23.No is
変化はすぐに起き始めた。”死”の名を持つ男がソレを投げつけた先には、
尖った先端を持つ何かの装置らしきモノが、組み上がっている。
あまり大きくはないその装置は、なにやら自発的に動き、小規模な変化を繰り返している。
「……? なんじゃ? 奴がゆらゆらと歪んで見えるぞ? 目がおかしくなったのか?」
老人は、小さな目をごしごしと手で擦りながら、何度も男の方を確認している。
「いえ……、違います。僕も歪んで見えます。でも、歪んでいるのは彼じゃありません。
彼の前にある”空間”が歪んでいるんです。それに……」
ライムはしっかりした眼差しで男の方を見ている。
しかし、その眼差しとは裏腹に、少年の心には言い知れない不安がよぎっていた。
空間の歪みと少年の不安は、比例するように急激にその度合いを増していった。
さらに、それに比例するように、彼の耳に届くある音も、その音量を増していた。
それは、確かにあの空間の歪みの先から聞こえている。
徐々に近づいてくる足音のように、段々と大きく、鮮明に聞こえてきた。
”鮮明” ……その言葉は正確では無いかもしれない。なぜなら、その音には、
意味など無い、リズムも、言葉も、ココロも――。
敵意も、悪意も無い。ただ、ただ、心をかき乱すだけの、雑音である。
謎の雑音に心を囚われている少年の目の前に、折れた刀を持ったミクの背中が立ち塞がった。
少女も何かを感じているのだろうか、刀を握る手は、先程より強く握られているような――
すでに空間は歪みきって、こちらからでは男の姿を確認することすら困難である。
それまでランダムに歪み、波打っていた空間に、ふいに綺麗な一つの波紋が走った。
何もない宙に、指が一本、二本、三本…… 合計十本。
指だけが浮かんでいる。でも、それは歪みの先に居る”何か”を予感させる。
指が現れるたびに一瞬だけ、ライムの耳に聞こえている雑音が大きくなる。
今はまだ、ソレとは大きな壁を一つ隔てて聞いている感覚である。
指は、縦に五本ずつ綺麗に整列した。右手と左手……。
次の瞬間、ピシッという、どこかで聞いた音が聞こえた。
そして、目の前で浮かんでいる右手と左手のちょうど真ん中あたり。
なにもない空中にひびが――。まるで、ガラスにひとすじの亀裂が走るかのように……。
そうだ、ちょうどそんな音だ。
みるみる縦に伸びていく亀裂。
その隙間からは、先ほどとは比べ物にならない程の音量の雑音が漏れ出ている。
右手と左手はさらに力強く左右に亀裂を押し広げていく。
いったい何で出来ているのだろうか? 亀裂の破片がぱらぱらと下へと落ちている。
やがて亀裂の奥に、鈍く光る青い光が見えた。
「ま、まさか…… そんな……」
トラボルタは、恐怖と絶望の入り混じった表情を浮かべている。
そして、両手によって完全にこじ開けられた亀裂の奥の、
もあもあとした歪んだ空間から現れたのは、……ひ……と?
いや、人型の”何か”である。
不気味なその姿は、古い書物に描かれていた悪魔のようである。
それまで、ライムの耳にしつこくも届いていた雑音は、
その者の登場と共に一気にかき消えて、後ろの亀裂もまるで逆再生の映像のように、
みるみる修復されていく。
身長は、その近くに立っているデッドボールと比較すると、
およそ2mくらいはゆうにありそうだ。
書物で見た悪魔と違う所といえば、羽や角が生えていないところであろうか。
その顔は恐ろしいというよりは、不気味という言葉が最も相応しいと思う。
目や口などは、太い糸のようなもので縫われ、塞がれている。
わずかに縫い方に緩みのある右目だけが、ほんの少し開いていて、
そこから、先程見えた鈍い青い光が漏れ出ている。
「……のいず……」
恐怖の真っ只中にいる老人の口から、わずかに言葉が漏れ出てきた。
老人の小さな目は、釘つけられたようにその悪魔の姿を捉えて離さない。
「のいず、ノイズ…… ノイズ。
それは全てを否定する存在。"It is no"
虚無こそがその全てである。"No is it"
No is、ノーイズ、ノイズ、のいず……」
老人は、呪文のようにぶつぶつとつぶやいていたが、やがてその目に正気の光が戻ってきた。
「い、いかん。早く、早く逃げるんじゃ」
トラボルタはしばらくぶりに大きな声で叫んだ。
突然のことにライムが戸惑い、立ちすくんでいると、老人はひっ迫した様子で話しだした。
「なにをしておる!! アレは通称”ノイズ”
日の国が産み出した、最凶、最悪の兵器じゃ。
過去に何度か大きな戦争で使用されたことがあったが、
たった一体で、何千人もの軍隊を一蹴してしもうたこともある」
さらに、危機迫った様子で言葉を続けた。
「とにかく、我々では相手にすらならん。逃げるしか選択肢はないんじゃ。
アレとまともに戦えるのは、"七色の英雄"くらいじゃ。
あやつ、なんであんなものを持っておるんじゃ、どういう状況なんじゃ」
その言葉はデッドボールの耳にも届いたのだろう。
怒りに震える狂人は、その老人をたしなめるように言い放った。
「確かに選択肢は一つしかないよなぁ……。
ただし、”逃げる”じゃなくて、”殺される”だがなぁ。ヒャーハハハハ」
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