ゴメン……ゴメン、リリィ!」
「え……ちょっと」
土下座する他になかった。
秘密をばらされたくないという自分の一方的な思いで、ここまで傷つけてしまうなんて。
一体自分はなんて事をしてしまったのだ。
「や、やめてよ、ちょっと神威」
「俺は、最低な人間だ……」
「いいから、顔上げてよ。ねぇ」
「最低だって分かってる。けどそれでも、それでも俺の話を聞いてほしくて……」
「わかった、わかったから。話聞くよ。だからその顔を上げて?ね」
リリィに促されて顔をあげると、彼女は悲しそうな顔をしてこちらを見ていた。
「やっぱり何かあったんでしょ、神威。でなきゃこんな風に謝ったりしないもん」
彼女は何か察していたようだった。
そうだ、何もなければ謝ることなんてなかったし、そもそも別れを告げる事もなかったんだ。
どうしてそういう事になってしまったのか、そのワケを一から説明しようと口を開く。
「俺は、リリィの事が嫌いなわけじゃない……好きなんだ!!」
「え……?でも、じゃあなんで」
「それは……」
言いかけたその時だった。
「かーむいくん!」
「!?」
嫌味なその声が、公園の入り口から聞こえた。聞こえてしまった。
耳に残るその高い声。何度も何度も突き刺さったまま、脳から消えない悪魔の声。
聞き間違いであってほしいと信じて、声のした方を振り返ると……そこに初音ミクが立っていた。
「あ……」
「あー、まーた女の子たぶらかしてる~。ダメだよ、神威君には“私だけ”でしょ?」
言葉を失ってしまった。
思うように酸素が肺の中に入ってこない。呼吸の仕方を忘れてしまったのかと思うほどに。
なんでよりによって今なんだ……くそっ!!
ふと公園の入口を見ると、スーツの男が物陰に隠れるようにしてこちらを監視している。
ここに来るまでの間、ずっと尾行されていたのだろうか。どうして気付かなかったんだ!
ミクは笑顔でこちらに近づいてきた。一見天使のように見える笑顔も、見る角度を変えることで悪魔にも成りうる。神威にとってみればそれは悪魔にしか見えなかった。
「どうしてだよ……くそっ」
「もー神威君ったら、私の見えないとこでイチャイチャしちゃって」
「か、神威?」
ミクの言葉を聞いて、リリィの目には溢れんばかりの涙がたまっていた。
「ち、違う、これは……」
訳を説明しようと思った矢先、ミクに服の襟をぐいと引っ張られた。
リリィに聞こえないようにか、ミクは耳元でその言葉をつぶやく。
「いいの?全部ばらしても」
「く……」
自然に拳に力が入る。
「なんなら今ここでばらそうか?嫌われること間違いなしだね、この犯罪者。おまけに女たらし」
「やめろ、やめてくれ!」
「ふふん、やめてほしい?なら、私が神威君の“公式”の彼女である事を認めてくれたらいいよ」
「こ、公式?」
「そ。要は私が一番だって言ってくれればいいの」
「なんだよ、それ……!」
公式の彼女。ミクが一番……?そんなわけあるか。
公式も何もない、俺にはリリィだけが全てなのに……。
けれど秘密はどうしても知られたくなかった。好きな人に拒絶されるなど、考えたくもなかった。
だからといって「ミクが一番なんだ」という言葉で彼女を傷つけることはもう出来なかった。
「うぅ……」
後ろから、リリィの声が聞こえた。
「えっ」
こらえきれなかったのか、見ると、リリィはすすり泣いていた。
服の袖で涙を拭いながら、それでもなお溢れる涙を必死に抑えている。
そんな痛々しいくらいに哀しい彼女の姿が、そこにあった。
「あーあー。泣かしちゃった」
「お前のせいだ……」
「えー?」
「全部お前のせいだぁぁぁ!!」
彼女の哀しすぎる涙を見て、もう理性を保っている事など出来なかった。
拳を握りしめ、ミクの憎い顔を殴りつけようと思ったその時。
後ろから誰かの手が伸びてきて、身体はあっという間に羽交い締めにされ、関節を取られてしまった。
振りかえると自分よりも背丈の高い、スーツを着た男が立っていて、その男に完全に制圧されてしまっている。
「く、くそ……くそおおおお!!」
怒りと憎悪の混じった、声で叫ぶ。それはある種獣のそれとも似ていた。
神威は恨めしくその憎らしい顔を睨みつける。
殴りたい奴は目の前にいるのに…。
目の前に殴りたい程憎い奴がいるのに殴れないなんて、これほどに腹が立つことはなかった。
「やるわねー。えぇと、名前なんだっけ?」
「レンです」
「レン、ありがと」
「いえ、お嬢が無事ならそれで」
公園の入口に立っていたそいつはいつの間にか、俺の背後を取っていた。
「それで結局、神威君はどっちが大事なの?過去の秘密と、今のあの子と」
「……」
その二択で責められると、もう何も言えなくなってしまう。
「過去の秘密が大事って言うなら、それは尊重するよ。私と付き合い続ける限りは、秘密は絶対にばらさない。あの子が大事って言うのなら、悔しいけどそれも尊重する。あの子と好きに付き合えばいい。でも秘密はあの子にばらす」
「くそ……」
勿論リリィの方が大事だと言えば大事だ。けれど秘密がばらされたら、リリィには確実に嫌われてしまう。そうなってしまえば元も子もない。
だからそういう意味では、過去の秘密も同じくらいに重要だと言える。
……そうか、要するにこれは堂々巡りなのだ。こんな議論を頭の中で続けていても、選択肢は一向にぐるぐると回り続けるだけで、永遠に答えなんて出ないというわけだ。
