「巡音さん、大変よくできていますよ」
大学の先生はそう言って、わたしが渡した原稿を置いた。
「ありがとうございます」
「じゃあ、これ、次の分ね」
どさっとプリントが渡される。わたしはそれを、自分の鞄に仕舞った。
「できたら来新学期が始まるまでには仕上げてもらえる?」
わたしはかかる時間を計算してみた。思っていたのよりは量が多いけれど、春休みだってあることだし、時間をやりくりすれば何とかなるだろう。
「わかりました。頑張ります」
わたしは丁寧に頭を下げて、先生の研究室を出た。出てから携帯をチェックする。ミクちゃんからメールが入っていた。
「リンちゃん、食堂にいるから。手紙、届いてるよ」
わたしは足早に食堂へと向かった。中に入ると、ミクちゃんを探す。ミクちゃんは窓際の席で、本を読んでいた。
「ミクちゃん」
「あ、リンちゃん」
わたしを見たミクちゃんはぱっと笑顔になると、本を脇に置いた。わたしはミクちゃんの隣の椅子に座る。ミクちゃんは自分の鞄を開けて、中から封筒を取り出した。
「はい、リンちゃん。お待ちかねのもの」
レン君からの手紙だ。レン君が向こうに行って、もう二年以上になるけど、わたしたちの手紙のやりとりは相変わらず続いている。
わたしは手紙を受け取って、そっと胸に抱いた。わたしとレン君を繋ぐ絆。
「ミクちゃん、いつもありがとう」
「これくらい、何でもないって」
わたしとミクちゃんは、同じ大学に進学した。学部が違うので――わたしは文学部、ミクちゃんは社会学部――前のようにいつも一緒ではないけれど。さすがに、ずっと同じというわけにはいかない。
ミクオ君は違う大学に進学したので、高校の時のように顔をあわせることはなくなった。躍音君もまた別の大学で勉強している。グミちゃんはというと、一年後に、宣言どおり躍音君と同じ大学に合格して、今は一緒の学生生活を送っている。……少し羨ましい。
「……ねえリンちゃん、本当に向こうに行くの?」
ミクちゃんに訊かれたので、わたしは頷いた。上手くいくかどうかわからないけれど、やるだけはやってみるつもり。
「鏡音君、演劇なんて、ただでさえ難しい道に行っちゃったものね……」
「ええ。だから、わたしからあっちに行こうと思う」
大学を卒業したら、レン君のいるニューヨークに行く。少し前から、そのことは決めていた。お父さんはわたしのことはもうどうでもいいみたいだけど、レン君との仲は許してもらえないだろうし。
「……リンちゃんがいなくなったら、淋しくなっちゃうね」
ミクちゃんは、淋しげな口調でそう呟いた。
「ごめんね、ミクちゃん」
わたしがそう言うと、ミクちゃんはぶんぶんと首を横に振った。
「リンちゃんのためには、そっちがいいって。鏡音君と離れてるの、辛いんでしょ?」
わたしが頷くと、ミクちゃんは笑って、わたしの手を握ってくれた。
ミクちゃんと別れて帰宅すると、わたしは自分の部屋でレン君からの手紙を読んだ。ニューヨークでの日常や、学校生活について書かれている。そして、この前わたしが送った物語――少し前から、詩だけではなくちょっとしたお話も書いている――の感想も。レン君の文章はシャープな感じで、わたしには思いもよらなかったようなところから切り込んでくる。それが楽しい。
手紙を読み終えると、わたしはいつものように、クローゼットにそれを隠した。手紙の束の上には、ミミが座っている。わたしはぽんぽんとミミの頭を軽く叩いて、それからクローゼットの扉を閉めた。指輪はいつもと同じように、わたしの首から下がっている。
夕食までの時間、わたしは先生に渡されたプリントを訳す作業をして過ごした。いわゆる「下訳」と呼ばれる作業で、学内でのちょっとしたアルバイトのようなものだ。普通のアルバイトは無理だけど、これならできる。
そうこうするうちに夕食の時間になったので、わたしは階下へ降りて行った。ルカ姉さんはガクトさんと新居で生活しているし、ハク姉さんは相変わらず出てこないので、普段の夕食はお母さんと二人だ。
そう言えば、ルカ姉さんはどうしているんだろう。お正月とかには顔を見せに来るのだけど、あまり会話がないのでよくわからない。そもそもルカ姉さんも、わたしと話なんてしたがらないし。かといってガクトさんに「どうですか」なんて訊くのも気が引ける。
ハク姉さんの方はというと、やっぱり引きこもっているのだけれど、レン君のお姉さんに会うために、時々外に出ている。早朝に出かけて深夜に帰って来るので、今のところ、誰にも気づかれてはいない。ちょっと不思議な気がする。ハク姉さんは、レン君のお姉さんと過ごすのが、楽しいようだった。そのうち、完全に外に出られるようになるかもしれない。
食堂に入ると、お父さんがいた。レン君からの手紙で明るくなっていた気持ちが、瞬時に暗くなる。お父さんと一緒の食事は、味がしないから好きになれない。わたしは軽く唇を噛んで、自分の席に座った。
