◇◇◇◇
心地よい微睡みが、緩やかに晴れていく。
「ん、んん……」
が、自らの心はまだその微睡みと夢に浸っていたくて、そこになんとか戻れないかと身をよじり、ベッドのシーツに脚を絡める。
……。
あれは……夢、だ。
随分昔、まだアレックスに拾われて数年しか経っていない頃の事。
あの頃はアレックスに子供扱いされるのが気恥ずかしくて、よく「また子供扱いして」なんて嫌がって見せたものだ。
その度、アレックスにいさめられたのも、懐かしい思い出。
あれは、まだ幸せだった頃の事。
人生で最も幸せだった記憶の一つ。
せめてもう少し、その思い出に浸っていたい。
「んん……」
「おーい。そろそろ起きろって」
「まだ……いーだろ。別に……やることもねーし……」
「……。いやまあ、別にいーけどよ。しっかし、お前も口悪くなったなぁ。これもオレのせい、か……?」
そんなつぶやきの後、何かをめくる音が聞こえる。
「……」
やけに近くで聞こえた声に雑な返事をしてから少しして、オレはやっと違和感を覚える。
……?
こいつ、誰だ?
なんでオレのベッドルームに居座ってやがる?
そう思ったものの、跳ね起きる気力なんて出ず、オレはぼんやりとしたまま薄目でそいつを眺める。
「んあ……」
オレの寝るベッドの脇で、そいつはそこそこ立派な皮張りのダークブラウンの椅子に腰かけ、のんびりと赤い表紙の本を読んでいた。
襟の無い無地のシャツの上に、ジャケットを羽織った細身の男は、やけに落ち着いた様子だ。
オレは枕の下へと手を伸ばす。
普段ならそこにいつもデリンジャーを忍ばせている……はずなのだが、枕の下をどれだけ漁っても、使いなれた鋼鉄の感触が指先に触れることはない。
「ははっ。口は悪くなっても寝顔は可愛いままだな」
まだオレが寝ぼけてると思ってるのか、赤い本をサイドテーブルに置いたそいつの指先がほほを撫でる。
銃は無いが……仕方ねぇ。
「テメェ、誰だ。オレが誰か――」
その手を右手でつかんで、左手で殴ってやろうとする――が、その顔をようやくしっかりと見て、硬直する。
「……え? は?」
「なんだよ、起きてたのかよ」
「……嘘。なんで? そんな……ありえ、ない……」
そのはずだ。
彼は死んだ。
オレの……わたしの、目の前で。
彼の血を浴びたことを覚えている。
彼の身体のむせ返る血の臭いを覚えている。
冷たくなっていく身体の温度を覚えている。
葬儀に出たことを覚えている。
棺に納められた彼のことを覚えている。
棺が埋められていく様子を覚えている。
……その墓標で、ヨハンに撃たれたことを覚え……て、いる……?
「……え? わたしも、死んだ……は……ず……?」
「落ち着け」
彼が急にガシッと肩をつかんできて、ベッドに横になったままのわたしの上から、まっすぐにわたしを見てくる。
「落ち着け。ゆっくりと息を吸って、ゆっくり吐くんだ。リンは混乱してっかもしれねーが、少なくとも今は何も脅威は無い」
「でも――」
わたしが彼の拘束から逃れようと身体をばたつかせると、彼は抵抗せずに押さえた肩を離す。
……が、そのまま離れると思いきや、彼は改めてわたしの身体を抱き締めてきた。
そんなことされるとは思っていなくて、呆然と板張りの茶色の天井を見上げる。
「まずは落ち着けって。オレにわかることなら全て教えてやる。だから、とりあえず深呼吸しろ。な?」
耳元で囁くその言葉に、力が抜けた。
それが安心したからなのか、無為を悟ったからなのかは自分でもわからない。
ただわたしは、彼の言う通り深呼吸をする。
吸って……吐いて。
吸って……吐いて。
彼の匂いがする。
……覚えている。
懐かしい、アレックスの匂いだ。
ようやく、彼がアレックスなのだと確信する。
が……しかし。
「え……? なん……で? アレックス……なんでここにいるの……?」
両手を彼のほほへと当て、顔をわたしの目の前へと持ってくる。
その輪郭。
その眼差し。
そのほほ笑み。
とっくの昔に失われたはずの、アレックス・ニードルスピアの……マスターの、わたしの夫の顔だった。
「なんで、なんで……」
「それは……オレにもうまく説明できねーんだけど。まあでも、死後の世界っつーのが一番わかりやすいか?」
