思わず足を止めた俺に先に階段を降り切っていたリンは振り返り、慌てたように付け加えた。

「あ、でも結局断ったの」
「何で?」

口が乾くような感覚を無視して尋ねる。

「受ければよかったじゃん。あいつ女子には人気あんだろ」
「えー?正直良く分からないし、なんだか嫌だったから」

扉を開けば一階、そんな場所でリンは振り返る。
屈託のない、俺が一番愛している笑顔で。
無防備で無垢な、その笑顔で。

「それに私の隣にはレンがいてくれるし、恋人とかいなくてもいいかなって」

なんで。

それは閃光のように俺を貫いた。
ゆら、と心の奥で何かが揺らぐ。

なんで気付かないの?
俺がこんなに焦がれるようになってしまった事に、リンは気付かないの?
それともまさか、気付くつもりもないの?
この先ずっと俺は君を見ているしか―――?

―――なら、その手を引いてあげよう。
その考えに俺はゆっくりと握っていた手を開いた。
残酷かもしれない、そう分かっていながら沸き立った感情は理性を無視する。
きっと君は身構えてなんていないから、勢いに負けてあっさりとボーダーラインから踏み出してしまうだろう。
その先にあるのは愛か、破滅か。
正直今はどちらでもいい気がした。こんな状態より、どちらかであった方がまだマシだ。今のままじゃ、余りに辛い。
もう苦しすぎるんだ。君の側にいると渇いて渇いて仕方がないんだ。でも離れたいわけもなくて。
…ねえ、俺にこのままでいろっていうのは、ちょっと残酷過ぎない?
必死で保っていた均衡がいかにたやすく崩れるか、君だって気付けばいい。
衝動に突き動かされ、ずっと欲しかったものに手を伸ばす。

「リン」
「なに、レ」

名前を最後まで呼ばせず、噛み付くようにその唇を唇で塞ぐ。
唇の端から零れた水滴が床に落ちて静かな抗議の音を立てる。時間差で二滴だ。

右手でリンの左手首を、左手で右頬を支える。今まで自制してきた理由、積み重ねて来た注意―――そんな事は全部頭から吹き飛んだ。

さっきジュースを飲んでいたのか、舌先に微かに感じるのは柑橘系の香り。蜜柑かな、リン蜜柑好きだし。
そんな事を考えながら、柔らかくて温かいそこを舌で遠慮なく蹂躙する。
俺もこういうのは初めてだけど、残念、男って知識は随分あるからね。まあ皆が皆そうだとも思わないけど。


突然俺に牙を剥かれたリンは、こんなに嬲ってみてもまだ呆然としたまま硬直している。

そんなに意外だったの、リン?
だとしたら君はちょっと、甘すぎる。

綺麗な形を取ってみるとか理想的な何かを見せてみるとか、折りに触れてそんな事も考えてはみた。俺だって無意味に君を傷つけたくなんかない。
でもそんなの俺達には似合わないと思ったんだ。
どう、リン、違うかな。
少なくとも、そんな風にまどろむ君を起こしてみた所で望む答えが得られるはずがないって俺はちゃんと知ってるよ。だからこうやって叩き起こして、しっかり目覚めてもらわないと。俺がこの行動に出た時点で俺達には既に退路なんてない。

崩れたバランス。ふらつく足元。
さあ、リン。
次のステップを踏み出す決意をしてよ。
でないと二人共、倒れてしまうよ。

「…っ、は、」

少しやり過ぎたかな、と唇を解放すると、リンはぐったりとした様子で俺に身を預けた。
酸欠にでもなったのか、すっかり力の抜けたその体を両腕でしっかり抱き留める。細くてしなやかな感触に優越感じみたものを感じながら、荒く息をつく姿をじっと眺めた。

「なん…で」
「何が」

信じられない、と言いたそうな言葉に俺は少し微笑を浮かべて答えた。
もしかしたら皮肉な笑いにも見えるかもしれない。実際俺としては、今更なんでも何もないと言いたい位だし。
でも目の前の少女が答えを望んでいるから、今だけはきちんと答えてあげよう。

もう隠すことなんてない。思っていること思っていたこと、全て君の前に曝してあげる。質問ならいくらでもしてくれて構わないよ。
だって、今更隠し事をしても良い事なんてないよね?だから全部口にしてあげる。

だから―――君も、想いを全部教えて。

「こんなっ…なんで!」

段々調子を取り戻して来たのか、声のトーンが少し高くなる。
珍しくパニックになっているらしい。それを可愛いと思うのは、不意を衝かれたリンとは違って俺には余裕があるからだろう。

「なんでも何も、リンには分からない?男が女にこんなキスをするって、理由は一つだと思うけど」
「!」

きゅうっ、とリンの瞳が大きくなる。
なんて純な反応。君は本当にこうなる可能性を考えていなかったの?

