高校で出会ったその人は、不思議な女性だった。
息の詰まる授業を終えて、賑やかなクラスメイトに混じらずに、ひとりで本を読む僕は、クラスでも一際地味だったと思う。
だけど本を読みだすと、必ず声をかけてくる女性がいた。


「ねえ、さっきの授業、難しくなかった?」


最初は自分に話しかけられているとは思わず読書を続行していた僕だったが、「おーい、氷山くーん?」の声で初めて彼女が僕に話しかけていると気がついた。それ以降、彼女は僕に話しかけることが多くなった。


「まあ、難しかったですけど」
「私一人で宿題終わる自信がないや」
「ノート取れました?」
「いや、全然。さっきの先生板書スピード早いし、消すのも早いし、問題を解いてたら書き損ねた部分があって。それで全然わからないの」
「良かったら僕のを貸しますよ」
「本当? ありがとう! 次の授業が終わったら返す!」


そんなに急がなくても、と声をかける前に彼女は席に戻っていった。
彼女の席は、僕のすぐ後ろ。座ったままでも話はできるのに、彼女はわざわざ立ち上がって、僕の隣で話をする。

そういえば彼女との関わりができたのも、今の席になってからだった。席が近いこと以外、僕らに接点はなかった。
地味で目立たない僕。特別何かした覚えもない。
彼女の方はと言えば、人との関わり方が上手と言うのだろうか、いろんな友達と楽しそうに話しているのをよく見かける。本名は由莉だけど、同じ読み方の花の百合からもじって「リリィ」と皆から呼ばれている。
話していて、よくわかる。彼女は優しく、誰からも慕われている。


「氷山くん、ノートありがとう」
「放課後でも良かったんですよ」
「借りっぱなしは気が引けるから。あと、超大作ができたから一番に見てほしくて」
「人のノートに何かしたんじゃないでしょうね」


僕のノートに落書きでもしたのだろうか。恐る恐る今日の範囲のページを開いた。


「……何も書かれていないじゃないですか」
「さすがに人から借りた物に落書きなんてしないってば。書いたのは私のほう」


ほら、となぜか誇らしげに広げられた彼女のノートには、今日の板書と、妙に味のある眼鏡の絵。


「いやなんで眼鏡なんですか」
「えっ、理由なんてないよ。ただ個人的にうまく描けたから見てほしくって」


それが超大作なのかは僕には判断がつかない。何しろノートを貸してから五分の出来事だ。二十秒で描いたんじゃないかと思ったが、口には出さなかった。


「上手だと思いますよ」
「へへへ、ありがと。あ、授業始まる! また後でね!」


次の授業の教師が入ってきたところで、彼女は急いで自分の席に戻った。
やれやれ。忙しいひとだ。



「ねえ、最近ずっと読んでるその本って難しい?」


別の日、彼女は相変わらず僕に話しかけた。


「うーん、どうなんでしょう?見てみます?」
「えっいいの? ……これ、万葉集?」
「ええ。以前のテスト範囲だったでしょう。調べだしたらはまってしまって」
「すごいね、私、意味を調べるのでいっぱいいっぱいだったよ」
「ははは」


ページをめくると、覗き込む彼女の金髪が僕の肩に触れる。


「私、なんとなく、これが好きだな」


彼女が指差したのは、ある歌だった。
『夏の野の茂みに咲ける姫百合の 知らえぬ恋は苦しきものぞ』
作者は大伴坂上郎女。恋の歌の一種だった。だけどページをめくって数秒で彼女が指差した理由を僕は察した。


「百合、って文字があったからでしょう」
「うん、あだ名リリィだし、親近感があって」
「きっかけはいろいろあれど、それが初めて興味を持った歌なら、それは良かったと思いますよ」
「先生みたいなこと言うなあ。氷山くんは気になる歌ないの?」
「万葉集ってかなり巻数もありますからねえ。まだ特に気になるものは……」
「ふうん」


その表情が寂しそうだった理由はわからなかった。



その日は、二ヶ月に一度の席替えの日だった。
目が悪い人は前のほう、という条件を除けば、席はくじ引きで決まる。誰の隣がよかったとよく文句も出るが、三十四人もの意見を全て叶えるなんて到底無理な話だ。
僕は眼鏡をかけているから、席が前方三列のどこかなのかは確定している。

教卓に置かれたボックスに手を突っ込み、掴んだ紙に書かれた数字は「十二」。黒板に書かれた配置図を見ると、前から二番目、廊下側の席だった。ずいぶん中心から離れたから、一部板書が見えづらかったりするのだろう。
特に誰かの隣ならいいな、という希望もないので、僕には他のクラスメイトほど席替えに願掛けをする理由がない。

そんな中、くじを引きにいった彼女はというと、何か祈るように目を瞑ってボックス内で手を回している。
さっと取り出した紙と黒板を交互に見ると、彼女はなぜか僕の方を一瞬だけ見た。ああ、元の席が僕の後ろだから、僕を見ていたというのは気にしすぎだろう。

全員がくじを引き終わったところで、各々机を移動させる。
机をわざと引きずる音、重いと嘆く声、様々な音に包まれた教室で、真後ろから何かが聞こえた。


「また、近くだったら良かったのに」


即座に振り向いても、彼女は重そうに机をお腹あたりまで引き上げたところだった。そしてそのまま歩いて行った。
さっきのは、本当に彼女の言葉だったのだろうか?



