注意:流血、吐血表現あり。ご注意ください。
華やかなドレスをまとった貴婦人としっかりと正装した紳士たちが集う祝賀パーティの席は、僕にとっても父にとっても最悪の場所だった。この権力抗争で敗れた父がパーティに参加していることは、他の政治家たちにとってもいい笑い話になっているらしい。ちらちらと視線を向けられ、さらには時折ひそやかに嗤うその声を耳ざとく聞きつけ、父の不機嫌は頂点を極めていた。
それでも父が席を立とうとしないのは、やはりあの娘が死ぬ瞬間をその目に見ておきたいからだろう。そしてできるなら、愛娘の死によって、政敵が悲嘆にくれる様をみて、嘲り嗤いたいのだ。
血がつながっているという事実がおぞましく思うほどに、その性根を嫌悪しながらも、僕はずっとこのパーティの主役である少女が、深緑の髪を揺らして静かな笑みをたたえ賓客たちに対しているのを見守っていた。先ほどからずっと料理はおろか水にも手をつけていない。
おそらく「あの薬」は飲み物の中に入っている。液体を料理に混ぜることは難しいし、パーティの席で確実に口にするものと言えばやはり飲み物だろう。とはいっても、僕はどうやって彼女を劇薬の脅威から救うか、その答えをいまだに見出してはいなかった。あせりはいい加減頂点に達しつつある。何より、最後に会ってから二週間もたたないというのに、少しやつれて儚げに見える少女の姿には、ひどく痛々しさを感じた。ああも彼女を追い詰めたのは僕なのだ。今更何を言っても許されるはずもないが、それでも彼女の命だけは何とかして救いたかった。
このまま何にも手をつけるな。そうすれば、君は何も知らずに陛下のもとへ行ける。そう思いながらも、そんな不確定な確率で彼女の命を天秤にかけたくはなかった。何かもっと確実に彼女を救える方法を探さなければ。
そう思っていたら、突然父が立ち上がった。一応僕たちも賓客の一人だ。挨拶をしなければ非礼に当たる。こんなにたくさんの賓客がいる中でそれができるほど、父のプライドは安くはなかった。怒りを押し殺し笑みの仮面を張り付けたまま、ワインの入った杯を片手に、父は僕についてこいと視線で命じる。そのままつかつかと、彼女と、彼女の両親が座る席へ向かうのを見て、僕は静かに立ち上がった。
「この度は本当におめでたいことですな」
表面上は友好的に、父はそつなく挨拶をする。対する彼女の父親も、またそつなく答えを返した。
「世間知らずな娘ですが、陛下のお目にかなうとは、本当に光栄なことです」
僕も肘で促されて、静かに頭を下げた。それから視線を少女に向ける。
座ったまま僕を見上げていた彼女の瞳は、シャンデリアの照明を反射させて悲しく輝いていた。
「……おめでとう。君の幸せを心から祈っている」
感情を表に出さないようにそう言うと、無理やり、といった風に微笑んで、彼女は唇を開いた。
「……ありがとう。たとえ嘘でも、お兄様からそう言っていただけると嬉しいですわ」
悲しい返答だった。だが、それを言わせたのは僕だ。どれだけ詰られようが甘んじて受ける覚悟はあった。だが……だが、彼女の幸せを心から祈っているのは本当だ。彼女の幸福を勝ち取るためなら、僕が身代わりに毒杯をあおることさえ、ためらいはしないのに。
「――おや?」
父が、いま気が付いた、とでも言うように、わざとらしく声をあげた。
「ワインはお嫌いですかな? 全く口をつけていないように見えるのだが」
それは紛れもなく彼女に向けられた言葉だと悟って、僕は振り返り父を見つめる。料理も水も話題にせず、まっすぐに父がワインのことを口にした。間違いない。父が彼女に勧めた、ワインの杯に「あの薬」が入っている。
まずい。こういった席で酒や食事を勧められて飲んだり食べたりしないのは逆に非礼だ。心労がかさんで食事ものどを通らないとしても、一流の作法を教育された淑女である彼女が、父の勧めるワインを飲まないはずがなかった。たとえそれが、父が注いだ酒でなかったとしても、今飲まなければ後々まで、父はそれを種に彼女の父をなじるだろう。だが。
