第三幕はホテルのロビーが舞台。私は舞踏会から一人で帰って来たところ。早めに会場を出たので、私の演じているアラベラは、第二幕終盤の騒ぎのことは何も知らない。
薄暗いホールの中央で、私は今の気持ちを歌う。明日から始まる新しい生活のことを考えた歌を。そこへ、カイトさん演じるマテオが上から降りてきて、私に気づいて驚く。
それはそうだ。何故なら彼は、私と関係を持ったと思っているからだ。第二幕で、アラベラの妹のズデンカは姉の部屋の鍵だと偽って、自分の部屋の鍵を渡す。そして部屋に戻って寝巻きに着替え、部屋を暗くしてマテオを待ち、自分を姉だと思わせて関係を持って、彼を絶望から救おうとしたのだ。……そこまでしなくてもいいと思うのだけれど。で、マテオとしては、ついさっきまで部屋で別れを惜しんでいた相手が、ロビーにいるので驚くというわけ。
「あなた、こんなところで何をしているの?」
「それはこっちの台詞だよ、アラベラ。こんなに遅くに、また出かけたのかい?」
「私は舞踏会から帰ってきたばかりですわ。これから部屋に戻るのです。それでは、お休みなさい」
私はそう言って階段を上がろうとするけれど、カイトさんが変なことをぶつぶつ言い始めるので立ち止まる。
「舞踏会帰りって……部屋に戻るって……女心って、わからないな……」
「……何が言いたいのです?」
「いや、だから、ほら、さ……」
「話なら昼間にしてくださいませんか」
カイトさんが演じているマテオという役は、基本的に血の巡りが悪いのだと思う。微笑みを浮かべながら(笑顔でと台本に書いてあるので、カイトさんが笑いたいわけではない)こんなことを言い出す。
「僕は今日のことを死ぬまで感謝するよ」
冷静に考えるとそれはひどくないだろうか。正直、自分に酔ってないと出てこない台詞だと思う。
「……感謝? 何に? 私たちはずいぶん前に終わっているじゃないですか」
「何もそこまでそらっとぼけなくても」
「私にはあなたが何を言っているのかわかりません。それでは、お休みなさい」
階段を上がろうとするけれど、カイトさんが道を塞ぐのでまた立ち止まる羽目になる。
「待って! もう一度だけ。頼む、君の目を見せてくれ! あの時と同じ目を!」
「何のことですか?」
「十五分前のことだよ」
「十五分前には私は会場にいましたわ」
私とカイトさんはいた、いないで押し問答になる。
「ひどいよ。さっきまで二人であんなに幸せな時を過ごしたじゃないか。どうして、僕に嘘をつくんだい」
「気でも狂ったんじゃないの!? いいかげんにしてくれないと、人を呼びますわ!」
カイトさんはさっきの思い出とやらを歌い始める。私は、身に覚えがないので当惑する。そこへ、正面の扉が開いて、メイコさんとキヨテルさん、がくぽさんにその他大勢が入ってきてしまう。
「アラベラ! そんなところで何をしているの!?」
メイコさんが叫ぶ。一方で、がくぽさんがカイトさんを指差す。
「鍵を持っていったのはこの男だ。間違いない」
がくぽさんはもう何もかも忘れてクロアチアに帰ると言い出す。当惑する私。キヨテルさんは私にこう訊いてくる。
「アラベラ、お前、今までどこにいたんだ? 舞踏会から帰る途中で少尉殿とばったり会ったのか?」
「私は舞踏会から真っ直ぐ一人で帰ってきただけよ。マテオとはこのロビーで会っただけ。お父さん、あなたの娘は嘘なんかつかないわ」
「そうか。お前がそう言うのなら、そうなんだろうな。こんなバカな騒ぎはとっとと忘れよう」
これは娘を信じているというより、博打の場に戻りたいだけなのだと思うけれど、がくぽさんの演じるマンドリカはこれでは納得しない。
「申し訳ないが、アラベラ嬢。私はそなたを許す気にはなれぬ。随分とひどい嘘がお得意なようだ」
「何の話ですか? 私は、あなたに許してもらうようなことは何もしていませんわ。むしろ私の方こそ、あなたを許す立場ではないのですか?」
