目を開いても、薄暗くて、よく見えなかった。
 きらきらしていないから、夢の中ではない。朝でもないだろう。
「夜明けまで、時間があるから、まだ、寝ていられるよ」
 耳に慣れた声が響いて、蓮は、そちらの方を見た。予想通り、海渡が、微笑んでいた。
「ああ……海渡。寝てないのか?」
「全く、寝てないわけじゃないよ」
 微笑んだまま、海渡は、静かに、そう言った。柔らかい響きが、心地の良い揺らぎを描き出す。
「蓮君に必要だと思ったから」
 そう言って、海渡は、蓮を見た。和いだ水面のような顔だった。
 その顔も、その心も、その魂も、いや、その空間自体が、蓮を受け止めようと、待っているのだった。
 そして、確かに、蓮には、目が覚めて、一番に、聴こうと思っていたことがあった。
「なぁ、海渡。この世界で、一番、物知りなのは誰だ?」
 酷く、静かな声が、薄暗がりの中に漂った。はらりと舞い降りた、木の葉のような言葉だった。
「この世界ね」
 その木の葉を、撫でるように、海渡はいった。
「この国じゃなくて」
「ああ」
 視線が邂逅(かいこう)して、閃いた。でも、海渡のそれは、すぐに、緩やかになって、白い指先が、あごに触れた。
「そうだなぁ……音楽を極めることこそが、文武を両立させる、一番の近道と唱えた、不思議な男(おのこ)がいたらしいよ。名前は、神威楽歩(ガクポ)」
 脳裏の辞書でも、めくって、語るように、海渡は、すらすらと、そう言った。
「楽歩……そいつは、どこにいるんだ?」
「それは、僕にも、わからないよ。でも、その男にいたるための歌、楽歩への導(しるべ)なら、知っている。三つ目の月が指し示す光の道を辿れ~異なる力と力で刹那に開く扉潜りて我を訪ねよ」
  三つ目の月が指し示す光の道を辿れ
  異なる力と力で刹那に開く扉潜りて我を訪ねよ
 言葉を確かめるように、蓮も、続けて、歌った。歌いやすい歌だった。旋律も、歌詞も、すんなりと、蓮の中に、染み渡った。
「……そういえば、俺、昨日は、あそこで」
 月という言葉に、昨日のことを思い出して、蓮は起き上がった。その身に、纏われているのも、寝床に合う、寝装束だ。
「大丈夫。周りは、誤魔化しておいたから」
 海渡がそう言うのなら、そうなのだろう。だからこそ、自分は、のうのうと、床についていられて、海渡一人が付いているのだ。
「ありがとう。海渡」
礼を返しながら、蓮の胸は痛んだ。蓮が、今、望んでいることは、海渡も裏切ることになるのだ。
「俺……」
 無意識に、口が動いて、はたと、蓮は口をつぐんだ。海渡には、真実を伝えておきたい。
 でも、このことには、鈴も、鈴の生命も、大きく、絡んでくるのだ。
「悪い。何でもない」
 消え入りそうな声で、蓮は言った。心臓が、押し潰されるように、痛い。
 これが、“裏切る”ということなのだ。
「蓮君。聴いてくれるかい?」
 ふいに、響いた柔らかい声に、蓮は、はっと、顔を上げた。そこには、今までと、全く、変わらない、穏やかな微笑みがあった。
「ああ。何だ?」
 少し、気おされながらも、蓮は、笑みを取り繕って、そう言った。
「昔ね。僕は、何をやっても、てんで、駄目だったんだ。澪音にも、怒られっ放しだったし、海九央にも、あきれられたよ」
 蓮は、思わず、海渡を、まじまじと見た。行動が遅かったり、付け込まれ易いところがあったりする海渡だが、それでも、彼は、誰もが、認める実力者だ。頭の回転だって、本当は、すごく速いし、声量だって、あるし、歌術だって、信じられないくらいに、よく知っているし、舞の切れもある。
「おまけに、相棒すら見つからない。このままじゃ、一生、半人前の烙印を押されかねないって感じだった」
 遠い昔を見るように、目を細めて、語る海渡と、その隣の青彦丸を見る。
 彼らの連携の良さは、定評があるし、蓮は、青彦丸と一緒にいない海渡を見たことがない。生まれたときから、一緒にいるのではないかと思っていたくらいなのに。
「でもね。そんな七歳の時、三つめの月を見たんだ。あんまり、美しくて、知らず知らず、水面の方に、泳いでいた」
 三つ目の月という言葉に、楽歩の歌を思い出し、それから、はたと気が付いた。
 もっと、有名な三つ目の月の神話があるではないか。