「……いえ、嫌いなわけでは」
「では乾杯と行きましょう。今日はお祝いの席なのですからな」
控え目に答えた彼女にかぶさるように、父が迫る。このままでは父の見えざる手で彼女の口に毒が流し込まれるだろう。だめだ、飲んではいけない。その杯だけは。
だが、今口に出すわけにいかなかった。ここで声を大にして、「そのワインには毒が入っている」などと叫んだところで、いったいこの場にいる誰がそれを信用するというのか。
焦る僕をしり目に、父が目の高さに自分の手にした杯を掲げる。それに応えるように、彼女の両親もまた、杯を掲げた。僕も杯を掲げたのを見て、ためらいがちに彼女が最後に、紅い液体を湛えた杯を手に取る。
「お誕生日を迎えられた姫君の、これからの幸福を祝して」
心にもない父の声。乾杯、という囁くような声が人数分。それからはまるで一秒が一時間にでもなったような気がした。
彼女が手にした杯へ唇を当てる。液体が傾く。
――彼女の唇に赤い液体が当たるその直前、僕がとった行動を、のちの人々はどのように言うだろうか。
愛する人を守るため、あえて非礼を犯して身代わりになった清い心の持ち主と讃えるだろうか。
それとも、かなわぬ想いに身を焦がした末、当然守られるべき礼儀さえも忘れて地獄へ逃げだした、愚か者だと嘲笑うだろうか。
そうだ、なぜもっと早く気がつかなかったのか。
僕のプライドや家名の重さなどより、僕の命などより、もっともっと大切なものを守るためなら、あえて身代わりになることさえいとわないと、そう思った事実に偽りなどない。だとしたら、最後に僕にできることがあるではないか。
――僕は、彼女が毒入りのワインを口に含む直前、その杯を奪い取って自ら呷っていた。
困惑、驚愕、怒り、そして軽蔑。
僕の突然の奇行に、その場にいた者たちは声もなくあっけにとられた。何をしたのかわからないというように、彼女が小さく声をあげる。
「おにい……さま?」
その声に我に返ったのは、彼女の父親だった。鼻息も荒く政敵の嫡男が犯した無作法を問おうとする。
だが、僕はそれに応える余裕を既に失っていた。あおった喉がアルコールではない痛みに裂けたような痛みを訴える。体中が棍棒で内側から殴られているような激痛で視界がゆがみ始めていた。
毒に慣らされたはずのこの身体が、あっけなくその猛威に陥落する。僕でさえそうなのだ、あの華奢な身体がこんなものに耐えうるはずがないと思った。もしも彼女が一口でもこれを飲んでいたら……恐ろしい想像がかえって僕を支える。体中を駆け抜ける激痛に平衡感覚を失いかけながら、それでも危うく砕けそうになる膝に必死で力をこめ、なんとかその場に崩れるのだけは防いだ。
息もできないこの状況で、口を開けば声ではない別のものがあふれそうだ。僕はなるべく苦痛にゆがんだ顔を見られないように深く深く一礼すると、うつむいたままかかとに力を込めて身をひるがえした。
ここで倒れてはいけない――僕は必死で自分に言い聞かせる。何でもないふりをしてこの場を離れなければ。彼女の前で無様な姿をさらしたくない。吐血して倒れるなどもってのほか。
ちらちらと光が眼の奥で瞬く。何度か何もないところでつまずきそうになる。談笑している賓客に幾度か肩をぶつけた。謝る余裕さえなかった。
外へ出たい。この会場から逃げ出したい。この愚かしい激情ももうじき終わりを迎える。彼女は助かった。それだけで十分だ。
ふらつく足取りで開いたままだった窓からバルコニーへ雪崩れるようにして飛び出す。手すりを掴んで口元を押さえた。吐き気などと言うには生温い、身体に残る力の全てが、死ぬ物狂いで不純物を吐きだそうとしている。大切なものまで一緒に。
「……君、具合でも悪いのかね? 人を呼ぼうか?」
痙攣している膝はもはや僕の体重を支える力さえ失っていた。バルコニーの手すりにしがみついて倒れまいとする僕の異変に気が付いたのか、参加客の一人が僕の肩をつかむ。