食事を始めようとすると、お父さんがわたしを呼んだ。
「リン、話がある」
また、わたしに「期待を裏切られた」とか、そういう話だろうか。そんな話、聞きたくない。でも、無視するとお父さんは怒り出す。わたしは乾いた声で「話って?」と尋ねた。
「この前の新年会に、国会議員の石山先生が来ていたのは憶えているか?」
わたしは、曖昧に首を傾げた。はっきり言ってしまうと、新年会に来る人のことはほとんど憶えていない。申し訳ないのだけど、皆同じように見えてしまう。
「憶えていないのか、記憶力の悪い奴め」
そんなことを言われても、憶えていないものは憶えていない。大体、わたしじゃなくてお父さんに会いに来ていたんだろうし。
「その人が、何か?」
「息子の嫁にお前をほしいそうだ」
お父さんの口調があまりにも淡々としていたので、わたしは一瞬、何を言われたのかがわからなかった。
「ほしいって……」
「だから、お前を嫁にもらいたいと向こうは言っている。いい話だから、このまま進めようと思う」
わたしは、唖然としてお父さんを見ることしかできなかった。この人は、一体何を言っているのだろう。それのどこが、いい話だというのだろうか。
何も言えずにいるわたしの隣で、物が落ちる乾いた音が聞こえた。見ると、お母さんがお箸を落としてしまっている。
「あなた……リンは二十歳になったばっかりよ!? それに石山先生の息子さんは、リンより十歳も年上だわ!」
お母さんの声はひっくり返っていた。この話は、お母さんも初耳なんだ。
「だから何だ。傷物のリンをもらってくれると言うんだぞ。ありがたい話だ」
「傷物って……あなたまさか、それを先方に」
「それでもいいと言ってくれている」
わたしは驚きすぎて、言葉が出てこなかった。お母さんが高い声で叫ぶ。
「あなた何を考えているのよ!? そんなことをあっちに言うなんて!」
「仕方がないだろう。事実は事実だし、後からごたごた言われても困る。とりあえずは婚約させて、リンが大学を卒業したら式を……」
「冗談じゃないわ絶対に嫌よっ!」
立ち上がると、わたしは叫んだ。わたしにはレン君がいる。どうしてそんな、会ったこともない人と結婚しなくちゃならないの!? それに、わたしは売りに出される野菜じゃない。
「我がまま言うんじゃない! お前、相手を選べるような立場だと思っているのか!?」
「立場って何よ立場って! 誰が何と言おうと、そんな人と結婚なんかしないわ! 今は二十一世紀よ!」
子供の意志に反して、無理矢理結婚させられる時代じゃないはずだ。お父さんの頭の中ではそうなのかもしれないけど。
「これを逃したら、お前には一生縁談なんか来ないかもしれないんだぞ!」
「だったら一生独身でもいいわ! とにかくそんな結婚は嫌!」
わたしは大声で叫ぶと、お父さんに背を向けて食堂を出た。お父さんと向かい合って食事なんかしたくない。自分の部屋に戻ると、入って来れないように部屋のドアの前にチェストを置いた。ハク姉さんの部屋みたいに内鍵があればいいんだけど、わたしの部屋にはそれはない。というか、もともとどの部屋にもないのよね。ハク姉さん、どうやって内鍵をつけたんだろう。
わたしはため息をつくと、ベッドに座った。首のチェーンを引っ張って、レン君からもらった指輪を取り出し、手の平に乗せて眺める。青紫の石が、きらっと光った。
……わたしが一緒にいたいのはレン君だけ。他の人なんて絶対に嫌だ。お父さんに屈したりなんか、しない。
「うわあ、そう来たの……」
その日の夜遅く、わたしはハク姉さんの部屋で、今日あったことを話していた。ハク姉さんが、呆れ果てた顔になる。
「わたし、お父さんがわからない。わたしが傷物だなんて吹聴してまわるなんて」
確かにレン君と関係は持ったけど、お父さんがわたしを閉じ込めたりしなければ、わたしたちの関係はもっと緩やかに進んでいたはずだ。それに、そんなことでわたしのどこが変わったの? わたしは同じ人間のはずなのに。お父さんの考えることが、さっぱりわからない。
「それは考えるだけ無駄じゃないかしらね」
ハク姉さんはそう答えると、携帯を取り出した。
「一応、メイコ先輩には連絡しておくわ」
「それ……知らせないと駄目?」
こんな話をするのは気が引ける。レン君は向こうで必死だし、心配をかけたくない。
「先輩には知っておいてもらった方がいいと思う。弟さんには言わないよう口止めしておくから」
確かにレン君のお姉さんは頼りになるけど、いいんだろうか。わたしが迷っている間に、ハク姉さんはさっさとメールを送信してしまった。少し気が抜けて、ハク姉さんを眺める。
「リン、あんた平気?」
「うん……多分」