いや、違うね。

君だって本当は、ずっと前から俺の事を意識していた癖に。
でなければ、あんなにむきになって噂に反応する理由が分からない。

「レン、まさか、私の事」
「うん」

にこり、と俺は微笑む。
君はきっと驚くしかないんだろうね。正確に言うなら、無意識に近いレベルで驚きを装うしかないんだろうね。

でもこの言葉はちゃんと聞いて、向き合って。

「愛してるよ、リン。ずっと前から」

俺の言葉を聞いた瞬間、リンはその青い空のような瞳の眦を吊り上げながら俺の頬を思いっ切りひっぱたいた。

ぱん、という渇いた音と、頬に感じるじわじわと広がっていく痛み。

「…だからって、っ、最低!」
「リン」
「呼ばないで!やめて、ずっとそんな風に見てたの!?」
「そうだよ」
「何よそれ!ケダモノ!卑怯者!」

信じていたのに、リンの瞳がそう叫ぶ。
でも俺にはそれはさして苦痛じゃない。寧ろ、初めて向けられるそんな視線に鼓動が高まるのを感じた。これも悪くないな。

俺を睨み付けていたリンは声にならない感情のせいで身を震わせる。

「――――レンなんか、大嫌い!」

その高くてよく通る声が幾重にも反響する。
俺にぶつけられる、幾つもの負の感情達。
叫びの残響が消える前に、リンは身を翻してその場から掛け去っていた。

ぱたぱたと階段を昇っていく足音を聞きながら、壁に軽く背中をもたせ掛けた。やっぱり緊張していたらしく、異常に込められていた力を手足から抜く。
ぱたん、と何処かの階で扉が閉まる音がした。きっと今頃リンは扉の外で弾んだ息を静めているんだろう。

逃げたつもり?リン。
違う。俺が君を逃がしてあげたんだ。捕まえる事なんて簡単だったけど、それじゃ意味が無いから。

そうだよ。
そうしてもっと思いを昂ぶらせてみて。そして、心の奥にある俺への気持ちも見つけてよ。
俺の踏み出した一歩に応える君の一歩を見つけてよ。

卑怯だ何だと言われても、やっぱり応えてほしい。この手を取ってほしい。でもリンが俺を拒否し、去っていく事になっても仕方がないのかと思う―――やりすぎてしまった感はあるし。


でも知らなかったな。
不思議と感じる爽快感に、堪え切れなかったような笑いが口をつく。人込みの中なら自分にさえ聞こえないようなその笑い声は、静かな非常階段の中ではとてもはっきりと響いた。

世界を壊す傷を刻むっていうのはこんなに心地良い事なんだ。めくるめく陶酔感、そして歪んだ達成感。全てが終わることは、こんなにも甘美なのか。
罪悪感と幸福感、恐怖感と高揚感。相反する感情が意識の中でせめぎ合う。それがまた気持ちいいとか、俺は一体どうしたんだろう。
少なくとも正常な判断力は見込めないような気がする。麻酔でも受けたみたいにぼんやりしてふわふわして…ああ、何だこれ。病み付きになりそうだ。うん、気持ちいい。

今は逃げてしまったけど、リンは必ず戻ってくる。曖昧を嫌う性格上、俺との問題を考えて考えてまた改めて話をしにくるのは明らかすぎるほどに明らかなんだから。

その時が心から楽しみで、ドアを開いた俺は暮れ始めた空に目を細めた。










「―――はぁ?」

翌日、俺はリンと仲の良い生徒からとんでもない事を聞いた。

「来てない?リンが!?」
「そう、だから鏡音くんは何か知らないかなって」
「え…えー、マジかよ…」
「へ?」

思わずその場で頭を抱えてうずくまる。
きょとんとした目で見られたけど、取り繕うだけの余裕は無かった。
いや確かに避けられるだろうとは思ったよ。会わないように警戒してくるかもとは思ったよ。実際クラス違うから会わないで済ますことだって出来るし。
でも、だからって、…ええー…

登校拒否される程衝撃的だったとは。

「え、鏡音くん?何、もしかして心当たりあるの?」
「…いや、えー、うーん」
「リンちゃんに何したの!?」


言えるわけがない!


適当にごまかして急いでその場を去る。もしかしたらまた変な噂が立ったりするかもしれないけど、まあそれは良いとしよう。

それにしても。
昨日夢のような時間を過ごしたあの階段下のスペースになんとか辿り着いて、外に通じるドアに背中を預ける。
望んでしたことだし、後悔もしていない。

それに自信ならある。
今まで自分達二人の間に言葉にしなくても繋がる感情を幾度も感じた。それはきっと絆の成せる技で、その絆は正直そこらの血の縁なんかより遥かに強いと思う。言わば、運命ってやつか。
思えば初めから絆はあった。物凄く仲の悪かった俺達、でも今なら分かる。あれは、あっという間に惹かれた事が悔しくて認めたくなかっただけ。

俺達は本音を隠して仲良くなったせいで結局曖昧な位置を確保してしまった。他の誰よりも近い距離にいて、誰よりも相手を分かっているような気持ちになった。敢えて関係を言葉にするなら、友達以上恋人未満とかいう漫画にでも出てきそうなものになるんじゃないだろうか。


リンの無防備な手が取れなくて、俺の手も取ってもらえなくて、俺達の間から消えてくれなかった僅かな距離。他人は寄り添う俺達を見て息がぴったりだなんて評していたけど、それが真実じゃないのは俺達自身には明らかだった。本当はもっとシンクロできるんだと知っていたから。

そして残された距離は逃げ道であると共に俺を追い立てるものでもあった。





「…馬鹿じゃねーの」

つぶった目の上を右腕で覆う。

「ほんと…馬鹿だよ」




誰に向けた言葉なのか、自分でも良くわからなかった。

ライセンス

  • 非営利目的に限ります
  • この作品を改変しないで下さい
  • 作者の氏名を表示して下さい

世界の端でステップを・中

ここからが歌詞対応です。
レンが一番、リンが二番。うちのレンはなぜこんな獣になる…

そしてこの説明文書いているうちにコメントいただきました。凄い!早い!ありがとうございます!

終わりは夜に投稿になりそうです。

閲覧数:947

投稿日:2010/06/14 15:48:57

文字数:4,226文字

カテゴリ:小説

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