最終章 白ノ娘 パート8
あの後、どのようにして自分の私室に戻って来たのか。記憶すら曖昧な状態のままで私室へと戻ったハクは、背中越しに部屋の扉を閉めると重い吐息を漏らした。そのまま扉にもたれかかる様にして背中を押しつけたハクは、呻くような声を漏らしながらゆっくりと床へと腰を落として行った。頭は灼熱棒を押し付けられた様に熱く、そして嫌な音を立てて痛む。あの子が、リン。今まで、騙していたのか。マリーという名は偽名だったのか。そう考えながら、ハクはともすれば鼓動が溢れて飛び出してしまいそうな心臓を落ち着かせようと考えて、胸の上に両手を置く。その時、自身の胸とは異なる、硬質な物体に触れ、ハクはびくりと肩を震わせた。そして、懐に納めていたその物体を取り出して、ハクは得体の知れない歓喜を覚えたのである。それは、ナイフ。ミク女王の形見として預かった、ナイフ。ミクさまの仇を討つ。これは天命か。悪ノ娘はここにいる。そして、その命を奪う為の武器もこの手にある。その武器は、その命を奪われたミクさまから預かったものだ。ハクはそう考え、自然と口元が歪むことを自覚した。悪ノ娘リンを、あたしの手で殺す。それが、あたしに与えられた使命。では、いつ行動にでるか。人目に付く場所では流石にまずい。でも、マリーは、いつも午後三時に運河の先、人気の無い海岸へと向かう。あの場所なら、誰の目にも止まることなく、リンを殺すことができるはずだ。相手が戦慣れした戦士であれば話は別だが、マリーとはもう半年近い付き合いになる。戦の経験は無いはずだったし、真っ当な訓練を受けている様子も見えない。背後から忍び寄り、ナイフをリンへと向けて突き立てれば目的は果たせる。ハクはそう計算して、そして小さく呟いた。
あたしが生きていたのは、この為だったのね。ミクさま、もう少しだけお待ちください。すぐにあたしはミクさまの仇を討って見せます。
その呟きは、困惑したように泣き続ける夜虫の音にかき消されて、そしてまるで捏ねたての小麦の様に、どろりと床へ降下して行った。
「ハク、今日もブリオッシュの作り方を教えて。」
ああ、なんて無邪気な表情なのだろう。翌日、午後の礼拝を終えていつものように楽しげな笑顔を見せながらハクにそう声をかけたリンに対して、ハクは思わずその様に考えて、そしてこう言った。
「ごめんなさい、今日は具合が良くなくて。」
残念ね、リン。貴女の人生はあとほんの僅かな時間で終わりを迎える。それまでの小一時間余り、せいぜい楽しむと良いわ。
「そう・・昨日から、具合が悪いの?大丈夫?」
優しいのね、リン。でも、あたしはもう騙されない。貴女はあたしの仇。でも、貴女と過ごした半年間だけはあたしの記憶に残しておいてあげる。
「少し休めば大丈夫よ。」
「そう。」
不安そうな表情ね。そんなにあたしのことが気になるの?人の命を無残に踏みしめて行った貴女が、誰かのことを気にかけるなんて、こんな滑稽な出来事もあるかしら?
「じゃあ、明日は教えてね。」
マリーはそう告げると、少し肩を落としたような、張り裂けそうな不安を抱える様な表情で立ち去って行った。その表情は、しかしハクの元には届かない。もう、貴女に明日は無いのよ。そういえば、貴女は昨晩貴女の代わりにレンが処刑されたと言っていたわね。なら、レンの元に旅立ちなさい。もう、寂しい想いをすることもないわ。でも、貴女はミクさまと同じ所へは行けない。だって、十分に認識しているでしょう?自分が殺されるに値する罪人だって。
ハクはそう考え、興奮の為か、歓喜の為か、とにかく上気した表情のままでハクは一度私室へと戻ることにしたのである。今、丁度一時の鐘が鳴った。後二時間。たったこれだけの時間だけ待てば、あたしの目的を果たすことが出来る。焦っては駄目。もう少しだから、我慢して、ハク。
そう自らに言い聞かせるにして私室へと戻ったハクは、扉を閉じて鍵をかけると、私室に置かれている木製の丸椅子に腰かけ、そしてもう一度懐からナイフを取り出して、それをまざまざと眺めた。未だに一度も使用されていないそのナイフはミクさまから頂いた時と同じような光沢を放っている。そのナイフの鞘をおもむろに抜き放ち、そして現れた舐める様な重たい銀色の光沢を見つめて、ハクは僅かに目元を緩めた。あの時、ミクさまからこのナイフを頂いた時はとても使いこなせないものだと考えていたが、今はこのナイフがとても頼もしい物に見えるから不思議なものだ。人の命を奪うために造られた悲しい道具。だけど、今のあたしにとっては仇を討つための大切な仲間だ。ハクはそう考え、ふと思い立ってベッド脇にある小物箱を眺めた。あの中にはミクさまからナイフと同じく預かっている王家のクリスタルが納められている。