秘密の方を選べばリリィとは付き合えない。リリィを選べば秘密はばらされ、彼女に非難され軽蔑される。
どちらを選ぶにしても、メリットなんてない。
その上リリィに嫌われる事を恐れている俺は、必然的に秘密の方しか取れなくなってしまう。
二択に見せかけて、実は一つの方向に誘導されているのだ。
「卑怯だ、お前は卑怯の権化だ……!」
「はいはい、なんとでもどうぞ」
「か、神威、これって……どういうこと?どういうことなの?」
涙声のまま、リリィは神威に尋ねた。
リリィには何が起こっているのか訳が分からないようだった。当然といえば当然だ。
いきなり知らない女子やらスーツの男やら現れたりすればそりゃ混乱もするだろう。
神威は黙ったまま、何も答えられなかった。
しばらく重苦しい沈黙が続く。時々彼女のしゃっくりが嫌というほど耳に響いた。
その沈黙を破ったのは、ミクの一言だった。
「神威君はね、私の彼氏なの」
「え……」
「なっ、いきなり何言ってんだよ!」
「神威君ってほら、こう見えて女たらしな所あるんだよ。それでよく他の子ナンパするんだよね。君もその一人って事」
「ちょ、ちょっと待てよ!」
神威がそれを制しようと口を開くも、ミクは淡々と喋りつづける。
レンに縛られているために、動きたくても動けない。動かせるのは口しかなかった。
「君は“二番目”だったんだよ。遊ばれてたの。残念だけど」
「え……あ……」
上手く言葉を出す事が出来ず、リリィはただ溢れてくる涙をぬぐう事しか出来なかった。
「しかもね、神威君には野蛮な噂があるんだよ。学校中のガラスをあ~んな風にしちゃったり、お店の物を無断であ~んなことしちゃったりね、神威君ってホントは犯罪――」
「や、やめろおおおおおおおお!!!」
その声は公園中に響き渡った。それはある種獣の叫びとも似ていた。
今や神威にとって、声を出す事だけが必死の抵抗だった。せめて声でミクの言葉を妨害出来ればよかった。
リリィは唖然としてこちらを見ている。涙は依然として流れ続けているが、悲しみの表情は驚きと呆然に変わっていた。
必死の抵抗も虚しく、聞こえてしまったのだろうか。
そんな彼女を見て、ミクはニヤリと笑い、言った。
「ま、そんな危ない所も含めて私は神威君の事が好きなんだけどね~。神威君だって、私の事好きでしょ?ね?」
そんなわけない!絶対にそんな事はあり得ない!!俺はリリィが好きなんだ!!
なんて言える勇気はもうなかった。心の内ではそう思っていても、口に出す事は出来なかった。
これを否定してしまったら、次は確実にばらされる。ミクは本気だ。
躊躇なく、その黒い過去を全てぶちまけてしまうに違いない。
断じてそう思っているわけではないが、ミクに肯定するほか道はもうなかった。
「……俺は、ミクの事が……好きだっ……」
乾いた雑巾から水を絞り出すように、決死の思いでその言葉を吐き出す。
「えー、聞こえないよー」
「俺は……!」
もう、戻れなかった。ためらっている暇もなかった。
「ミクが……好きだ……!!ミクが、い、一番だっ……!」
神威の声が空に響く。針のようにその声は自分自身に突き刺さった。
「ふふ、ありがとう。私も大好きだよ~。やっぱり私が一番なんだね」
ミクは近寄ると、神威の頭を優しく撫でる。そして……
「!!」
突然の事だったので反射的に身を引いた。だがそれでもミクは離れなかった。
ミクは顔を近づけたかと思うと、いきなり神威の唇に自分の唇を押しあてたのだ。
それは十秒ほどの事だったが、その十秒は神威にとって悪魔の時間だった。
やがてミクは神威から離れると、ミクは顔を赤らめながらも笑顔で言った。
「私達、愛し合ってるもんね」
「……!」
今度こそ本当に言葉が出なかった。
呆然と目の前を見つめるだけで精いっぱいだった。
「そんな……うぅっ……」
リリィはベンチを立つと、その場から逃げるようにして走り出す。
「……!!」
呼びとめたくても声が出ない。
彼女の後を追いたかった。レンに縛られて動けない自分が憎かった。
「待ってくれ、……!!」
やっとの思いで出せたその声も途中で掠れ、その名を呼ぶ事はついに出来なかった。
しかもその頃にはもう、彼女の姿はもう小さくなってしまっていて、必死の思いすら届かなかった。
振りむくことなく、彼女はその場から消えてしまった。
リリィが完全に公園から遠ざかった事を見届けると、ミクはレンに言った。
「もう放してしていいよ」
その瞬間、レンに掴まれていた腕はようやく自由になった。
だからと言ってもう、殴る気力など残っていない。彼女の後を追いかける余裕もなかった。
まるで急に魂の抜けた死体のように、あるいは糸操り人形のように、レンはその場にドサリと崩れ落ちる。
彼の手足を動かす方法を、彼自身見失ってしまったようだった。
「ちくしょう……」
叫び声をあげる気力はなかった。叫んだ所でもう何も変わりはしない。
一気に全身のが抜けた。無力感や罪悪感の前に、混乱した頭を整理するのだけで精いっぱいだった。
「ちくしょう……」
痛みの混じった涙が、その声と共に地にこぼれおちた。
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