振り払うこともできず、振り返らされるままに僕は身をよじってその場に膝をついた。その衝撃に、今まで抑え込んでいたものが勢いを増して喉をせりあがってくるのを感じる。口元を押さえた僕の指の間からあふれた物の色を見て、その参加客は思わず僕の肩から手を離し、驚愕に目を見開いた。
肩をつかむ手が離される。僕は片手で口元を押さえたまま、もう一方の手を床について崩れそうになる身体を支えた。
……だがやせ我慢に近いその努力もむなしく、一瞬後、僕の視界が真っ赤に染まり、全身から力が抜けた。
目はきちんと開いているのに、もはや霞がひどくて物を映さない。ほほに当たる生暖かい感触がひどく気持ちが悪い。妙なエフェクトがかかった声が「誰か人を、いや、医者を呼んでくれ」と遠くで叫んでいるのが聞こえた。
自分の吐いた血の上に倒れた僕は、何度か力なくせき込み、そのたびに襲い来る激痛に身をよじろうとしたが、しびれて重りをのせられたような身体は指先さえも満足に動かない。不純物を吐きだした身体は、その勢いで死に向かって全速力で転がり落ちていこうとしていた。
前が見えない。ここはどこだ? 彼女はどこだ、無事なのか。
痺れた頭が断片的に思考を紡ぐ。ぐるぐると回る思考が行きつく先はどこまで行っても彼女だった。
ああ会いたい。彼女の姿を見たい。すでにのどは焼けつぶれ、声を出すことはおろか、息さえもまともにできなくなっていた。視界は白く染まり今自分がどのような状況にあるのかもわからない。体を内側から殴られ続ける激痛に引きつけを起こしたように体が震えている。だがもはや、指先に針が刺さっても気がつかないほど、感覚はなくなっていた。それでも会いたい。
彼女を助けるためならこの命を投げ出しても惜しくはないと思った。その想いに偽りなどなかった。だが怖い。全てを投げ出して彼女にひれ伏し、許しを請いたかった。ひどいことを口にして傷つけたことを謝りたかった。だがもうそれさえもできない。
全身を乱打する毒の痛みより、彼女をこの目に映すことさえできないと嘆きあえぐ胸の痛みの方がずっと堪えがたかった。何も映さない目から、もはや恥も外聞もなく、子供のように溢れる涙を止めるすべがなかった。
ああ許して。僕がすべて悪かったのだから。だから行かないで。僕を一人にしないで。
寒い。寒い。怖い。震えが止まらない。助けて。ぼくをつなぎとめて。
ぼくにはもう、すがれる相手は、君しか。
――ふいに、温かい腕の中に包み込まれる感触があった。もう何も感じ取れないと思われた鼻をくすぐる、森の中を歩いているかのようにさわやかで、それでいて優しい香り。
彼女のコロンの香りだ。ぼくは動かないと思われた腕を必死で動かし、血にまみれべたつく指で彼女のドレスにすがりつく。もう何も見えないけれど、確かに感じる。きみはここにいるんだ。もうどこへも行かないんだ。
ああ、温かい。もう寒くない。もう怖くない。
だってぼくは……もう、ひとりぼっちじゃ……
後日、王のもとへ嫁ぐことが決まっていた娘は、強く拒絶の意を示し、神に仕えて残りの生を生きていくと断固として訴えた。王もその意思の背景を知っては無理に娘を手元へ招くこともできず、すぐにその意に沿って婚約破棄を申し出る。
男の父はそれまでの勢いを失い、翌年政治の表舞台から完全に姿を消した。
――娘は嘆く両親に別れを告げて修道院に入り……以後、決して俗世に戻ってくることはなかったという。
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あああああありがとうございますっ!! リアルで面白いって感想をいただけたの初めてですっ!! 感激ですっ!!!
こ、このくらいの表現なら大丈夫、ですか……? それを聞いて安心しました。
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では、これからも頑張ってくださいねっ!!
2009/03/15 17:33:43