噂では魔力が込められた宝石だということだが、成功を祈る為の道具とかんがえればこれ以上適したものも存在しないわ、とハクは考えて、丸椅子から立ち上がると壁際に設置されているベッドに向かい、そして小物箱を手に取った。その蓋を丁寧に開き、窓から刺す陽光に照らされたクリスタルの輝きにほんの少し瞳を細めたハクは、そのままクリスタルを手に取った。その瞬間、陽光とは別の輝きを一瞬、クリスタルが見せる。あなたもあたしの仇討を応援してくれているの?ハクはそう考え、ペンダントとして装着できる王家のクリスタルの鎖を首筋に当てて、そのまま後ろ手でそれを装着した。首筋に当たる、金属のひんやりとした感覚が妙に心地がいい。ハクはそう考え、胸元に納まったクリスタルを優しく握りしめた。そうすると、今まで興奮していた自身に冷静さが戻って来るような感覚が残る。大丈夫、あたしは必ず、ミクさまの仇を討てる。そう自身に言い聞かせるように、ハクは一つ呟いた。
それから、まるで時を刻むことを忘れたかのような長い一時間を過ごしたハクは、おもむろにハクの向かいの部屋、マリーの私室の扉が開かれる音を耳にして、思わず浮足立つような感覚を覚えた。時刻を見る。丁度二時半。良い時間だわ、と考え、ハクは暫くそのまま耳をそばだてた。昨晩よりも音に溢れている日中でマリーの足音を聞きわけることは非常な困難ではあったが、それでも玄関口へと向かっていったことは理解できる。その足音がすっかりと消えた時、ハクはもう一度腰をかけていた丸椅子から立ち上がり、扉を解錠するとその身体を宿舎の廊下へと送り出した。廊下には誰もいない。好都合だわ、とハクは考え、そのまま玄関へと向かうことにしたのである。
「ハク、どこに行くの?」
だから、唐突に湧き起こったその声に、ハクはびくりと肩を震わせ、そして焦りを込めた瞳でその声を出した人物の姿を見つめた。ミレアだった。
「少し、用があって。」
ぎこちない言い方だとは思ったが、ミレアはその言い方を別の意味で捕えたらしい。
「あ、もしかしてウェッジさんとデート?」
その問いにどう答えるのが一番かとハクは暫く思考したのちに、曖昧に頷くことにした。ミレアが勘違いをしてくれているならそれはそれで都合がいいと考えたのである。案の定、ミレアは妙なニヤケ面を作って、ハクに向かってこう言った。
「いいなあ、ハク。私も彼氏が欲しいな。」
年頃の少女らしい無邪気なその言葉に、ミレアならすぐにできるわ、と呟くように答えたハクは、そのままミレアを振り切る様にして宿舎の玄関を飛び出すことにした。既にマリーの姿は見えない。もう街中に出かけて行ったのだろう、と考えたハクはそのまま修道院を飛び出すことにした。途中でウェッジと出会ったら都合が悪い。少し、急いだ方がよさそうね、とハクは考え、僅かに急ぎ足で運河へと向かったのである。それから数分後、ハクは百メートルほど先を歩くマリーの姿を発見して、思わず物陰に身を隠した。だが、マリーは背後に気付く様子もなく、いつもと変わらぬ一定の速度で運河へと向かって歩いている。尾行の経験は無かったが、なんとでもなるだろう、とハクにしては珍しく腹を括り、マリーの後をつけることにしたのである。いつしか道は煉瓦造りの街並みから離れ、少し寂しげな空気を醸し出している運河へと到達する。一つ大きめの帆船が運河を慎重に航行していたが、入港を目前にして目も眩むような忙しさで働いている船員達がまさかハクの姿に疑問を抱く訳もない。ハクはそう考え、ただマリーが振り返らないことだけを念じて歩き続けた。やがて、マリーは海岸へと到達する。以前、生誕祭の折に三人で小瓶を流したあの場所だ。あの時、あたしはミクさまが安らかに眠れるようにという願いを海に流した。きっと悪ノ娘が死んだと知れば、ミクさまは今度こそ本当に安らかに休めるはずだ。あたしの願いは、今日叶う。貴女の願いは、永遠に叶わないけれど。神様は、ちゃんと人の善悪を見ていらっしゃるのよ。
そのマリーは、膝を屈めて、慣れた手つきで小瓶を懐から取り出して、それを波の上に乗せた。その背後にハクは忍び寄り、懐からナイフを取り出す。そして鞘を抜き放ち、両手で構えた。
さよなら、リン。
ハクがそう考えながらナイフを天空に掲げた時、マリーが小さく呟いた。
「レン、会いたいよ、レン・・。」
大切な人を失った。貴女も、あたしと同じなの?いいえ、ハク、違うわ。この子はマリーじゃない。孤独に押しつぶされそうに、何かに救いを求めたくてあがく哀れな少女ではない。ハク、この子はリン。悪ノ娘リンなのよ。
そして、ハクは振り上げた。ナイフを、力任せに、マリーの背中に向けて。
『やめて!』
鐘が、鳴った。三時を告げる鐘、大きく、三つ。マリーの前に立ちふさがるのはいずこかで見た記憶の残る少年の姿。あなたは誰?
