UVーWARS
第三部「紫苑ヨワ編」
第一章「ヨワ、アイドルになる決意をする」
その21「運命の日」
運命の12月24日、天気は、雪。
と言っても、チラリチラリと降る程度で、地面に落ちたらすぐに溶けてしまい、積もるとは思えなかった。
これなら、電車が止まったり、階段が凍って足を滑らせるような心配は無用だろう。
時計を見ると、まだ朝の六時だ。しかも、今日は祝日で、みんなまだ寝ていた。
わたしはすでに準備万端で、玄関に立ってスノーブーツを履いた。
少し早いかもしれないが、遅れるよりは遥かにいい。雪の状況も、他では積もっているかもしれない。
制服を着て、コートを着て、わたしはそっと玄関のドアを開けた。
「行ってらっしゃい」
背後から不意に母の声がした。心臓が飛びあがりそうになった。
「行ってきます」
どんな顔をしていいか分からず、振り向かずに玄関を出た。
母が、「頑張って」と言った気がした。願望かもしれず、聞こえない振りをした。
わたしは無心になって駅に向かって歩いた。
試験会場は、東京都内の某所。JRだけで行ける、結構便利な所にあった。
山手線の駅で降りて、徒歩十分にあるダンススクールが今日の試験会場だ。
試験開始まで二時間以上あるのに、早々と着いてしまった。
鍵がかかっていて中には入れなかった。よく見ると、「UTAU学園高校実技試験会場」の張り紙の横に「開場は一時間前から」と書いてあった。
まばらでも、雪が降る日は寒かった。
駅前のファーストフードで時間を潰そうと、振り向いたら見たことのある人が立っていた。
スーツを着た大人の男性で、ポニーテールなんだけど、結んだ先の髪の毛が縦ロールになっている人を、わたしは一人しか知らない。
「マネージャーさん!」
テトさんやユフさんのライブのときステージの側にいた男の人だった。
この寒い日に、マネージャーさんはスーツしか着ていないようだった。コートも、マフラーも、手袋も見当たらない。寒くないんだろうか。
「ああ。君か」
少し意外そうな顔でマネージャーさんはわたしを見た。
「あれ? 今日、受験するの?」
会場付近は受験の始まり、って、ネルちゃんが言ってた。
「はい。今日は、よろしくお願いします」
「ボクは、試験には立ち会わないから。ここの鍵を開けに来ただけなんだ」
残念そうにマネージャーさんが笑った。
「君のパフォーマンス、見たかったなあ」
「ありがとうございます。頑張って、合格するつもりです」
マネージャーさんは鍵を開け、中に入った。
「外は寒いでしょ? 中に入って待ってていいよ」
手招きされ、わたしも中に入った。
入ってすぐに受付のカウンターがあったが、誰もいないのでスルーする。
すぐに突き当たりになって廊下が右と左に伸びていた。左には男子トイレの入口が見えた。
マネージャーさんは右に曲がって、少し長い廊下の真ん中で立ち止まった。
左のドアの鍵を開け、中に入ろうとしてわたしに振り向いた。
「ちょっとここで待っててくれる?」
「あの、よろしければ、お手伝いします」
パイプ椅子を運ぶくらいなら、やってもいいかなと、わたしは思った。
「いや、中は覗かないで。一応、試験会場は時間まで、受験生は入場禁止なんだ」
「分かりました」
マネージャーさんが部屋から持ってきたのは、折り畳み式のディレクターチェアだった。
三脚のディレクターチェアが廊下に並べられた。
〔これって、つまり…〕
「今日は三人が受験するんですか?」
「うーむ。それについては、ノーコメントで」
表のドアを開ける音がした。
二人の女性が入ってきた。二人分の声で分かる。
さっきの突き当たりを右に曲がってくる、大人の女性の姿が目に入った。
落ち着いた感じで和服を着た美人と、金髪でスポーツ選手のような洒落たジャージを着た美人だった。
「テッドさん、おはよう!」
金髪美人は手を上げて挨拶した。
「おはようございます、テッドさん」
和服美人は一礼した。少し関西地方の訛りが感じられた。
「おはようございます。ルナさん。マコさん」