席替え翌日。僕は今日も読書をする。
いろいろ文句を言っていたクラスメイトも、なんだかんだ今の席は悪くないようで、昨日の不満が嘘のように、楽しそうに話している。
授業と休憩時間がかわりばんこに訪れる。

……何か、おかしくないか?
その違和感の理由にすぐに気がついた。休憩時間なのに、僕の周りだけ静かなのだ。
(あれ、今日は寄ってこない)
教室を見渡すと、他の女子と楽しそうに話している彼女の姿を見つけた。
(そんな日もあるだろう)
僕はあまり気に留めず読書を続けた。


結局、その日、彼女は僕に話しかけはしなかった。
彼女の席は、一番窓際の、後ろから二番目。ずいぶん離れてしまった。だけど別に、休憩時間にしか話したことなんかなかったから、その程度の仲だった。
帰りのホームルームが終わる。今日の部活は休みだ。読み終えた本を返しに行こう。

この学校の図書室は、下駄箱の近くを通って突き当たりの場所にある。下駄箱には今から帰る生徒、部活のため外に駆け出す生徒、様々な生徒がいる。
図書室に行くためには隣を横らなくてはいけない。


「えっ、やめちゃうの?あんなに願掛けしてたのに」
「うん、もういいんだ」


彼女と、その友達の声だ。


「知られないのって苦しいよ。それに、気持ちを正面から伝えたところで、彼は迷惑かもと思って」
「そんなの、やってみなくちゃわからないじゃない」
「わかってるよ。だけど、もう、私が読書の邪魔しちゃいけないの」


どうやら、彼女が何かを諦めようとしているらしかった。


「リリィだって本好きじゃない」
「そうだけど、迷惑だってはっきり言われるのが怖いんだ。それに、決めてたの。次の席替えで近くになれなかったら、運がなかったとして諦めようって」


そのまま聞くのも悪い気がして、僕は図書室へ歩いて行った。
受付の、すっかり顔なじみの図書委員に本を渡してバーコードを読み取ってもらう。
さて、次は何を借りようか。僕以外にも万葉集の本を借りている人はいるようで、いつ訪れても何かしらの巻がない。会ったらぜひ話をしてみたいものだ。

先程返却した本の次の巻を手に取る。何気なく後ろの方から本を開くと、裏表紙の裏にブックポケットが貼り付いている。この学校で手書き式の貸出カードが廃止されたのは十五年ほど前らしく、今ではバーコード式になっている。
だからそれ以前からある本にブックポケットがあっても不思議ではないのだが昔、司書の先生が抜き忘れたのか、ブックカードがそのまま挿さっていた。


「わあ、時代を感じるなあ」


現代っ子の僕はもちろん見るのは初めてだ。単純な興味で引き抜いて、そこに書かれていた名前に目を疑った。
『種崎 由莉』──彼女の名前だ。

過去に同姓同名の生徒がいたのか?
そう思ってカードをよく見ると、返却予定日の欄に「R1.10.28」と記載がある。R。令和。ああ、違いない。彼女だ、由莉だ。

動揺して脇に抱えていた鞄を取り落としてしまう。無残に散乱する鞄の中身。本を机に置いて、あわてて拾い集める。
教科書やノートを一冊ずつ鞄に戻していく。最後の一冊は、先日彼女に貸した数学のノート。


「……何か挟まってる」


国語や社会はともかく、数学で配られるプリントはノートには挟んだ覚えがない。さっき落とした時に何か混ざったのだろうか、首を傾げながらその紙を開いた。
それはプリントではない。手書きの文字で書かれていたのは、
『ゆふぐれは雲のはたてにものぞ思ふ 天つ空なる人を恋ふとて』
万葉集収録、読人知らずの恋の歌。
その丸っこい文字に見覚えがある。さっき見たばかりじゃないか。机に置いたブックカードと見比べると、同じ筆跡だった。

──『さすがに人から借りた物に落書きなんてしないってば』
ああ、確かにその通りだ。それに返された時、当日の授業のページしか開かなかった。だから気がつかなかったんだ。
でも、だって、思わないだろう。授業に関係のない、それも事前に書いた紙を、わざわざ挟んで返すなんて。


棚に収められている、他の巻も抜き取る。僕がぶちまけた鞄の中身を拾っている間、図書委員が先程返却したばかりの本をしまっていたらしく、その本も再度手に取る。
以前調べたことがあるからわかることだが、この図書室の万葉集関連の本は全部で十二冊。今誰かに借りられている一冊を除き、十一冊のうち五冊はブックカードが挿さったままだった。昔の司書の人、そんなに残っていてはプライバシーの問題とか大丈夫なのか。
そして、残されたブックカード全てに、彼女の名前があった。
五冊の中には、彼女が好きだと言った歌が載っている本も含まれている。