がくぽさんは、殺意のこもった目でカイトさんを睨んだ。……さすがに怖い。
「あいにく、私は目も耳も鋭いのでな。どちらも鈍いか、あるいは頭が鈍ければ救われたのやもしれぬ。そうすれば、こやつに気づかなかったであろうし、ここでどんな茶番劇が行われているのかにも気づかなかったであろうからな!」
「あなたが何か権利を持っているのだとして、その権利が最近生じたものだとしても、僕は受けて立つよ!」
私は、二人の間に割って入る。
「やめてちょうだい! マテオ、マンドリカさんは私の婚約者だから、怒る権利があるのですよ。一方で、あなたには一体何の権利があるというのですか? さあ、おっしゃいなさい!」
カイトさんは、困惑した表情になる。
「いや、その……」
そういう態度を取るのなら、最初から何も言わなければいいのに。
「このとおりですわ」
「言いかけたことは最後まで言わせてやれ。まだ続くみたいだからな」
「マテオ、あなたがそんなにひどい人だなんて思いませんでしたわ。私を一体どうしようというの? 世間の恥さらしにするおつもり?」
カイトさんはもごもご言っている。がくぽさんは怒っている。もちろんそういうシナリオだからだけれど。
「早く真実を話すのだ」
「僕には話すことはありません」
がくぽさんは私の方を見た。
「この男は、『今夜自分が得た権利により』と本当は言いたいのであろう。そなた一人になら、事実を言うやもしれぬな」
私はカイトさんに声をかける。
「何か言うことはあるのですか?」
「……何も」
「ほう、素晴らしいな、少尉殿。そなたの恋人はなんとも口が堅くていらっしゃるようだ。二人とも全くご立派なことだ」
「ちょっと待て、どういうことだ」
キヨテルさんが割って入る。駄目な父親だけれど、娘を侮辱されるのはさすがに我慢がならないらしい。私は少し離れたところで、心情を歌い上げる。
「もうどうにでもなってしまったらいい。生きていることに何の意味があるというの? この人が私を信じてくれないというのなら。私にふさわしい人でないのなら……」
アラベラの当惑はもっともだ。だって身に覚えがないのだから。とはいえ、シナリオの全体を把握している私自身からすると、マンドリカが怒るのも仕方がないとは思う。一方で、ロビーで騒ぎが起こっているので、ホテル客が野次馬と化して集まってくる。……見世物ですか、これは。
キヨテルさんは娘の為に決闘をすると言い出し、メイコさんがそれを必死で引き止めている。まあ、ピストルは質に入っているのだけれど。
カイトさんは今までの話は全部嘘で、自分たちの間には何もなかった、と言い出すのだけれど、がくぽさんは当然信じない。そして私に真実を話せと迫る。私は当然「今までのことが全部真実です」と答えるしかない。……性質の悪い堂々巡りに落ち込んでしまっている。
「私は見たのだ。そなたと一緒にいた少年が、この男に部屋の鍵を渡すのを」
「……弟が?」
「お願いだから、真実を話してくれ。私は、私の人生を台無しにしたあの男を許さねばならぬのか!?」
「私は真実を話していますわ。それだけが私の味方なのですから」
「これで最後だ。そなたは私たちの婚約の十分後に逢引したその男を愛しているのか?」
「質問に答える必要はありませんわ、マンドリカさん」
私は彼に背を向けて、離れた場所へ行く。二人の仲は、これで決裂してしまったということだ。
「私にふさわしい方がようやく現れたと思ったのに……。どうしてこんなことになってしまったのかしら?」
一方で、がくぽさんは決闘だと騒ぎ出す。従者を呼んで、武器屋からサーベルを買って来いと言い出した。……ふと疑問に思う私。実際に決闘したらどっちが勝つのだろう? おそらくマンドリカだろう。カイトさん演じるマテオも今更逃げる気はないらしく、そこにそのまま立っている。
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