それは、紛れもなくレンだった。
一家無理心中のあった今や、リンにとって唯一人の肉親。
同じ日に同じ両親から産まれた兄であり弟であり、この三年間のリンの拠り代。
あの運命の日以来、文のやり取りだけで会うことはなかったけれど、リンにはすぐに分かった。
別れた日から随分と成長したようで、幼かった面影は少年のそれへと変化し、纏う雰囲気にも夜の空気が見てとれたが、それでも変わらない。
――レンだ。
久々に見た兄弟の姿に安堵したのもつかの間、リンは最も重要なことをやっと思い出して、顔を白くした。
「本当にレン、よね。どうしてこんな所に…茶屋からどうやって…」
後ろ手に素早く戸を閉めると、リンは部屋の中に一歩進み出て止まる。
信じたくないのだというようにレンから視線を外して、茶化して笑うように言った。
ただ、零れたのは乾いた笑み。
もしも、リンが考えていたようにレンが見世から抜けてきたのだとしたら――今更もう引き戻せもしない事態に、全身から力が抜けていく。
そのまま身体の重みに任せて畳に足を着くと、レンが膝をついたまま静かにリンに近寄ってきた。
綺麗な、無駄のない動きだ。
そんなレンの近寄り方を心中で評して、やっと、彼が自分と同じように茶屋で働いてきたのだと実感をする。
抜けたということは、もしかすればリンよりも余程酷い扱いを受けてきたのかも知れない。
そう思うと、今更吐き気がした。
汚れてしまった自分たちの不運を嘆くつもりは最早なかったが、鏡音の両親の元に生まれてきたのが悪かったと思う他にない。
ただ、レンだけは、リンと同じ所まで堕ちて欲しくはなかったなと泣きたくなった。
「そのことで来たんだ、リン。
ここから出て、昔みたいに一緒に暮らそう」
俯くリンの頬に手をかけて上向かせると、顔を合わせたレンは真っ直ぐにリンの双眸を見据えて言った。
「…え?」
リンは突然の言動に絶句するが、彼の願いが叶うことはないのだとすぐに気付く。
――何故なら、彼らは多額の負債と借金という蜘蛛の糸に絡まり、解けない程に巨大なそれに雁字搦めなのだから。
リンは廓の楼主から、彼が肩代わりをした借金については聞かされていたし。また、レンについても同様だと聞いていた。
「でも、そんなの――」
たとえレンの選択肢言うが全てから逃げるということなのだとしても、廓を抜けようとした者の末路など、飽きる程に聞かされていた。
“昔みたいに”暮らすことなど、不可能なのだ。
居た堪れずに呟いて視線を逸らそうとするリンの顔を、レンは強い力で押さえて、もう一度目を合わせる。
リンと同じ碧い瞳は、まるで未来の祝福を信じて疑わないかのようにきらきらと澄んでいた。
「大丈夫。よく考えてみろよ、なんで“俺”が“リン”を買うことが出来たのか…さ」
そうしてリンの心配など分かっているというように、眉尻を下げて、どこか泣きそうなカオで笑った。
その表情にリンは目を見開いて、そういえば先程の番頭とのやり取りはレンとのものであり、それでも廓にリンを出させたのは、レンが何かしたからだろうと思い至った。
答はほぼ二択だった筈だ、金か地位か。
レンにそのようなものがあるとは思えなかったが、ふと彼の着ているのが洋服であることに気付く。
――いくら他国との交流が盛んになり始めたとはいえ、洋服を着ているのなど、ある程度の地位の者か軍人くらいだ。
理解し切れない状況に眉を寄せると、リンは降参だというように首を振った。
「店を辞める方法なんて、三つしかないだろ。病気か何かで死ぬか、借金を返すか…誰かに買われるか」
するとレンは、目を細めて言った。
それがどんな感情を含んだ表情なのか、今のリンには分からなかったのだが、レンの言葉の意味は分かった。
彼女自身が方法として数えてはいなかった、最後の選択肢。
「レンが、買われた…?」
「そ。言葉は分かんないけど、好い感じの夫婦だよ――俺たちの新しい両親だ」
思い付いた答を呟いたリンに頷いて、レンは話を続けた。
さらりと流してしまいそうに軽く言われた、その言葉の持つ意味は。
しかしリンには、彼女たち自身にとって、あまりに大きいように思えた。
二度とは聞くまいと思っていた単語、それがあまりにあっさりと言われてしまい、狼狽える。
「どういうことなの?」
両親。
リンとレンの両親は既に亡くなっている。
その上で俺たちの新しい両親と言ったからには、レンが相手をそう認識したことが分かる。