「……」
アレックスは、ギュスターヴ子飼いの浮浪者に撃ち殺された。
わたしは、わたしの望む通りにヨハンによって撃ち殺された。
――望みを、復讐を達成した後のわたしにカタをつけるための子として、わたしはヨハンを育てていたのだから。
ヨハンが成し遂げられなかったときのための保険として、正義感の強そうなスコットを手元に置いていたのだが……彼には成し遂げられなかった。
あの子はわたしの望んだ通り、わたしに終止符を打ってくれたのだ。
ともかく、死んでいるはずの二人が会っているというのなら、彼の……アレックスの言う通りなのかもしれない。
「天……国?」
「さてね。仮に天国があったとして……リン。お前は天国に来れるのか?」
「……」
アレックスの言う通りだ。
天国がもしあるなら、わたしの行き先はアレックスのいるこっちじゃなくて、地獄のはずだ。
身体を離し、わたしは上体を起こすと、気まずくなってアレックスから視線をそらす。
見たことの無い、白い部屋だった。そんなに広くはなく、ベッドの他にはアレックスの座る皮張りの椅子とサイドテーブルしかない。病室といった感じではなく、あくまで寝室だ。清潔で、清涼で……これまでに見たどんな空間とも趣が違う。
「そうです、ね。わたしは……マスターに顔向けできるような人間じゃ、ありませんでした。……わたしは地獄に落ちるべき人間で、それを覚悟して、針降る都市を壊滅させました。だから――」
「――だから、オレのそばにいるのは嫌だってか?」
「え?」
とっさに、アレックスを見る。
眼前の、もう会えないはずだった最愛の人は、ひどく優しい顔をしていた。
――今のわたしには、優しくしてもらえる権利も無いのに。
「それ、は……。でもわたしは、大勢の命を奪い、破壊と混乱を増長させたんです。はっきりとしたわたしの意志によって。……だから、マスターのそばにいる資格なんて……。ないんです」
視線を落として、ベッドのシーツを握りしめる。
「話をそらすなよ。資格だかなんだかがあるかどうかじゃねぇ。嫌かどうかを聞いてるんだ」
「でも、だって……」
「リンは、オレの最期の言葉、覚えてねーのか?」
忘れるはず無いじゃない。
血に濡れた貴方を抱き締めながら聞いた言葉。わたしの返事は一瞬遅くて、貴方には聞こえていなかったかもしれないけれど。
「……あの時から、随分時間が経ちました。わたしは、あの頃とは何もかもが違います。貴方の知っている無垢な少女は死にました。ここにいるのは……復讐に全てをつぎ込んだ、罪深き女です」
彼に会えて嬉しいはずなのに、うつむいたわたしの声は、ひどく冷たい。
「……神父の言葉、覚えてっか?」
「それは……」
言われなくても、いつの神父の言葉なのかはわかる。
わたしが神父の説教を聞いたのは一度きり――アレックスの葬儀の席でだけだ。
「聖書の引用だよ。『一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる』……確か、ヨハネによる福音書だ」
「それが……どうしたというのです」
「“彼の輝かしい功績とは、これまで彼が成し遂げてきたものだけではありません。私たちの心に残り、これから成し遂げるであろう数々の未来の出来事もまた、彼の功績となるのです”」
「……」
そういえば、そんなことを言っていたような気もする。
だが――。
「リンのやったことが赦されざることだって言うなら、それはそもそもオレの功績であり、オレの罪でもあるってことだろ」
「そんなことは――」
顔をあげ、アレックスの言葉を否定しようとする。
が、アレックスは笑っていた。
その表情の意味がわからなくて、わたしは言葉を失う。
「オレも、リンの罪を知ってる。けどな、オレは別にリンを責める気なんてねーんだ」
「で、でも……」
「それはお前が決めたことだ。お前がやるべきと感じ、そして決意を持って実行し、やり遂げたことだ。それは……オレの望みとは違ったかも知れんが、リンが自分自身の意志で選び、決めたことなら……しかたねーだろ」
「な、んで……そんな……」
こんなわたしに、そんな……優しいことを言ってくれるの?