二人が座っているわたしを見た。
「受験生?」
金髪美人のルナという人に聞かれて、わたしは勢いよく立ち上がった。
「はい。紫苑ヨワです。」
そして、慎重に、上がらずに、丁寧に、落ち着いて、深々と、お辞儀をした。
「今日は、よろしくお願いします」
ニコニコ笑顔のルナさんがわたしの前に立った。頭の分、わたしより高い。百八十センチくらい身長がありそうだった。
それから、わたしの頭を軽くぽんぽんと叩いた。
「プリティーで、キュート」
単純に誉められたみたいだった。
ルナさんは、マコさんに手を引かれて会場に入った。
「駄目でしょ。受験生に必要以上に近付き過ぎない、って、デフォ子さんに言われませんでしたか?」
小さい声だったけど、はっきりと聞こえた。
〔デフォ子さん、て、誰だろう?〕
二人が中に入ってドアが閉まる直前、マコさんと目が合った。優しそうな目をしていた。
ドアの向こうからは、机や椅子を動かすような音が聞こえた。
音が止んで静かになるのに三分位が必要だった。
再び入口から二人分の女性の声が聞こえた。
〔誰か来る。わたし以外の受験生かなあ〕
廊下を曲がって入って来たのは、年齢不詳の女性が二人だった。
高校生にも、三十を過ぎた社会人にも見えた。
一人はベレー帽を被って、全身を紫色に統一していた。スーツもパンツも、濃淡の違いはあるが、紫だった。髪がショートカットでボブにまとめられているようだった。
もう一人は、グリーンを基調にしたワンピースのメイド服を着ていた。
ベレー帽を被った人は表情の変化が乏しかった。
メイド服の人は、ニコニコと明るい笑顔のかわいい人だった。
〔あ、ネルちゃんが教えてくれた人!〕
事情通のネルちゃんから二人の写真を見せられたことがあった。
〔ベレー帽の人は、唄音ウタさんで、メイド服の人は、桃音モモさん。UTAU音楽事務所のナンバー1とナンバー2〕
ネルちゃんの情報によれば、社長さんと専務さんのような関係だとか。人気ナンバーワンはテトさんだけど、影で支えているのはこの二人と言っても過言ではないそうです。
ネルちゃんの実技試験の時は、桃音さんがいて、唄音さんと重音さんはいなかったそうだ。
目が合うより先に、わたしは立って深く一礼した。
「おはようございます。紫苑ヨワです」
ウタさんとモモさんの足が止まった。
「本日はよろしくお願いします」
「ああ」
低く掠れたような声が聞こえた。
「よろしく」
あっさり、薄味な声だった。聞いた通りのロボ声だった。
「お顔、上げてください」
鈴が鳴るような可愛い声だった。
顔を上げると目の前に天使の笑顔があった。
「今日は頑張ってくださいね」
二人もドアの中に入っていった。
腕時計を見た。試験開始まであと一時間だった。
寒かった廊下が暖房で暖まってきた。
外はかなり寒いらしい。廊下の窓が結露を起こしていた。
試験開始まであと一時間になった。
「そろそろいいかな?」
独り言でした。
立ち上がって、背伸びをした。そのまま両手を上に伸ばして、ストレッチ運動をいつもの順番で始めた。
身体がほぐれてきたら、いつものアイソトニック運動を1セット行った。
試験に際して、特に服装の指定はなかったけど、練習用のレオタードと学校指定のジャージは持ってきた。
椅子に座ってデイバッグの中を確認していたら、マネージャーさんが出てきた。
「まだ、君、一人だけ?」
やはり、他にも受験生が来るようだ。
「それじゃ、これ」
マネージャーさんにカード式の鍵をもらった。
「奥のドアが更衣室になってて、これはその中のロッカーの鍵。中に入ったら、動きやすい服に着替えてね」
「はい!」
いよいよだ。緊張するなあ。こんな時、ネルちゃんが側にいてくれたら心強いのに。
『そうじゃないよね』
親友の言葉を思い出した。不思議と力が湧いてきた。
わたしは立ち上がって、一歩目を強く踏み出した。
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