また、俺たちという言葉と今までの言葉を考え合わせれば、相手の夫婦はリンについても何か考えているということか。
しかも、言葉が分からない。
考え得る可能性を頭の中で挙げてみるが、情報の整理が落ち着かない。
答を求めて見上げれば、レンは話を聞く姿勢になったリンに気付いたようで、腰を落ち着けて座り直した。
それを見て、リンも部屋の奥まで進み、着物を整えて座る。
少しの静寂の後に、レンは静かに話し出した。
「まだ冬の寒い頃に、どっかの商人が偉人連れで来てさ…そいつは俺を見て驚いたカオをして、何も言わずに帰ってった。
次に来た時に連れて来たのが、俺を買った男――ダールベルクだ」
ダールベルクはレンを見て、金は遣るから次に来るまでに客はとるなと番頭に言った。
それから数日後、彼は夫人と通訳と共に店を訪れ、レンの身請けの話を店側に正式に持ち出した。
異人からの申し出に店も初めは渋ったものの、流石に相手も大金を用意すれば後は容易に話は進んだ。
レンを買ったのは、墺太利という国の貴族夫妻だという。
ダールベルク夫妻には息子が一人いたのだが、数年前に戦争で亡くしたらしい。
夫妻の知り合いの商人が、たまたま日本へ来てレンのいた茶屋を訪れ、そうして見つけたのだ――夫妻の息子に、瓜二つの少年を。
彼を見た商人は、すぐさま祖国の夫妻に連絡をとって事の次第を告げた。
まるでどこかのお伽噺のように陳腐な話ではあるが、夫妻はその言葉だけを信じ、欧州から遥々日本へとやって来たのだ。
そして異人の少年でありながら、確かにレンはダールベルク夫妻の息子に瓜二つだった。
息子に瓜二つの少年を見た夫妻は大層喜んだが、その少年は蛮人の中で男色に売られているのだという。
初めは一目見たいと思っていただけであったそうだが、その事実に夫妻は心を痛め、言葉も通じぬその少年を自分たちの元で保護することに決めた。
――保護という名の元に、死んだ息子の身代わりをさせられることは目に見えて明らかだが。
なんとも言えぬ美談である。
屈辱の日々から逃れられるという話に、レンも嫌がる筈がなかった。
しかし、たった一つの心残りを思い出したのだ。
「リンも一緒じゃなきゃ行かない…行けないって言った。俺たちは二人で一つ…そうだろ」
そこまでを聞いて、やっとリンにも得心がいった。
リンを置いて一人で海外に逃げる訳にはいかないと言ったレンの条件を、夫妻は仕方がないと呑んだのだ。
どれくらいか便りがなかったのは夫妻たちとの交渉のせいであり、数日前に届いた文は夫妻がリンのことも身請けするという言葉を得てのこと。
今日レンがリンを買ったのも、夫妻から金を貰いリンや楼主を説得に来る為だったのだろう。
「でも、そんな…」
「二人共、俺とリンのことも分かってくれたみたいだし、きっと大丈夫だ。こんな所、すぐに出してやるって」
なおも否定の言葉を重ねようとするリンに、レンは先程までより幾分温かく笑いながら言った。
けれどその笑顔を拒むように俯き、リンは考える。
夫妻の息子に似ているというレンはいいのだ。
しかしリンは違う――リンとレンが似ていたところで、息子を亡くしたという二人には関係のない話であろうし、またリンの存在自体を既に疎ましく思っているであろうことも、容易に想像が出来た。
実際に身請けをしてもらえるかどうかなど、リンの身請け金を考えなければ分からないことである。
その上、もしその後も疎まれ続けるようなことになれば身請けされたところでどうなるかは分からないし、下手をすればレンにも何か言われるかも知れない。
「リンが心配するのは分かるけど、大丈夫だって。それとも、まさか此処から出たくないとか?」
逃げたい気持ちはあれど、そうそう事態を楽観は出来ないのだと己を戒めて最悪の事態さえ考慮していたリンに、レンはどうしていいのか分からないといった体で――しかし、恐らくは自身も経験した状況に対する、皮肉に似た冗談のように軽く――尋ねた。
「え…?」
ただし。
「冗談――嘘だって。リンだって、こんな所にいるのは御免だよな」
そんな訳がないでしょうと、彼女が怒るのを期待してレンは言ったようだが。
「まさか」
リンは曖昧に言って笑う。
この廓から逃げ出したいと、それ程は思っていなかったことへの動揺を隠しながら。
――自分が此処からいなくなってしまえば会えなくなるであろう、たった一人の顔を思い浮かべてしまったせいで。
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