「もう一回聞くぞ。オレのそばにいるのは嫌か?」
考える前に、わたしは首を横に振っていた。
それにハッとして、わたしは恥ずかしくなってうつむいてしまう。
「嫌じゃねーなら、いいだろ?」
「でも、そんなこと……」
「オレが、いて欲しいんだよ」
「……」
返答に困り、わたしは黙ってしまう。
そんなわたしの頭を撫で、アレックスは少しだけ笑う。
「あのときの言葉、もう一回、言わなきゃわかんねーか?」
彼のダメ押しの一言に、じわりと込み上げてくる。
顔をあげると、にじむ視界の向こうで、アレックスは変わらず優しいほほ笑みを浮かべている。
「言われなくても……わかり、ますよ。でも……」
声が震えて、うまく話せない。
「でも?」
「もう一回、言って欲しいです……!」
「ハハッ。ったく。しゃーねーなぁ」
そう言って、彼は再度わたしに身を寄せてくれる。
「……リン。愛してる」
「……ッ!」
全身に鳥肌が立ち、うまく説明できない感動に涙がこぼれる。
わたしはアレックスにしがみついて、声をあげて泣き出してしまった。
「ああああっ! マスター。アレックス! アレックス!」
なにか……あの時からずっと耐え、我慢して、強がり続けていたものが決壊し、溢れていく。
「オレはここにいる。リンの隣にな」
「わたし、わたし……貴方に話したいことがたくさんあるの」
なにから言えばいいかわからないくらい、なにもかもがアレックスと話したことの無いものばかり。
「時間なんていくらでもあるさ。これからは一緒にいるんだからな」
「はい……!」
しがみついて離れようとしないわたしを、アレックスは優しく抱き返してくれていた。
彼の体温が心地いい。
頭を撫でてくれるその感触が心地いい。
そんなことを以前考えたのは、どれくらい前だったかわからない。
アレックスが死んでから、そう思ったことなどないはずだ。
「いーもんをやろう」
そう彼がつぶやいたのは、わたしが落ち着くまで、ずいぶん経ってからのことだった。
良いものとはなんだろう、とアレックスを見上げると、彼は上着のポケットに手をいれ、二つのロリポップを取り出した。
それぞれ、緑とオレンジのマーブル模様と、赤と黄色のマーブル模様の包装紙に包まれている。
「……ふふ。相変わらずですね、アレックス」
思わず笑みをこぼし、わたしは懐かしい気持ちで片方を受けとる。
そんなわたしを見て、アレックスはやっと安心したというようにほっと息をつく。
「やっと笑ったな、リン」
「え……?」
言われて、それが意識せずに浮かべた笑みだったと思い知らされる。
作り笑いが当たり前だった。自然な笑いなど、とうに忘れたと思っていた。
わたしは自分の顔に手を当てて、自分が……笑ったのだと、改めて自覚する。
「ほら、食えよ」
アレックスが包装紙を取り、ロリポップを口に含む。
わたしも同じようにして……口の中に広がるその甘さに、また驚く。
「……甘い」
「そりゃそーだろ。飴なんだからな」
したり顔でロリポップを口の中で転がすアレックスに、懐かしさを感じる。
そこでようやくわたしは気づく。
色がわかるということに。
改めて周囲を見回す。
ロリポップの色。
アレックスの座る椅子のダークブラウン。
天井の木の色。
サイドテーブルに置かれた本の赤い背表紙。
白い部屋だと思っていたけれど、よく見ればそれは淡いベージュだ。
ずっとモノクロだった視界が……今は鮮やかな色に満ち溢れている。
「アレックス……」
「ん?」
貴方に会えてよかった。
そして……貴方に再会できて。
失ったはずの色々なものが、わたしに帰ってきた。
笑顔のやり方。
味覚。
色覚。
でも、そうやって戻ってきたものを彼にうまく説明できない。
だから、わたしは彼にただ笑顔を向けて、言葉を紡ぐ。
この人に言わなければならない言葉を。
「わたしも、貴方を愛しています」
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