『お願いです、リンを、殺さないで。』
修道院の鐘が余韻を残す。ハクの目の前には金髪蒼眼の少年。あなたは、どうしてあたしの邪魔をするの?そこをどいて、あなたはあたしの仇ではないの。ハクがそう考え、ナイフの動きを不意に止めた時、マリーが振り返った。驚くような、喜ぶような表情で、こう叫ぶ。
「レン!」
その短い声が終わる頃、マリーはハクの姿に気付き、そして呆然としたようにハクの瞳を見つめ、そして頭上に掲げられたナイフを見て、そしてこう言った。
「ハク、どうして・・。」
その言葉が、ハクの身体から全ての力を霧散させた。ああ、この子はマリーでも、悪ノ娘でもない。ただ、哀れなリンと言う少女に過ぎない。寂しさを克服したくて、ただあがく弱い少女に過ぎない。そのまま、ハクは糸の切れたマリオネットの様に砂浜へと降下し、両膝を砂浜につけた。ナイフが両手から零れて、砂の上に緩やかに落ちる。小さな砂埃が舞い、それが陽光に照らされて鈍く輝いた後に、リンがハクに向かってこう言った。
「あたしを、殺すつもりだったの?」
妙にはっきりとした口調で、リンはそう言った。その言葉に、ハクは顔を俯けたままで頷き、そしてこう答える。
「あたしは、緑の国に仕えていたの。」
「緑の、国。」
戸惑った様なリンの声がハクに届く。
「あたしは、ミクさま直属の女官だったわ。でも、ミクさまはあたしを逃がしてくれた。死んでは駄目と言い残して。だから、貴女を殺すつもりだった。リン女王、あたしは貴女を殺してミクさまの仇を討つつもりだったの。」
リン女王。その言葉がリンにどのように届いたのかはハクには分からない。だが、リンははっきりとこう言った。ただ少しだけ、寂しげな表情で。
「あたしは、貴女の仇だったのね。なら、貴女にはあたしを殺す権利があるわ。でも、あげられないの。ごめんなさい。この命は、レンから貰ったものだから。だから、誰にもあげられないの。たとえ親友の願いであっても。この命だけはあげられない。」
リン、貴女は。
気が付けば、ハクの両目から大粒の涙が零れていた。リン、あなたはこの期に及んでまであたしのことを親友と呼んでくれるの?どうして、こんなあたしの為に。
「ごめんなさい・・。ごめんなさい・・。」
無意識に零れていたその言葉は、殺しかけたリンに向けたものなのか、それとも仇を討てなかったミクに対するものなのか、ただ判然とせずにハクはそう呟き続けた。そのハクの身体を、リンが精一杯抱きしめる。ミクに抱きしめられた時と同じような、安堵する様な感覚を覚えたハクは、そのままリンに向かって身体を預けた。
ただ、ずっと長い間。
ハルジオン80 【小説版 悪ノ娘・白ノ娘】
みのり「第八十弾です☆」
満「とても切りのいい数字で終わったな。」
みのり「うん。でも次回エピローグがあるよ。」
満「ということで、次回で終了となります。この長い作品にお付き合い頂き、本当にありがとうございました。」
みのり「次回はレイジさんから直接コメントを送るので、あたし達とはここでお別れです。寂しいけど・・。」
満「ま、結構楽しかったな。」
みのり「そうだね。では、またいつか、どこかでお会いしましょう☆では、エピローグまで宜しくお付き合いください☆今日中にうpするので、書き終わるまで暫くお待ちくださいませ。」
満「では、重ね重ね本当にありがとうございました。」
みのり「またね♪」
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R
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薄氷
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