そう答えた時、不意に空腹を感じた。ハク姉さんに話を聞いてもらって、多少なりともすっきりしたせいだろうか。考えてみたら、夕食は食べずにいたのだから、お腹が空いて当たり前だ。
「どうかした?」
「う、うん……ちょっとね、お腹空いちゃって。ご飯食べなかったから」
わたしが答えると、ハク姉さんは苦笑した。それから時計を見る。
「じゃ、何か食べるものでも探す? どうせもうみんな寝ちゃってるわ」
ハク姉さん、いつもそうしているのか。少し後ろめたい気もするけど、わたしは頷いた。二人で部屋を出て、一階へと下りる。なるべく足音をさせないように気をつけながら。キッチンに入ると、ハク姉さんが立ち止まった。
「どうしたの?」
「リン、あれ」
冷蔵庫に、メモが貼ってあった。お母さんの字で「リンへ。もしお腹が空いているのなら、ご飯とおかずは冷蔵庫に入っています。コンロのお鍋にはスープが入っているから、温めなおしなさい」と書かれている。
わたしはびっくりしてメモを眺めていた。ハク姉さんが、ため息をつく。
「リン、食べないの?」
「う、うん……」
冷蔵庫を開けると、確かにご飯とおかず――コロッケと野菜サラダ――が入っていた。冷蔵庫からご飯とおかずを取り出し、スープのお鍋を火にかける。
「……ハク姉さんも食べる?」
ハク姉さんが頷いたので、わたしはお茶碗とスープ皿とお皿を二枚ずつ取り出した。ご飯をお茶碗によそって、レンジに入れる。ご飯が温まったら、次はコロッケ。お皿にコロッケを乗せ、隣に野菜サラダをつけて、温めなおしたスープをよそう。ポットを見るとお湯が残っていたので、それでお茶も入れる。
「いただきます」
「いただきます」
こんな夜更けに、ハク姉さんと差し向かいで食事をするのは変な気分だった。そもそも、ハク姉さんと一緒に食事をすること自体、何年ぶりだろう。引きこもってからだから……六年ぶり?
嫌なことのせいだけど、夜更けにこっそりハク姉さんと食事をするのは、ちょっとだけ楽しかった。
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ご意見・ご感想
雪りんご*イン率低下
ご意見・ご感想
こんにちは、雪りんごです。
とりあえず、リンのお父さんって病気並みにイカレてますね。
多分、医者とかに診せに行っても「あー、ダメですねぇ。あまりに深刻すぎて、治りません」とか言われそうです。
ルカちゃんもハクちゃんもかわいそうに……
ブクマ、もらいます。
2012/05/21 17:24:53
目白皐月
こんにちは、雪りんごさん。メッセージありがとうございます。
イカれているのは確かですが、この人を病院に入れる方法はないんですよ……。
「あまりに深刻すぎて、治りません」ですか。確かにそうなんですが、そんなことを診断したら、多分この人逆ギレして「この藪医者が! 俺のどこがおかしい!」と喚くのは確実でしょう。
余談ですがルカも相当重症ですので、このまま行くと、悲惨なことになってしまいます。ハクも重いのですが、自分で理解していることと、めーちゃんがいることで、ルカよりは多少ましな状態にいます。
2012/05/21 23:30:47
水乃
ご意見・ご感想
こんにちは、水乃です。
聴きたいんですが、リンのお父さんはどうやって育てられてきたんですか?
ここまでとなると、もう彼の親の育て方の問題とまで思えてきました。自分の娘(もしかしたら自分も)が不利になるようなことを吹聴できるなんて……そういう設定(?)ですけど…
でもそのおかげか続きがもっと気になります
2012/05/21 05:41:28
目白皐月
こんにちは、水乃さん。メッセージありがとうございます。
リンのお父さんですか。「基本ほったらかし、気まぐれに構われる、極端な男尊女卑」こんなところですね。両親とも愛情薄いタイプです。
ちなみにリンが以前閉じ込められていた部屋ですが、なんであんなものがあるのかというと、要するに、あそこに以前閉じ込められた人がいたんですね。この辺りはさすがに創作にする予定はないんですが。
ちなみにお父さんがリンが傷物だと向こうに言ったのは「ちゃんとこっちは自己申告したんだから、後からそれが原因でトラブルになってもこっちのせいではない」ということを伝えるせいです。それと苦労アピールですね。「この子を育てるのは大変で」と言いたいんです……全部カエさんに丸投げしてたくせに。
2012/05/21 23:27:53
凪猫
ご意見・ご感想
この父親もう、呆れるくらいダメですね…
2012/05/21 00:53:50
目白皐月
こんにちは、凪猫さん。メッセージありがとうございます。
最初からダメな人ですからね……。
書きながら何度突っ込みいれたかわかりません、はい。
2012/05/21 23:23:35