「でも、僕の見ている間に、月が割れたんだ。そして、割れた月の片方が、落ちてきたんだ。僕の腕の中に……」
 蓮は、海渡を見た。海渡は、蓮を見ていなかった。遠いどこかを、眩しそうに眺めていた。
「倒れこみながらも、必死に、受け止めたよ。そして、恐る恐る、覗き込むと、金色に輝く、その月の中に、やっぱり、金色に輝く、美しい赤ん坊がいるんだ。その瞳が、パッチリと開いて、信じられないくらいに、澄んだ、水色の瞳が、僕を見たんだ」
 蓮の心が震えた。でも、それは、同時に、海渡の震えでもあるのだ。
「哀しいくらいに、綺麗な瞳だった。生まれて間もないはずなのに、何もかもを、うつしている瞳だった。その瞳を見たとき、決めたんだ。絶対に、強くなって、僕が、この子を守ろうって。どうしてか、わからない。でも、あの神々しい瞬間、生まれ変わったような気がしたんだ」
 何故か、哀しくなった。でも、涙は零れなかった。十四年前の水色の瞳が、涙を零さなかったように、この水色の瞳も、何もかもを、まっすぐに、うつしていた。
「もちろん、すぐに、他の大人たちに、奪われちゃって、長い間、そばによることも、できなかったけどね」
 そう言って、海渡は、ふっと、笑った。泡みたいに、消えてしまいそうな、淋しくて、どこか、おかしい揺らぎだった。
「それに、正確に言うと、その瞳が見ていたのは、僕じゃなくて、空へと昇った、片割れの月だった。いつだって、蓮君は、そうだよね」
 遠い過去を見ていた瞳が、ゆっくりと、蓮を見る。全てを見守り、見通す、海の色の瞳に、蓮がうつった。
「蓮君。僕、知っているよ。君にも、守るって、誓っている人がいる」
 蓮は、ぎゅっと、拳を握った。海渡の視線を、まっすぐに、受け止め、返す。唇をかんだまま。
「その子、鈴ちゃんって言うんでしょ? 空の国の、月の神子の」
「な、何で!?」
 事も無げに、付け加えられた言葉に、その名前に、蓮は、思わず、声を上げていた。
 鈴のことは、細心の注意を払って、隠してきたはずなのに……
「蓮君は、いつも、遠い目して、空や月を見ているもん。ごく、たまに、消え入りそうな声で、呟くんだよ。鈴って」
 蓮は、思わず、口を押さえた。海渡の耳は、群を抜いて良い上に、海渡は、全神経を、蓮に傾けているのだから、音にしないように、随分、気をつけていたつもりなのだが……
「僕の人生は、蓮君で始まっているんだよ。だから、水の国と、一緒くたに、切ってしまうなんて、冷たいんじゃないかい?」
「でも、海渡!!」
 おもしろがるように、はずんだ響きに、その言葉の意味に、蓮は、声を上げた。
「ありがとう。蓮君。でも、しあわせじゃない君を、必要とする、水の国はおかしい。蓮君が、自然体で、しあわせそうにしていられなくちゃ、水の国だって、不自然だよ」
 泣きたいくらいに、いろんな想いが、駆け巡っていた。
 でも、最後に、響いたのは、耳に馴染んだ、海渡の、穏やかで、真摯な声だった。
「海渡……ありがとう………俺に、協力してくれるか?」
 蓮は、ゆっくりと、言った。声は、震えてはいなかった。でも、水のように、かすかに、揺らいでいた。
「もちろん。お安い御用だよ」
 本当に、簡単なことのように、海渡は、笑って、親指を突き上げた。これは、立派な反逆なのに、満面の笑みだった。
 その笑みは胸に染みて、でも、蓮は、微笑った。これから、始めるところなのだから、何が、起こるかわからないのだから、視界を悪くしている場合ではない。

ライセンス

  • 非営利目的に限ります
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双子の月鏡 ~蓮の夢~ 九

自分で書いていて、難なんですが、海渡に惚れました。
カイト兄さんは、確かに、かっこいいと思います。
ちなみに、この話では、海渡は、蓮より、七歳年上の二十一歳です。
澪音は、二十四歳。海九央は、当然、十六歳です。

閲覧数:201

投稿日:2008/09/07 22:20:47

文字数:3,236文字

カテゴリ:その他

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