「恋人」という言葉は恋しいと思っている相手、片思いの場合にも使うことがあるらしい。
彼女は、手の届かないところにいる恋人……好きな人に話しかけるきっかけを探していた。席替えで近くになって、読んでいた本を自分も読んでみようとしたのだろう。
先日、彼女が超大作だと見せてくれた眼鏡の絵。理由なんてないと言ったけど、それはきっと、好きな人がかけている眼鏡を描いたのだろう。
そして今日、彼女は思いを口にすることもなく、片思いを諦めた。
なんてことだ。彼女が、僕を、好きだったなんて。



窓の外を見る。ホームルームが終わったのは十五時半、今は日が傾きかけて時刻は十六時四十分を指している。
(僕は、何をやっているんだ)
急がなければ。本を片付け、カウンター前を横切る際にかけられた「今日は何も借りないの?」に「明日また来ます!」と返して図書室を飛び出した。

先程話を立ち聞きしてしまってから一時間近く経つ。もう帰っているはずの時間が経っているのに、解けた靴紐も気に留めず僕は昇降口から外を見渡す。
さがせ。口下手で本当は内気なあのひとを。
こちらに背を向け、校門へ歩いていく、長い金髪の生徒。
見つけた。


「由莉さん!由莉さん!」


その背に手を伸ばし、駆け出した足は彼女に追いつくことはなかった。
靴紐を結ばずに走ったからだ。前に投げ出した勢いで靴が飛び、僕はそのまま転んだ。
情けない悲鳴が口からこぼれる。幸か不幸か、彼女はそれで僕に気がついたようで。


「えっ氷山く……ちょっとちょっと、大丈夫!?」


こちらに駆け寄る彼女。差し出された手を掴んで立ち上がる。何もかも逆じゃないか。自分が恥ずかしい。


「怪我はなさそうなので大丈夫ですよ。ありがとうございます」
「良かった……」


彼女は差し出したほうと反対の手に本を抱えていた。それは、先ほどの図書館で唯一見つからなかった本だ。


「意味を調べるのでいっぱいいっぱいって、こういうことだったんですね」
「え?」


制服の砂を払ってポケットから出した紙を彼女に見せる。彼女は慌てて僕から紙を奪った。


「ちょ、どこでそれ見つけたの!?」
「僕のノートに挟まってました」
「ええ……じゃあ、もしかして」
「図書室の本、ずいぶん読んでるんですね。きっかけ作りだったんでしょう?」
「うわああ! それ以上言わないで!」


夕焼けに負けない真っ赤な顔で彼女は嘆く。


「あの紙、告白の代わりかと思いましたよ」
「事故よ事故」


じゃあ本当に、彼女は何も告げずに思いを諦めるつもりだったのか。


「それで、私を追いかけて転ぶほどの用事は、私をからかうため?」
「ありつつも君をば待たむうち靡(なび)く わが黒髪に霜の置くまでに」
「……磐之媛命(いわのひめのみこと)の詠んだ歌ね」
「今まで、休憩時間に軽く話しただけの仲だったんです。君は僕の何かを知って好きになってくれたのでしょうけど、僕は君のこと、ほとんど何も知らないんですよ」
「それで、なんでさっきの歌なの」


真剣な顔で僕の言葉を待つ彼女。くるくると変わる表情、その全てが可愛らしい。


「僕が君を好きかはまだわからないですけど、君との話はとても楽しかった。いつか大人になった時、その未来を歩むなら、その隣に君がいたらいいなって思うんです」
「告白通り越して、プロポーズのつもり?」
「それもいいかもしれませんね」


バカ、何言ってんの、とそっぽを向く彼女。
このまま恋しいあなたを待ちましょう。僕の黒髪が白髪になるまで。ああ、確かにプロポーズみたいだ。昔の人はなんてロマンチックな歌を考えたんだ。
だけど、追いかけて転ぶような僕だ。そのかっこよさに頼ったっていいじゃないか。


「君は何故ブックカードに名前を書いたんです?」
「この人もこれ借りたんだー、みたいなやりとりから始まる関係、憧れちゃって」
「実現したじゃないですか」
「それより! 君じゃなくて、さっきみたいに由莉って呼んでよね」


きゅっと握られた手に驚く。僕ら二人、顔が赤いのは夕焼けのせいじゃない。


「あだ名じゃなくて、名前で呼んでくれた人、清輝くんが初めてなんだから」
「ふふ、じゃあ一緒に帰りましょうか、由莉さん」


本から始まった僕らの関係。締めの定型文、めでたしめでたしで片付けられないほど、その未来が明るいことを祈る。

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【キヨリリ】夕暮れに染まる恋歌

劇中の二人は中学生の予定でしたが既に高校と書いているので高校一年生ということで。
ツイッターで書いていた話を少し修正して再録しました。
和歌を使った話を書いてみたかったので、とても楽しかったです。

お題は診断メーカーの「テーマお題でイチャイチャさせったー」様より、「(あれ、今日は寄ってこない)」
https://shindanmaker.com/531520

閲覧数:143

投稿日:2019/11/17 01:31:22

文字数:5,994文字

カテゴリ:小説

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