「……やっぱり、ここにいたのね、リン」
視線の先には、リンと呼ばれた修道女が立っていた。夕闇に映える金の髪がまぶしい。砂にしゃがみ込んだリンは、服が濡れることを厭わず、ぼーっと水平線の彼方を見つめている。
夕の赤に輝いた、一筋の頬の輝き。
それは、幻か。
「……あぁ、クラリスか」
声で判断したのだろう。言葉こそなんだか残念そうな響きをはらんでいたが、彼女の返事はいい加減だった。まるで、心ここにあらず、と言ったようで。
ただ茫然と茜色の海を眺めるリンに、クラリスは苦笑した。
「あぁって、どういうこと?」
おどけたような口調ではあったが、クラリスのその瞳には憂いの深い赤が映っていた。
この状態のリンは恐ろしい。ふとした拍子に、また悪魔につけ入られてしまいそうで。どこか、遠い所へ消えてしまいそうで。
「……なんでもないよ」
リンは手を海水に浸し、ゆっくりと立ち上がった。そのなにかを隠すような仕草に、クラリスは気づいたようだ。ふらりと海の近くの修道院に帰ろうとするリンの腕を掴む。
「また、おまじないでしょう?」
願いを書いた羊皮紙を小瓶に入れて。
海に流せば、思いは実るでしょう。
図星だったか、リンは足を止め、顔を伏せた。すとんと、膝を抱えて砂浜に座り込む。弱々しい声で、彼女は答えた。
「……うん」
震えた声と、鳴らされた鼻。
クラリスは眉を垂れた。彼女がすがるような思いで「おまじない」に頼る姿が、ひどく幼げで、ひどく年相応に見えたのだろう。その、背中の小ささよ。
彼女がこの世に生を受けてからであった困難の数。
それは、その小さな背には重すぎた。
隣に座り、共に水平線を眺めた。背を、頭を撫でる。
クラリスは問うた。
「今回は、なにを願ったの?」
聞いたところによると、「おまじない」には悪魔の契約を必要とするらしい。そのことをリンもクラリスから聞いているはずだ。なのに、そうまでして願うものとは。
リンはその薄い口を開いた。
「……どうだっていいの。もう、会えないことは知ってるから」
いまいち、話が噛み合っていないような。ぽつぽつと、独り言のようにリンは語る。その一言一言を、クラリスは無言で聞いていた。
だけどね、とかすれた声。
「お願いだから、返事がほしいの……っ!」
リンは腰を丸めた。そして静かに、海に向かって泣いた。毎日沸き起こり、何度吐いても決して癒えない苦しみが、彼女にはあったことだろう。それを少しでも和らげるために、彼女は泣いている。
返事というのがなにか、知っていた。だけれども。
「お願いだよ、アレン……!」
立ち上がり、リンに背を向ける。もうここにいてはいけない気がしたから。
後ろから、聞こえてきた声は。
「……返事してあげなくて、いいんですか?」
クラリスの声に、僕は足を止めた。拳を握り、そっと下ろす。
――いいんだ。これで。
この実態を持たない手では、彼女を抱きしめたくても抱きしめられない。
この実態を持たない体では、彼女を温めてあげることはできない。
この実態を持たない体では、彼女に触れることすら敵わない。
この体は彼女の眼には映らない。この声は、彼女の耳には届かない。
クラリスはほぅっとため息をついた。呆れを隠そうともしない息を混じらせて、僕にそっと耳打ちする。その、低く苛立ちすらこもったような声で。
「なにか、言いたいなら言ってください。……リンのためにも。私が伝えますから」
振り返ると、膝を抱え、声をしゃくり上げて泣くリン――リリアンヌの姿。
声を、伝えてくれる。
伝えられない、僕の代わりに。
クラリスは僕の言葉を待つように、一歩も動かなかった。その様子に、僕は頷いて答える。
僕は動いていた。大地を確かに感じながら、リリアンヌのもとへと。
――リリアンヌ、あのね、
伝えたかった言葉。届かなかった言葉。
僕は手を広げた。その両手で、リリアンヌの短くなった髪を、細い体を抱きしめる。
たとえ触れられなくても。
たとえ熱を感じなくても。
僕らは、姉弟だから。
――生まれ変わるから、
世界の果てに生まれ変わっても。
僕は必ず、君を見つけるから。
その時は、
――その時は、絶対に、遊ぼうね。
僕は笑いながら、砂浜を駆けた。その目は、半分世界を映してはいなかったけど。
きっとじゃない。絶対に。
必ず君に会って、直接返事を言いたいんだ。
耳をつくのは、うるさいさざ波。
その中に紛れて、お菓子を見つけたときのような、小さな笑い声が聞こえた。
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